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生成的な言葉とはどのようなものか。「情理を尽くして語る」言葉、「お願いだから、オレの話を聴いてくれ」という懇請の言葉、それだけが「外に向かう」ことができる(p.285より)。まさに!と納得させられました。自分の利益のためではなく、誰のために、そして何のために、という俯瞰的な視点を常に忘れないようにしようと思います。文体論とありますが、どの領域でも応用できる話なので、是非読んでみてください。
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(以下引用)
「凡庸なふりして生きる」ということは、ある意味、かなり正しい生存戦略だからです。悪目立ちしない、みんなと同じように生きていくという生き方は、たとえば、原始時代の、今よりすっとワイルドで危険な社会であれば、むしろ生き延びるチャンスが高いかもしれない。
でも今の時代はそうじゃないだろうと僕は思います。トムセンガルの群れをライオンが襲ってくるというような単純な状況なら、目立たないように群れに紛れ込んでいるほうが生き延びる確立は高い。でも、リーダーもおらず、ヴィジョンもなく、ただ群れをなして、草を食べているだけ……というような集団だと、みんな同じようにふるまっていたらある日集団ごと全滅しました、ということだってありえる。
今の日本を見ていると「他人と変わらないようにふるまっていれば安全」という生存戦略はもう通用しなくなりつつある。帰属している集団のサイズが大きいということは、その集団が正しい方向に進んでいるということを必ずしも意味しません。今の日本のような、地殻変動的な社会の変化が起きているときは、むしろ最大集団のほうが環境に対応できなくなる可能性がある。(中略)マジョリティが危ない方向に向かっているとき、生き延びるためには、みんなは「向こう」に行くけれども、自分は「こっち」に行ったほうがいいような気がするという、おのれの直観に従うほかない。そういう危機に対する「センサー」を皆さんに身に着けていただきたいと思います。(P.35)
バイクを傾けてコーナーの出口に向かうときは「もうコーナーを抜けて加速している自分」を思い浮かべて、それに創造的に「身体に放り込む」というふうに運転をしないといけない。コーナーを曲がりつつあるリアルタイムの自分に同化していると、バイクのリアタイヤは必ずずるずると滑り出し、運が悪いと転倒してしまう。不思議なことですが、「未来のある時点で、すでに仕事を終えている自分」という前未来的な幻想に同化しないと「今なすべき仕事」ができない。(P.93)
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全部入りきらない自分の脳みその容量が憎い。もう一回読む。何度でも読む。この、忍者屋敷の壁みたいに、思考がぱたんともうひと段階展開する感じ、こっちにも道があった、みたいな感覚が興奮するんだと思う。座右の書となりそうです。
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ちょうど言葉について考えていた時だったので、我が意を得たりと一気読みしました。すごいです、この本は。医学生や若手医師は、変な論文の書き方や専門医症例報告のマニュアルなんて読まないで、こういう本を読んで文章の書き方を勉強して欲しいです。
しかし、「以前にも出た話」を再掲していることを批判する輩はいるんだろうなあ、、、、古典落語は楽しめませんよ。それじゃ。
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16 自分のふだん使い慣れた語彙やストックフレーズを使い回すだけではコミュニケーションが成り立たない。そういう「遠い」という感覚があると、自分の「ふだんの言葉づかい」から一歩外に踏み出すことになります。
122 僕たちはエクリチュールを選ぶことができる。自分を幽閉する「檻」を選ぶことはできる。でも、一度選んだら、言葉づかいについての決定権を失ってしまう。エクリチュールが要請する言葉づかいで、エクリチュールとなじみのよいコンテンツを語ることを発話者はほとんど強制される。
140 僕自身、社会はできるだけ高い流動性を維持すべきだと思っています。エクリチュールというのは、本質的には集団を固定し、流動させないための装置です。
159 語法のあり方は社会状況のあり方とぴたりと同期しているんです。フランスにおいては、「語法の檻」はただしく「社会の檻」として機能している。
201 想定読者がいないテクストというのはらなんだかもごもごする。どこを見ているのかわからないで、眼を宙に泳がせてしゃべっている人の口調のような、ぼんやりしたものになる。
211 計測技術が未熟であれば、現象にあきらかに数値的な変化があっても、それをエビデンスとしては示せない。
228 社会的成熟というのは、単に身体が大きくなるとか、知識があるとか、有用な技術を身につけているということではありません。同期できる他者の数が増えたことによって、上空から「自分を含む風景」を見ることができるようになることです。
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著者の神戸女学院で受け持った最後の講義「クリエイティブライティング」の内容を書籍化したもの。文章を書くとは、言葉を使うとはという根源的なところを突き詰めた1冊。この授業を受けられた学生は幸せだね。
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以前から、教育に損得を持ち込むなという主張をされていますが、本書では少子化に対して、国が出産育児を損得で考えさせるようにしてしまっているのがイカンという指摘。ごもっともです。とはいえ、この部分はおかしな寄り道。言語がどこから生まれてくるか。自分の発している言葉は、今の自分の言葉なのか。オートバイのコーナリングのように、未来を想像しながら現在をコントロールしなきゃいかん、と、わかっちゃいるけどコーナーで転ける僕。それが自分のエクリチュールなのかな。文を書くときに脳みそを使っていないことを反省させられる、むずむずする愉快さがある本。
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書き方に留まらず、読み、学び、生きる術がここに書かれている。
そしてそれを伝えることのみを強く熱望している。
それこそが「文体」というものなのだろう。
「使命感」と言い換えてもいい。
どうしても伝えたいものがある。それはまだ言葉になっていないが。
そうしたときにこそ、文体はドライブしていくのだろう。
この本に出会えた僥倖に感謝。
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内田先生,空中浮遊信じてるとか公言してるのか。結構ヤバイんじゃ…。オウムとか覚えてるよね??
「クリエイティブ・ライティング」と題された最終講義14コマをまとめた本なんだけど,脱線が多くて文学の話はそんなにない気が。それもその半分くらいは村上春樹だしw
もちろん話はうまくて,博学なのは間違いない。ただ,言ってることはただの懐古趣味だったり,精神論だったり。何と言うか,老害ぽいかも。11年前の『寝ながら学べる構造主義』は非常に良かったんだけどね…。
たぶん日々取り入れる情報を,自分の思い込みを強化するように取捨選択・修正歪曲してしまっているから,こうして首尾一貫した内田ワールドを流れるように繰り出せるんだろうな。
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ブログに書きました。
http://fragilemetalheart.blogspot.jp/2012/07/2012-11.html?m=1
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『自分の弱さや脆さを克服すべき弱点とみなし、幼児的なエゴイズムや無垢な邪悪さを封印することなしに、少年は「大人の男」になることができない。でも、これはいわば自分の一部を切り捨てることです。すごくつらいし、痛い。でも、やらなくちゃいけない。この「大人に脱皮すること」の苦しみを癒やし、支援するために、太古から人類は「アドレッセンスの喪失の物語」をくりかえし語ってきた。そうなんだろうと僕は思います。「今の君の苦しみは、すべての先人が通過した、そういう類的な苦しみなんだよ」ということを聴き知らされて、少年の傷はすこしだけ耐えやすいものになる。たぶん、そういう人類学的な仕掛けなんじゃないでしょうか』にビリビリきたっ!
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内田先生に興味がある女子大生は、神戸女学院大学でも少数派だそうですが、授業は人気があるのでしょうか。
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”本と目が合う”ことについて書かれていたが、まさにこの本、池袋のBook1にぷらっと入り、入り口付近で偶然目が合ったのだ。2,3ページめくったらその場から動けなくなってしまい図書館で借りる手間がもどかしくてお金を払って手に入れた後スタバでむさぼり読んだ。珍しく我を忘れて夢中になった本だ。
届く言葉、響く言葉はどんなものだろう?がテーマ。大学の講義を本におこしたものなので、実際この講義をダイレクト聴いたらさらに興奮していたかもしれない。
言葉は自分がアウトプットしながら同時に他者としてそれを読解している。その人間の複雑な処理能力と、処理結果が誰のものでもなくなっているという不思議な事実に驚く。確かに夜中つらつら書いたものが翌日の朝読み返してみると、まるで赤の他人が書いたような代物になっている不思議なことがある。確かに自分が書いた、でも紙の上に存在している言葉は、ごちゃ混ぜになった意識と無意識と、さらに自分の中に存在する他者が介在して生み出されたもので、それはもはや自分が書いたとは言い切れなくなってしまっている。実は複雑な成り立ちで、とても不可思議で神がかっている言葉の正体に圧倒された。
話し手本人も言っていたが、口から出てくる言葉は、教育論、現代の就活批判、電子書籍VS紙の本について等、予定していなかった話題に及び、話すそばから言葉はどんどん本人を離れて想定しなかった世界を形成する。そしてどっぷり浸かり、まさに”他者との仮想同一化”の気分となる。ラストは感極まって涙。そんなもの求められていないはずなのに、しかもスタバで泣くなんて恥ずかしい。けれども内田樹の最後の講義という感傷的な気持ち、とにかくこれだけは伝えたいという凄まじい熱のこもった魂を受け取ってしまったのだから仕方ないことだと思う。
届く言葉、響く言葉は、伝えたいという気持ち、宛先への敬意、これにつきる。言葉と気持ちのズレがあれば、結局受け取り側にはズレしか伝わらない。また受け取り側に、自分の利益、自己顕示欲、読み手の差別などをメタファとして見分けることができる能力も必要だ。
実は大阪都知事批判したときから好きじゃなかった。哲学者が火の粉がふりかかる恐れのないところから政治家批判しているようなイメージが悪かった。20歳以上年下の女性と再婚したのもちょっと悪かった。相変わらず好きではないけれど、言葉に関する”言葉”は別物として受けった。
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内田先生の神戸女学院大学最後でクリエイティブライティングという講義だったそうな。というところで僕の期待は大きく裏切られた。文体論というか文章論と感じた。前半はそんな落胆に包まれた私でありましたが、エクリチュール(だったかいな?)とか出てきたあたりからは流石の内田先生で面白かった。
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「情理を尽くして」語る。届く言葉には発信者の「届かせたい」という切迫がある。その必死さが言葉を駆動する。思いがけない射程まで言葉を届かせる。
他者との仮想的な同一化ができることで、鳥瞰的に自分の位置を把握し、自分がどういう局面で、どのような責務を果たすことを期待されているのかがわかる。
文体論について、届く言葉についての講義録。意識化されていない感覚を、意識上に顕在化することで、大きな駆動力になると感じます。