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ギャラリー間での 「Praxis」展。
久しぶりにどっぷりとはまってしまった。Bijoy Jainと職人たちの無数の手垢がついた建築。カタログから選んでるだけの日々に嫌気が・・・とはいっても止めるわけにもいかない。
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ギャラ間で展示見てその場で購入。ルーバーがやたら多用されてて開放的で気持ちよさそうに見える。ムンバイの気候調べると年中暑くて雨季の降水量やばい。納得。
職人たちと良い関係が築けているんだなぁ。
"心地良いだけでなく、時には寂しくなるようなところもあったほうがいい。これはなにも否定的な意味ではなく、いわゆる「人生」におけるあらゆる場面を喚起するようなもの、「人生」を内包したものであってほしい。それが建築に求められる役割ではないかと。"
"人生なにが起こるかわからない。建築は人生を内包するものでないといけない、というからには、そこに予測不可能なものも含まなければならないんです。"
"まず思想ありき、そしてその思想があらゆることの根拠にもなる。"
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急速に発展しながら、今もなお独自の文化を色濃く残すインドで、建築家と職人が一体となって設計・施工を一貫して行うスタジオ・ムンバイの作品集。モダンな構図を取りながらも素材感を生かした建物には、職人たちの技術の高さがうかがえる。(建築学専攻)
配架場所:工1B・建築
請求記号:226-0:J.3
◆東京大学附属図書館の所蔵情報はこちら
https://opac.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/opac/opac_details/?reqCode=fromlist&lang=0&amode=11&bibid=2003071554&opkey=B148057331114711&start=1&totalnum=1&listnum=0&place=&list_disp=20&list_sort=6&cmode=0&chk_st=0&check=0
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建築家は本当に施工業者と闘わないといけないのか?
スタジオムンバイの舵取りをするビジョイ・ジェイン氏。
本紙はビジョイ氏の建築に関する考え方はもちろん、如何に、大工、石工、板金、左官博士、パートナー建築家などの様々な業種の人間とコミュニケーションを取り、如何にプロジェクトを導いてきたのかについて学ぶ事ができました。
また、各職人へのインタビューが収録されていて、多角的な視点からビジョイ氏の仕事について感じる事ができます。
職人もスケッチノートを持ち歩いていて、ドローイング、スケッチがコミュニケーションツールとしてプロジェクト初期から大活躍している事が驚きです。
自分のイメージを他者へ伝える為に、会話を物語仕立てにするなどの工夫も参考になります。
まずは問うこと・思い浮かべることから始まり、チームで会話を通してイメージや体験、雰囲気を共有し、そこから如何に表現するべきかの議論を進める。
様々な強みを持つ人が集まるチームで、如何に創造活動を推進するか?新商品開発プロジェクトと似通った点が多く、大いに学ぶ事ができました。
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「Praxis(プラクシス)とは理論や知識や技能を実演や実行に移すこと、体現すること、あるいは実現することである。場合によっては、考えを実行、応用、行使、実現、あるいは実施する行為を指す」
スタジオ・ムンバイの方針。自然の力を建築に取り込みつつ、室内をその脅威から守る。
インドでの建築は法規制とは異なる物理的に制約がかなりキツいことが多いだろう。その中で、周辺環境に溶け込んでいる素晴らしい建築を構築出来ているように見える。
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単純でありながらそれでしかないという確信に満ちた造作。まさに「建築の神は細部に宿る」という格言通りだ。
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ムンバイにある建築スタジオの作品集。石工、左官、木工をベースに時には布まで建材にして、ここまで現代的な姿になるのがすごいです。
建築スタジオに伝統的な大工、屋根葺職人、石工マスター等が集まって、出来上がった図面をもとに建てるのではなく、建て始めるプロセスの段階から合議してどう建てるかを決めていくって部分がとても刺激的な話でした。
スタジオの全員がスケッチブックをもとに、話し合いながら仕事の完成形を探していくんだそうな。
うちの会社のひとたちにもスケッチブック持たせたいです。
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私もモックアップのように捉えるという視点に賛同します。「学ぶ」ということは、学ぶ対象に深く関わり、その結果理解することですね。
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塚本──その通りです。「学び」は相手との違いを認め、これを受け入れることであって、相手をこちらに都合よく変えてしまうことではありません。民藝における創作は素材との対話があるのでその間違いを犯すことが少ないのに対し、近代以降のデザインと呼ばれるもののなかには、物事に内在する自然のささやきに耳を傾けずに、それをかき消し、相手を凌駕する形や意図を与えてしまうことがあります。
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ジェイン──実は、フラグメントが持つ浸透性、モックアップ、学ぶことの関連について、ここ1カ月くらい考え続けています。そのなかで「魂(Soul)のマテリアル化とは何か」という問いに行き着きました。建築物のように、目に見えない魂を目に見えるものにするのは可能なのかと、なぜだか理由はわからないのですが、自問しているのです。塚本さんは、魂は建築のなかに体現できると考えますか?
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その屋根を見た大工のひとりが「大きな屋根ですね」と言う代わりに「鳥の翼のようですね」と言いました。彼は、屋根を屋根として見たのではなく、鳥の翼として見たのです。鳥の翼のように軽く優雅なものとして、屋根を捉えたのです。素晴らしい見解だと思いました。彼のこの屋根に対する表現が、時と場所を超え、時間をスローにするということを表わしていると思いました。
そこにあるものに、ある程度なりたいように振る舞ってもらう建築、という意味です。あなたがそこにあなたのアイディアを組み込みながらも、その環境や状況に合わせた、なすがままに生み出された建築、根本的にはこちらでは変えようのないものと共存した建築、とでも言ったらいいでしょうか。
、私は「コントロールできない建築」ではなく「信頼から築かれた建築」と表現しようと思います。
一番大事なのは、そこに感情が存在するということです。その時に、その建築物が、石やガラスそのほかなんの材料でできているのかということ自体にはあまり意味がありません。ですので、時間をスローにするという概念は、物理的ではなくてより心理的な概念なのです。
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つくりながらアイデアを練る。その場でそれを試したり、、
専門分野も関心も業種も異なる人たちを受け入れる。これだけの人が集まって、いったい何をするんですか。-ある意味ではそれを考えることが私の役割かもしれません
どんな物理的な介入をするにも、こうしたポテンシャルを伸ばすつもりでやります。「そうだね、これは大事にしなければ」「これはもっと活かそう」「どう介入すれば、ここにある物の良さや情緒を損ねないだろうか」。そこには歴史、時間、参加の感覚がある。そうした蓄積の上に、現在と将来を重ねていく
スタジオの運営でいちばん重要なのは、共有の意識を持ち続けること。透明性が保たれていなければ、うまくいきません
ドローイングの良いところは、プロジェクトの進捗状況に敏感になれるところ
この体験は衝撃的でした。いきなり自分の見解を求められたのですから
★彼らの眼を通して、初めて見えて来るものがあります。彼らに同意したり、しなかったり、彼らが参考にならなかったり。そこから自分の血と肉となるものを吸収していくのです
見るということは、好奇心があるということでもある。好奇心がなければ、いったいこれはなんのために存在するのか、これはどんな位置づけにあるのか、妥当性はあるのかといった疑問もわきません
謙虚さ、慎み深さ、そしてなぜと問いかける好奇心を忘れないこと。
忍耐強い人は、融通が利く。耐性もある。したがって帯域幅も増え、そのぶんゆとりができる。そうした資質を養うこと。それさえあれば、残りは自然と収まるところに収まります。
目を凝らして凝視する。それは「見ることとつくることは、最初の芸術行為」
ドローイングとは、考えること、ある考えが辿った軌跡、一点からまた別の点へと動いた痕跡
見る力は内へと入ってゆくが、知る事は周囲を廻ることに過ぎない。美への理解には分別より以前に直観の力が働かなければならない
ものを見た時、先ず裁いてはいけない。-先ず受け入れよ
ということ。受け身の立場に立つことが寛容。
バワの空間づくりの仕方というのがこれまた独特でした、なんというのか、力みがないんです。空間の位置も構えもさらっと決めているような感じで。ちょうど武術や柔術の型に無理がないのと似ています。しっかり構えて、相手の動きから目を離さないのに、動きは滑らか。そのほうが身体は動く。
「インド経営大学について」
あの建物の偉大さは、その重量感、まるで大地から生えて来たかのような接地の仕方にある。重力の扱いが-重さを感じさせるのに、それが制約になっていない。そういう次元を超越してしまっている。
➡僕は、大地に屹立しているという風に映ったけれど、しかしそれは、決して重力に対して肩肘を貼って、無理強いをしているという風なものではなかった。重力に対して、一切の抗力が見られないにもかかわらず、しかし確かに「建っている」。松本峻介の立てる像にも近いものを想起する