紙の本
歎異抄の山。
2012/04/11 11:10
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オタク。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
「歎異抄」は「教行信証」と違って和文で書かれていて、短文なので現代語し易いと思えるのか、鎌倉中期の古文なのに結構現代語訳(本文の付録として現代語訳がついていたり、現代語訳に本文がついていたりという版もある)が出ている。この本もそうした本の1冊である。
聖書の翻訳(といっても大体新約聖書で、旧約聖書は部分訳でも少ない)と同じ位に「歎異抄」も翻訳が沢山ある。多分仏教書では一番多いだろう。この本は光文社の古典新訳文庫の「けったい」な文体の「歎異抄」程ではないが意訳に過ぎる。もっとも一緒に掲載されている和讃や念仏正信偈ほどではないが。
「歎異抄」の原文は、そんなに読みづらい文体ではないので、原文に注釈をつけて、それに現代語訳を添えたのが一番いいだろう。
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「般若心経」がすごく良かったので、これもいそいそ読み出したのだが、うーん、なかなかその世界に入っていけなかった。親鸞の言葉をとても柔らかく「開いて」ある。それを受け止めきれなくて残念。いずれまた挑戦しよう。
心底敬服していて、書かれるものを「ありがたい」としか言いようのない気持ちで読んでしまう方たちがいる。佐野洋子さん、金井美恵子さん、そして伊藤比呂美さん。あれ、皆さん女性の詩人だわ。
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『歎異抄』は、親鸞の肉声を今に伝える貴重な書物であり、唯円の格調高い文体による聞き書きでもある。これを、詩人が現代語に訳したというので、早速購入した。
親鸞の言葉をそのまま書き記した第1条から第9条までは、行分けの詩の形とし、唯円の思いが混じってくる第10条以降は、親鸞の言葉のみを行分けにするという表記の工夫には納得。「歎異抄」だけでなく、和讃や書簡、浄土真宗の勤行でもある「正信偈」まで訳してある。著者(伊藤比呂美)の親鸞に対する入れ込みようが伝わってくる。日本とアメリカを行き来する旅のエッセイが随所にさしはさまれていて、読みながらホッと一息つくこともできる。
「歎異抄」は散文詩であり、「和讃」「正信偈」は漢詩である。著者は、親鸞の思想(生きる姿勢)に魅せられたのみならず、言葉(詩的リズムと表現)にも強く惹かれたのだろう。作家の村上春樹が小説を書きながら、翻訳も行っているように、この詩人伊藤比呂美も、詩を書きながら、翻訳にはまったのに違いない。750年以上前の言葉を噛みしめ味わいながら思想の深みへと降りて行き、、その言葉を現代に甦らせようと、苦しみながらも楽しんでいる様子が、旅のエッセイから窺える。
実際に、声に出して読んでみた。和語と漢語の緊張を孕んだ響き(歎異抄)、漢詩書き下し文のもつ硬質なリズム(和讃、正信偈)といったものが、現代語に翻訳すると失われてしまうのは、如何ともしがたい。そのことを訳者もうすうす感じているからこそ、「たどたどしく口に出して読む」と断っているのだろう(娘に読ませながら書き写したことや、売らんがためのネーミングという事情もからんではいるのだろうが)、と勝手に想像してみた。
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歴史上の偉人である親鸞という人の、悩み、憤慨、情熱、真摯さが伝わってくる現代語訳。
息子のいい加減な布教にいらだち、ついに絶縁を申し渡すに至る過程。
奥さんが娘に、お父さんは素晴らしい方だったと送る手紙もよかった。
鎌倉時代、人は基本的に苦しみの中にあったのだろうか?死んだら地獄に行くかもという恐怖の中にあったのだろうか?
(幼いころ、私は嘘をついたりモノを盗んだりする悪い子だったので、心底地獄を恐れていたが、昔の人は、大人でもそんな感覚を持っていたのだろうか?)
極楽浄土に生まれることが、浄土のはしっこではなく、ど真ん中に生まれることが、そんなにも大事なことだったのだろうか?
現代に生きる私には分からない感覚。
もっと知りたい。阿弥陀さまのこと、鎌倉時代の人々のこと、親鸞のこと、浄土真宗のこと。親鸞と法然の関係。
アミダ様が、みんなを救う、という大きな誓いを立てているのだから、我々はそれに頼っていくだけでよい、というロジック。じたばたしない人生観、なのだな。
いまを生きる私たちがここから学べることは何なのだろう。自助努力、自己管理、自己責任、基本的に、色々なことが個人の責任に帰結する現代の価値観。その中でも、病気、死、理不尽を強いられる生活、どうしようもない人との関係。自分の力ではどうしようもないことも多く。そんな中、アミダさま、と呼ぶかどうかは別として、天の采配に身を委ねることは時として必要なのではないか。
以下、本文抜粋。
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●喜ばなくちゃいけないのに喜べないのは
この迷いの心のあるせいだ。いかる心、むさぼる心、おろかな心がおれたちを悩ませ続ける
●論争の場には、迷いの心がいろいろと起こってきます。賢いものはそこから離れるべきだと書かれた文章もちゃんとあります。
●善も悪もじつはアミダ様の御誓いの不思議によるの。
●善いことも悪いこともつながるままに受け入れて、そしてひたすらアミダさまのお誓いを頼りにして生きていくのが、おまかせする、ということ。
●おまかせする心さえあれば、浄土行きはアミダさまのおはからい。自分の力でどうこうできるものじゃありません。
●自分が悪人、と思うのなら、なおさら、おまかせしてしまえば、自然と、おだやかに、そしてしずかに、苦しみをたのえしのぶ気持ちが生まれます。そして、浄土行きについて、理屈で考えつめたりせず、ただもうほれぼれと、アミダさまのふかくて大きなご恩を、いつも思い出しておればよいのです。・・・・これが自然(じねん)。自分の力でものごとをうごかさないことを自然といいます。つまり、おまかせすることです。