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『フクシマ論』の人が編者のひとり。こういう本は予約待ちになるかと思いきや、すぐ借りられて、私が借りてるあいだに予約もつかずであった。
まえがきによると、「本書は、この避難所閉鎖の前後までの状況を中心に、あの日から避難がどう行われ、そして、どのような段階に移行しつつあるのかを、早い時期から避難する人々に寄り添い付き従ってきた社会学研究者のいくつかの目を通じて、解き明かしていこうとするもの」(p.5)だという。
巻頭に置かれた「福島県の市町村および福島第一原子力発電所の位置」の地図をくりかえし見ながら、各章を読んだ。道路や鉄道は書かれていない白地図だが、本文で記された避難の経路をたどっていくと、どう道がついていて、どう人が流れ、また戻ったのかがぼんやりとみえてくる。3月にJPA(難病連)の仕事で、被災4県のレポートの整理ををお手伝いしたときにもずいぶん地図をみたので、ほとんど未踏の地である東北から関東のあたりが、以前に比べれば(地図上では)だいぶ頭にはいった。阪神大震災のときに、関東以北の人にとって、兵庫や大阪の地名はこんな感じやったんかなーとも思った。
原発事故からの「避難」をめぐるあれこれについて、多少なりと読んだり、人の話を聞いたりしてきたものの、この本を読んでいて(これも現実であるのか)と思うことがさらに出てきた。「放射線量が高い/高くない」ということだけでは語れない。
▼ここ1年のジャーナリズム・アカデミズム問わず流通する言説を見ると、避難の問題が放射線との関係の中でのみ扱われがちだ。「線量が高いから避難しなければならない」「いや、この線量なら除染をすれば住み続けても問題ない」「いや、そんなことはない」……と言ったように。そして、それは時に、ある種の合理的な論争を超えて、宗教的な対立と言ってもいいような分断、つまり、互いに(「どこまでつきつめても解が存在しない課題」にもかかわらず)「危ない/危なくない」という答えを設定し、そこに向かう中で互いを理解できないと蔑み、そんなおかしなことを考えているのかと罵倒するような状況すら生んでいる。(p.362)
最後の章では「「難民」として原発避難を考える」と、"難民"という言葉が出てきて、避難する民としての「難民」ということが書かれている。たまたま、リバティ大阪の「証言の部屋」「難民申請と入管施設への収容」を語ったマウンマウンさんと青木孝嗣さんの話を聞いたところだったせいもあるが、この日本社会が難民をほとんど認めず、あたかも犯罪者であるかのように収容をおこなっていることと、いま避難者がおかれている状況とは、まさに地続きだと私には思える。
でも、そういう言及は全くなくて(大文字の難民=国家間・地域間に起こった軋轢のなかで生まれた難民という話は少し出てくるが)、そこはちょっとふしぎだった。「日本の自由は日本人だけにある」とマウンマウンさんは言っていたが、避難の話も日本人だけにあるんやろうかと思ったり。(この終章は『フクシマ論』の開沼さんが書いている。)
阪神大震災の3ヶ月後に編まれた『震災の思想』も並���て読んでいて、今回の大震災と、何が違って、何が同じなのか、、、ということも考えた。
全体として"意欲的な"本なのだと思うが、この本のまえがきには「人々の選択肢を広げてあげること。この先何年かをかけて再建していく生活を…安心できる形で補償してあげること…道筋をしっかりとつけてあげなければならない」(p.7)と、"あげる"言葉が繰り返されて、私はこの"あげる"言葉に強烈な違和感が残った。なんなんかなー、~して"あげる"って、、、。この著者(たち)が、「(被災した)人々」に、何をして"あげる"のやろう、、、。補助動詞にしろ動詞にしろ「あげる」の使い方には違和感をおぼえることが多いが、このまえがきは、なんとも強烈、、、。
(5/20了)