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紙の本
絹と明察
2020/07/15 23:05
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投稿者:雄ヤギ - この投稿者のレビュー一覧を見る
家族主義的な経営者・駒沢は従業員を子どものようにみなし、スト前の従業員も駒沢を父と慕う。しかし駒沢は従業員をという概念を子として愛したのであって、実際の従業員と接することは無く、P309でストの指導者・大槻がはじめて駒沢の顔をしっかりと見るように、従業員もまた駒沢をしっかりと直視していなかった。ストの直後、駒沢が彦根城天守閣にあがって、ストに入った工場を見下ろし、親を天、子を地上の作物に喩えてその反逆に激怒するが、まさしく両者の関係は天と地ほどに離れていたのである。
駒沢と対比する存在として描かれたのが、大槻ともう一人、ハイデガー哲学を信奉する岡野である。タイトルにある「絹」は駒沢やその経営する駒沢紡績、そしてその従業員だろうが、「明察」は岡野をあらわしている。ストを煽動し、結果的に思想で対立する駒沢を死に追いやった岡野だったが、最後の最後で「絹」に囚われてしまう。
紙の本
近江絹糸
2019/09/27 20:03
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投稿者:earosmith - この投稿者のレビュー一覧を見る
近江絹糸の労働争議を基に書かれた小説である。会社はすべて家族であるというのが信条の社長・駒沢と岡野という二人の男を中心に話は展開する。
三島が、数年来のテーマが日本人と父親の問題と語ったように、父たる駒沢の影響下、劣悪な労働環境に甘んじてきた子供である労働者がストライキを起こす。
駒沢は最終的には労働者と和解し、自らの自己欺瞞にも意識が到達し、死んでいく。
駒沢は、子供にそむかれて、そのために明察にたどり着いたのである。
紙の本
父と家族
2001/12/24 23:52
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投稿者:メル - この投稿者のレビュー一覧を見る
昭和29年に起きた近江絹糸の「人権ストライキ」の取材を元にして、この小説は書かれたという。猛烈に働いて、駒沢紡績を大きな会社にした駒沢善次郎。そして、会社の待遇に不満を持つ若い工員、大槻がリーダーとなってストライキを起こして会社の改善に導いていくストーリー。労働者が、経営者に立ち向かっていく物語とすれば、プロレタリア文学の一つと考えても良いのかもしれない。
駒沢善次郎は、若い者には試練を与えなくてはならないと考えている。この試練が、後に人を成長させ、幸福に導いていくと信じて疑わない。だから、工員たちを徹底的に管理している。それが人権を抑圧しているとは少しも思わない。なにしろ、工員すべては、自分の娘であり、息子であると信じているから。このような前近代的な家父長の姿は、近代的な思想を持つ岡野には、愚かしい人物として写るのだ。
ストライキは、大槻らの勝利で終結する。大槻は恋人の弘子と無事結婚する。二人は、新婚旅行として石山寺に行く。そこで、「源氏物語」が書かれた部屋を見ながら、大槻はこう思う。
《それがいかにも座敷牢を思わせるところから、もし伝説が真実で、ここであの長い物語が書かれたことが本当なら、紫式部は狂気だったのではないかと大槻は想像した。(略)彼はどんな理由にもせよ、こんなところに住まなければならない生活を朗らかに拒否すべきだと思っていた。それは彼の夢みる明るい自由な生活の正に反対だった。いかなる種類の狂気からも遠く、彼の夢みる部屋は、明るく、快適で、簡浄で、程よく富み、家族の笑い声に充ちあふれていなければならなかった。》
この部分は、おそらく戦後の日本の高度経済成長時の理想の家族の姿ではないだろうか。きっと、大槻と弘子はこの理想の家族を目指して、働き続けるのだろうと思う。
ここで物語が終れば、前近代的なもの(=悪)が負け、近代的なもの(=善)が勝つという単純な勧善懲悪の物語だけど、三島由紀夫の用意した最後の10章が何とも予言的で奥深さというか恐ろしさを感じさせる。というのは、大槻らの勝利は本当の勝利でないことを暗示させるからだ。
《かれらも亦、かれらなりの報いを受けている。今、かれらは、克ち得た幸福に雀踊しているけれど、やがてそれが贋ものの宝石であることに気づく時が来るのだ。折角自分の力で考えるなどという怖ろしい負荷を駒沢が代わりに負ってやっていたのに、今度はかれらが肩に荷わねばならないのだ。大きな美しい家族から離れ離れになり、孤独と猜疑の苦しみの裡に生きてゆかなければならない。幸福とはあたかも顔のように、人の目からしか正確に見えないものなのに、そしてそれを保証するために駒沢がいたのに、かれらはもう自分で幸福を味わおうとして狂気になった。》
一体、駒沢善次郎とはなんだったのか、ここにきて再び考えさせられる。単なる、封建的な時代錯誤の人物ではなかったのかと。駒沢が、「幸福」を保証してきていたとは、どういうことなのか。大きな美しい「家族」を一つにまとめてきた駒沢という存在。それを追い出して、消滅に導こうとしている、大槻の世代や岡野には、真の「幸福」はありえないのだろうか。三島は、駒沢善次郎を描くことで何を表したかったのかということを考えたくなる。
この小説は、戦後日本社会、また三島の天皇観などを考えるには、非常に面白いものだと思う。