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回送先:目黒区立目黒区民センター図書館
間違いのないように言っておくが、本書は「自己啓発」を主題にすえた書籍の<統計社会学分析>の本である。本書を一読したからといってその後の人生が好転するわけでも、「著者のような生き方をしよう」と目覚めることは不可能である(そもそも版元が心理学の学術書が得意分野の勁草書房である以上、そんなのを期待してはいけない)。
牧野が対象としているのは、戦後刊行されたいわゆる「自己啓発本」の出版傾向と、メッセージの同時代性についての統計社会学的な分析である。どうやら同業者からは「そんなトンデモをやる必要ないんじゃねww」といわれ続けたようだが、やらないよりかはマシであるし、結果として浮かび上がってきた課題と共通性からは、自己啓発本が読み手の何を射程に収めているのか、それによって読み手がどうあってほしいと「ないものねだり」をしているのかということが整理された形で表面化する。
人文社会科学系統ではこうした自分探しや自己啓発について、「形格好を変えたマインドコントロール」あるいは「新参出版社による売名行為(例:サンマーク出版やフォレスト出版)」として取るに値しないものと見なす風潮がいまだに根強く存在する。しかし、「個人としてとるに値しない」と見なすのと「研究として取るに値しない」と見なすのは意味がまったく異なる。牧野がもっとも伝えたかったメッセージは「食わず嫌いと胡散臭いを混同するな」ということなのだろうと一読して思っている(実際、評者もこのごっちゃ混ぜを結構な割合で行っていたのだなと反省しきり)。
皮肉にも、こうした分類化と特徴の抽出によって「心と体と脳みそをごっちゃ混ぜにしやすい」1990年代以降の自己啓発本の正しい笑い方を啓発する効能もあると言えるだろう(実際、評者は本書を某私鉄の急行系列車内で一読して大爆笑してしまった)。
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「自己啓発」をめぐる言説の社会学的研究。ビジネス雑誌や就職活動言説などを検証し、語られていることや担い手の変遷を見ていく。特に1990年代以降に超越的存在や(似非)科学などを取り入れていく過程などは興味深いが、もう少し外部の社会的事象との関係の検証が欲しかった。
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図書館で借りて一気読みした。
近年爆発的に増えている「自己啓発本」について分析している本。
自己啓発本の系譜、対象による内容の違い、自己啓発本の効果など。
どの章もおもしろかった。
フーコーってもっとわけわかんないかんじだと思ってたけど、意外とわけわかりそうなかんじだったので、今後挑戦してみようかなって思った。
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自己啓発は宗教学の一つの研究範囲であるが、これまで自己啓発書についてのまとまった本は提出されていなかったように思う。というのも、実際に形としてあらわれる自己啓発セミナーと異なり、本というのは買っている層も見えにくいうえに、あまりにも多くの著者がいるので、どうしてもその全体的な性質やらを論じ辛いのだ。
この本が良いなと思うのはそこで、扱っているのをその年の売上ベスト100に限定し、それを年代別に追うという手法を取ることで、特に縦軸(歴史)に着目してうまくストーリー立てた説明ができている。また、特定の著者や団体に着目するというよりは、その本が登場するに至った背景から関わっている人々の「複合体」としての機能に着目しているのも良いと思う。
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世の中に溢れる「自己啓発」的な文章群を横割りに分析しているという、これまでにない研究資料だと思います。ベストセラーからの自己啓発書、就職活動における自己分析手法、女性誌『anan』の自己啓発特集の分析の3つの分析を手掛かりに、各分野で「自己分析」と言うテーマが1970年代以降、「自己の所在定着」⇒「自己改造の手法定着」と変遷していくことを明らかにします。つまり、嘗ては人々が各目的に向かう過程に"自己"を意識していなかったのに、バブル期あたりから、だんだんとそこには"自己"が関わっているという認識が芽生えます。バブル崩壊後あたりから、さらにその"自己"を自分自身でコントロールする方法の所在について語られるようになり、また世間もその認識に疑いを持たないようになって行くのです。これが現代我々が書店で、ウェブで散見する「自己啓発」なのでしょう。更に、その内容について、ギデンズの「脱埋め込み」としての後期近代における「再帰的プロジェクト」と対比し、要はどれも自己の発見とストーリーの連続性について気づきを与える活動だ、と、そこまで平たくは言わないまでも、自己啓発の手法が平準化し、再生産される様子を観察し、「自己の固有性を」「標準化された手法で理解する」矛盾を指摘しています。
私も自己啓発的な言説が次々現れることに時代の形を追いかけていたため、本書は極めて重要な知見の宝庫でした。あとがきにあるように、筆者の博士論文だそうです。そのため、恐らく同じ研究室か、近い同期の論文参照があって、ちょっと微笑ましい(私も最近社会科学系で修論書いたため、様子がなんだか想像できます)。その所為か、定性データの指標化については、少し乱暴なデータ分析もあるように思ったりもするのですが
(例えば、すべてのメディアの記載内容を倫理的素材、様式、理論的作業、目的論で指標化して定性分析しているですが、筆者のセンスで内容を解釈しているように見えるなど)、これらの膨大な文書データ(1970年代以降すべての自己啓発的書面が対象です!)に目を通したことは間違いなく、その整理群だけでも迫力があります。
筆者は、この論文を書く以前、そもそも自己啓発書をたくさんたくさん読んだのでしょう。それらが結局は、ギデンズの言う後期近代在り様、すなわち、コミュニティの所在が失われ、人びとから守るべき規律や、ロールモデルを曖昧にし、個人のよって立つものを個人によって成立させねばならないと言う言説に基づく(だけの)ことだ、と。そして、やはりギデンズが言うように、その手法(様式)は、その人のストーリーの連続性であり、その担保は心理学者やカウンセラーである、と。そうシニカルに語りたいんだけど、それじゃ研究の意義がないとか批判されて、「自己啓発」を主語にした社会的構造分析と言う論文にしたのかなーなどと
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「自己をめぐる問いに、はっきりとした答えをすぐ出し、行動に移すことばかりがつねに『正しい』あるいは『善い』わけではないだろう。『自己とは何か、どうあるべきか、そのために何をすべきか』そのものではなく、『自己とは何か、どうあるべきか、そのために何をすべきか』を自然と考えさせられてしまうような社会の構成に目を向けることも、正しいかどうか、善いかどうかは全く定かではないが、自己という対象に向き合う一つのアプローチとしてありえるはずなのだ、そう筆者は考えるのである。」(258)
自己という対象の本質やあるべき姿ではなく、自己へのまなざしが社会に流通する、自己をめぐる知識・技法によって構築されるという観点から、本著は書かれている。主導する問いは、自己啓発メディアにおける「自己と自己との関係」がいかなるものであるのか、すなわちそこにおいて示されている「自己の可能かつ望ましいあり方(=自己の体制)」はどのようなものか、というものである。そのもとで、自己啓発書ベストセラー(第二章)、大学生向け就職用自己分析マニュアル(第三章)、『an・an』(第四章)、男性向けビジネス誌(第五章)が検討に付される。
自己啓発メディアはいわゆる後期近代の「自己の再帰的プロジェクト」を無限に駆動させるものではなく、その「打ち止まり点」をも示している、という指摘が、自分としては非常に興味深かった。自己分析マニュアルでは労働への順応、女性誌では「女らしさ」や恋愛至上主義、ビジネス誌や仕事術本では「仕事をアイデンティティとする男らしさ」が、自己のモニタリングを読み手に促す際の、常に揺らぐことのない基底的参照項となっているのである。
言説研究においてよい文献になりうるだけでなく、働いている方にもおすすめできる。自己啓発以外のゲームを作動させるもよし、「自分をモニタリングしなければいけない」そう仕向けてくる社会の戦略にあえて乗っかり、またモニタリング仕返してみるのもよし。そうしたステップのための「水路図」(261f)を、謙虚に指し示してくれる好著。
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牧野智和『自己啓発の時代 「自己」の文化社会学的探究』勁草書房、読了。飛ぶように売れ、「○○力」という言葉が消費されてゆく“自己啓発”メディア。本書は、近代日本の自己啓発メディアの世界観を読み解き、その今日的心性の抽出する労作。 http://www.keisoshobo.co.jp/book/b99589.html
自己啓発メディアの腑分けは、現代においてどのような「自己の在り方」が求められているのかを浮き彫りにする。本書は自己啓発の胡散臭さを撃つものではない真面目な教育社会学の研究書。しかしながらその分析は時代を映し出す鏡となっている。
関連インタビュー。「ニッポン人の『自己啓発』好きを強化させた『オウム』『勝間』『an・an』の功罪」:日刊サイゾー http://www.cyzo.com/2012/10/post_11708.html 自己啓発書の社会的機能とは? 最もシンプルにいえば「煽り」と「癒し」。
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売れ続ける自己啓発、というジャンルについて、その構造、特性について研究した一冊。
特に90年代〜00年代にかけて顕著になる「自己は知識・技法による構築が可能である」という前提に基づいた自己啓発メディアは受け手自身との親和性、その消費性もあいまって拡大を続けてきた。
自己啓発メディアは、それぞれの文脈における諸前提(そもそも就活市場の在り方はこれでよいのか?など)を根本的には問い直さず、いわば対処療法的な手法によることで再生産させる。しかし自己啓発の権威となるものは意外と流動的で、そこには鈴木謙介の言うような断定的消費に支えられている構造が見て取れる。さらに自己啓発そのものも、終着点を示すこと、提供することができず、ひたすら再帰し続ける(ゆえに消費し続けられる)プロジェクトになっていると指摘する。
決して自己啓発を否定するものではないという前提と、自己啓発の姿を一歩引いて考えることによって前提となる問いに目を向けさせようという問いかけは、自らも自己啓発にハマった風である著者の意図の絶妙なバランスによるものかも。
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本研究は、巷に溢れる「自己啓発」という概念を、今一度社会学の枠組みで丹念に捉えなおした力作とえる。「自己啓発」という語は用いられる文脈により意味が多様に変化する多義語でもある。そうした中で著者は、一定の範囲の中でいわば新たな概念創出を試み、単行本や雑誌記事を分析対象とし、主にグラウンデッド・セオリーの手法を用いて分析・考察している。
個人的には、目下、大学職員論における自己啓発に在り様に関心があった。しかし著者は冒頭で、男女を問わず、就職・転職活動、ビジネス、各種ライフイベント、広義の人生論で、自己啓発に係る言説が繰り広げられていることを示している。自己啓発という単語は想像以上に汎用的だった。こうした漠とした自己啓発の「世界観」ないし「教理」に対して、冷徹に分析したのが本書でもある。
各媒体ごとに「自己啓発」を語る話者を集計・分類するだけでも大きな仕事であり、そこで扱われている内容を抽象化し類型化することは、筆者が大学院に在学して時間を費やさなければできなかったことと確信する。
分析からは、様々な媒体は、「○○力」という多様な能力指標を例示しながらも、つまるところ「「自己の自己との関係」の調整自体を自己目的化し、追求に値するもの」(p.238)として、読者に認識させていることを実証した。そして、著者は「自己の再帰的プロジェクト」(p.253)という新しい概念を提起した。
分野を問わず、自己啓発の活動には終わりがなく、ある程度の進捗状況で自己評価の上、自分自身が「自己の体制」を補強していくことを繰り返すことが常例であることがわかった。終わりのない自己啓発に明日からも取り組むとしよう。
なお、この本の元になった博士論文は以下から閲覧することができる。審査の講評における指摘は特に重要だと思う。
http://dspace.wul.waseda.ac.jp/dspace/handle/2065/37663
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ああそうか、私の受容の仕方って、割とメジャーな一部取り入れに当てはまるんだが、ともかく数を欲しがるのは自己確認なんだな、とか、読みながら楽しかった。日常に侵入する自己啓発よりも後に読んだのだが、こちらが先だと入りにくかったかもしれない。この順番でよかった気がする。
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十数年前には決して自明ではなかった、自己をめぐる濃密な意味の網の目への囚われが、今を生きる私たちにとっての望ましいあり方となった。そのために利用する様々なテクノロジーが、その体制をさらに強め自明化している。
だれもが自己啓発する社会においては、その理論やテクニックを提供するということが、大きなビジネスになっているわけで、それは社会の余裕なのか必然なのか。
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春山らの著作は、潜在意識や未開発の右脳といった一見「不可視の」「不可触の」対象を論じながらも、それらに具体的に働きかけ変革していく、ポジティブ思考やイメージトレーニングといった実践的技法(倫理的作業)を提示した点に、それ以前の自己啓発書ベストセラーにはない特性があると筆者は考えている。すなわち、これまでは心がまえの体得や「心の充実」のように抽象的にしか論じられなかった人間の内面を技術的に具現化し、またそれが多くの読者を獲得した点にこれらの著作の意義があると考えるのである。ポジティブ思考等はこれらの著作に始まるものではない。しかしこれらのベストセラーは、人間の内面を技術的に処理しうるものとみなす感覚を拡散させていく社会的機能を果たしたという点で重要な著作だと考えられるのである。(p.59)
自己への微細なまなざしそのものが新規大卒採用市場の状況認識や採用プロセスと結びつくその契機にこそ、社会問題を個人化する最もミクロな駆動員があるということ、また今日における「統治」の実践――すなわち行為者個々人による自動的な調整を促し、またその責任を個々人に引き受けさせるような社会問題の処理形式――が駆動する可能性があるということを私たちは認識しなければならないのである。(p.130)
文化とは、あらゆる社会的闘争目標(賭金)がそうであるように、人がゲーム(賭け)に参加してそのゲームに夢中になることを前提とし、かつそうなるように強いる闘争目標の一つである。そして競走、競合、競争といったものは文化に対する関心なしではありえないが、こうした関心はまたそれが生み出す競走や競争それ自体によって生み出されるのだ。(Bourdieu 1979)(p.256)
今日の社会において、人生のさまざまな問題を自己をめぐる問いへと絡め取ろうとするトラップ(ゲームへの誘い)が多く張り巡らされ、そこに知らず知らずのうちに、あるいは強制的に巻き込まれている人々がもしいるのであれば、そこに逃走線や抵抗線を、トラップを撹乱するような「トラブル」を起こすための資源を準備しておくこともまた意味のあることだと考えるのである。(p.258)
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向上心つよつよ人間なので
(向上心は不安症だからかな。不安から逃げたいからかも)
去年のゼミで、
「なぜ現代では自己啓発がこんなにも受容されうるのか?」
自己啓発の内部にいる人間として、客観的に社会を分析することはとても難しかった。
だからこそ、本当の意味で初めて批判的に見ることが、否定的に見ることではないことを学んだ。そんな経験をくれた本!
そして、やっぱり人から社会を見るってとても難しいけれど、、出来たらかっこいい。
社会学の、当たり前を疑うってことの本質は、
当たり前を疑うことで、そこからはみ出ている人やものが見えてくる。
でもその人たちだって社会を構成するだいじな要因じゃないか!って。
生きている全員で作るのが社会だよって。私は感じる。
社会学は、自分が見えてるものが、いつまで経っても全部にはなりえないことを教えてくれる。
でもその事実を知ってる人と知らない人なら、
絶対知っている人の方が、
人に優しくできる本当に強い人だと思う。
そして今の私は、社会学の役目に対して一つそのような解釈をしている。
社会学の価値観、、好きなんだよな。
あと!!お世話になってる院生の先輩が、修士論文でこれに対して、牧野さんが気づけていない観点でバチーンってハマる説をだすのだが
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「行動を変えて自分を変える」というのは普遍的なものではなく近年に特徴的なものである。それを先導してきた自己啓発書籍を分析した一冊。
「就職用自己分析マニュアル」、女性のライフスタイルについて提唱してきた『an・an』、ビジネスマンに「●●力」を伝えてきたビジネス雑誌、を分析して、「内面の技術対象化」の確立のさまを振り返っている。つまり、「抽象的な人生訓」から「テクニカルな自己向上ノウハウ本」への変化を分析している。
他に類を見ない事柄が書かれた本でとても面白い。
面白いのだけど、著者の次作『日常に侵入する自己啓発』を先に読んでしまったので、それと比較すると刺激が足りなく感じる。
それは仕方なくて、次作は本書の発展版ともいうべき位置づけなので。それに比べると本書は基礎研究という感じである。
十分に面白い基礎研究なんだけどね。