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互いの実像を見ずに対立したフェミニズムと保守系反フェミニズム運動。存在しない怪物の姿に怯え、恐れを抱く。そうしたことに時間を費やす間に本来直視すべきだった社会課題は、置き去りにされたのではないか。(※後日改稿予定)
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出たときから、読んでみたいなー、買おっかなーと思っていた本。あまりの忙しさと、とある人の「あんな人たちの本読まなくていい」発言でちょっと気持ちをくじかれたが、やっと12月に入手。
私はたぶん、フェミちゃん周辺の本や書き物を人よりは多めに読んでいるが、この本を読んで、どうも90年代半ば以降がごそっと抜けてるんやなと思った。90年代終わりから2000年代初めは、あっちへ行ったりこっちへ行ったり、死人が出たり病人が出たり、自分の周辺がてんやわんやだったせいもあるのだろうが、「男女共同参画社会基本法」が成立したことは私の記憶には全く残っていない。
この基本法制定以降、都道府県や市町村で「男女共同参画条例」がぞくぞくと制定されたこともほとんど記憶になく、条例制定をめぐって各地でいくつか悶着があったことは知識としては知っていたが、具体的に何が問題になっていたのかは知らなかった。
法にしろ条例にしろ各地の施設名称にしろ、「男女平等」ではなくて「男女共同参画」というフシギな言葉になったいきさつもよく知らずにいるが、「男女共同参画って、何なん?」というギモンは、いつしか私の中に育っていた。
「ジェンダー」という言葉も、自分自身が「こういうことや」と説明できずにいたので、ずっと長いこと自分の書くものでは使わなかった。「ジェンダー」が(わかったかも!)と思う瞬間はときどきあったのだが、考えていると、またぐるぐるしていた。フェミちゃん周辺の本やジェンダーが何とかいう本は、それなりに読んだりしていたが、そういう本はなんだかどんどん難しくなっているように思えた。
そして、「バックラッシュ」と呼ばれた、2000年代半ば以降の"ジェンダーフリー"に対するバッシングの動き。私は当初この言葉を聞いた時には、だいぶ前に訳本が出たスーザン・ファールディの『バックラッシュ』の本のことを思い浮かべたものだった。その後、「バックラッシュ」と名指して批判する側の言い分に私も少なからず影響されて、バックラッシュ派=古くさい主張をする保守ごりごりの人、という印象になっていった。
…そんなことを、この本を読みながら思い出していた。
この本の著者たちは、2005年以降、フェミニズム側と保守側で悶着が起こった地域を訪ね、「バックラッシュ派」と呼ばれた人たちと会って、その行動に至った背景や思いを聞き取ろうとしてきた。また、その動きに直面した側の人たち、フェミニストと呼ばれる人たちや、地元の住民たちにも会って、話を聞いてきた。
著者たちは、自身が「フェミニストである」と明言して、バックラッシュ派の人たちとアポを取り、会っている。お互いに、会うまでは相当の緊張もあったと書いてあるが、実際に会って話をしてみれば、立場の違いはあり、主張に同意できないところは残るものの、「なぜこの人たちがフェミニズムを批判するのか、どういう人たちで、どういう考えにたっているのかについて、聞くということをそれまで私自身もしてこなかったことを思い知らされた」(p.96)と、宇部を訪ねた山口智美は書いている。
それは���千葉、都城、福井を訪ねた章でも同じで、「こちらは相手を「恐ろしいバックラッシャー」、向こうは「過激なフェミニスト」と、お互いのイメージを胸に初対面の時を迎えた」(p.209)が、それでも会ってみれば、対話への糸口が全くないわけでもない、運動体の問題点や運動の方法に関してなど興味関心が共通することもあり、思った以上に互いの姿が似ていると発見することもあった、という。
▼市民運動化していく保守運動と、体制保守化していくフェミニズム。山口県宇部市の事例は、多くの論点を私たちに残した。「正義」というものは、中央から地方へと啓蒙されるものなのか。国家および行政が、「特定のジェンダーイメージに基づいて生きたい」という市民に対し、「性役割にとらわれずに生きる」ことを求めるというのは、どこまで正当化しうるのか。「抑圧される側からの批判」を続けてきたフェミニズムだが、政治権力を運用する側に立った際に、それまでの方法論をそのまま使うことは、大きな危険を伴う。(p.330)
そして、「男女平等」にしろ「男女共同参画」にしろ、"男女"でええんやろかと考えるようになった私には、4章の都城での条例づくりの話、市町村合併前の都城市の旧条例にあった表現のことは、印象に残った。
▼都城市の旧条例で使われた「性別又は性的指向にかかわらず」という簡潔な表現は、考え抜かれた文言である。「性別にかかわらず」により、「男であるか女であるか」そのどちらであるかを問わない。性差別がないことはもとより、トランスジェンダ-、性同一性障害、インターセックスなど、性別は男か女かに判別できるものだという性の二元論に合致しない人の人権を考慮すべきであるとする。一方「性的指向にかかわらず」では、性的意識の対象が異性、同性、あるいは両性のいずれに向かうかにとらわれないことを指す。つまり、そのいずれであっても人権が尊重されるべきであると説いていることになる。したがってそれらを組み合わせた「性別又は性的指向にかかわらずすべての人の人権」という表現は、幅広い層の性的少数者の権利擁護を明文化している。(pp.156-157)
5章で書かれる福井の図書問題のところでは、私自身が男女共同参画とついた施設の図書室で3年間はたらいた経験を振り返ってみて、この本でも書かれているように、「男女共同参画にふさわしい図書とは何か」ということ、図書館との違いは何なのかということは、いまもあまりよくわからんなーと正直思う。
『奥むめおものがたり』を読んだあとに、読みかけていた残りを集中して読んだこともあって、ヌエックのことを書いた6章「箱モノ設置主義と男女共同参画政策」では、あの本でさらーと書かれていた、ヌエック設置に至るあたりは、そうなっていたのか~と思った。
この本によれば、ヌエックは、「全国の女性運動が国に要望してできた」のではなく、「高度経済成長により潤沢になった国家財政を背景に、文部省所管の社会教育施設を青少年にとどまらず、「婦人」へと拡張するために構想されたもの」(p.257)だった。そこには、国民を「オシエ・ソダテル・ミチビク」という官僚トップダウンによるシステムの香りがある。
▼当時の文部官僚の語りを追うと、事実は「女性たちが要請」したわけではなく、新たに建物を建てて、そこでの事業で女性や女性団体を組織化し、傘下に置こうとしていたことが明らかだ。(p.271)
奥むめおらが結成した全国婦人会館協議会、いまの全国女性会館協議会のこともここには書かれている。
▼ヌエックは「研修、調査研究、情報、交流の四つの機能を有機的に連携させることにより、女性教育の振興を図り、もって男女共同参画社会の形成を促進」を掲げ、研修を事業の柱としている。しかしながら、…その看板である研修事業の三分の一以上が外部業者に丸投げされている…。(p.267)
中でも全国女性会館協議会は、1997年以来、文科省の委託事業を継続して受けており、このNPOに「ヌエックは主たる事業であるはずの「女性リーダー教育」事業を委託している現状」(p.274)だという。
▼戦後から70年代頃までは、女性運動においても権力を問う議論が見られたが、80年代以降、女性学・ジェンダー学が広がりはじめ、現在では箱モノ設置主義という行政施策のあり方を問う議論はほとんど見られない。税金の使途の妥当性、官と民の関係、国と地方の関係を見直すという視点から、ヌエックをはじめとする男女共同参画センターのあり方を再検討することが、改めて求められている。(p.276)
公立の男女共同参画センターの多くに図書室的なものが設けられているのは、ヌエックをまねっこしてのことであるらしいが、そういう"形のまねっこ"は、各地の条例づくりにおける"モデルのまねっこ"とも通じるように思え、そんなふうにできてきたセンターや条例を「市民の要望でできた」とか「女性たちの要望が実って」と言うのは、やっぱり違うように感じる。(事業内容や事業名称の"まねっこ"も、あちこちにかなりたくさんみられるのだ。)
この本の主張は、巻末の「結びにかえて」にシンプルにまとめられている。私はこれに、けっこう共感する。そして、フェミニズムだけの問題とちゃうよなーと、それもつくづく感じる。
・フェミニズムの運動は、中央から地方へのトップダウンで進められるべきものなのか。
・文化やコミュニケーション、振る舞いや内面の批評ばかりへと、フェミニズムの対象が偏っていてよいのか。
・貧困や暴力、差別や排除など、具体的な危機が多数ある中、「ジェンダーの危機」ばかり叫んでいてよいのか。
・ジェンダー概念を「知っている者」から「知らない者」へと啓蒙、啓発する、そうした「キヅカセ・オシエ・ソダテル」活動にばかり偏っていてよいのか。
・フェミニズムはこれまで以上に、実証的な分析と、実効的な活動と提言とを行なっていく必要があるのではないか。(p.334)
この本で言及される人のほとんどについて、注で生年を書いてあるのだが、著者についてはその生年情報がなくて、ちょっとフシギ。世代差もそれなりにあるように思うので、著者の生年も入れてほしかったなーと思う。
知ってる人の名もずいぶん出てきたので、読んだ人がいたら、いろいろしゃべってみたい。
*『社会運動の戸惑い』特設ページ
http://www.webfemi.net/?page_id=1154
(正誤表もあり)
(1/4了)
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00年代半ばごろに吹き荒れた「ジェンダーフリー」への「バックラッシュ」の嵐。
あれは一体なんだったのか。論争のフェミニスト側当事者であった著者たちが、保守側の当事者を訪ね、検証したまとめ。
あのげんなりする感じは、あれが学術論争ではなくイデオロギーの押し付け合いとヘイトの塊だったからか。
「彼を知り己を知れば百戦して殆うからず」を実践するような内容。
そこでまっさきに自らを俎上にのせるのがこの本のすごいところ。
登場するいろんな人がそれぞれの信念に従って持論を述べる。
フェミニズム側からみると反論したくなるような意見も多々あるけれど、それに対する著者たちの見解は語られない。
これは論争の続きではなく、あくまであの騒ぎの検証だから。
なんだか風車と闘っている人がいっぱいいる。
相手が風車なら攻撃されたって怒らないし多少のことでは倒れない。
でもドンキホーテ同士が出会ったら、話は噛み合ってないのに本物の決闘が始まってしまう。
保守は「ジェンダーフリー=性差を無くそうとする思想」という思い込みを根拠にフェミニズムを攻撃する。
フェミニストは想像上の「いかにもそういうこといいそうな感じ」の人達をバックラッシュ派として弾劾する。
どちらも脳内の「悪の組織」みたいなものを攻撃しているんだけど、「フェミニスト」と「保守」は実在しているから、誤解曲解の上に立っても喧嘩はできる。
私はこの論争をリアルタイムでみていた。
保守側のものも一応読んだけど、相互理解のためじゃない。論破するために読んでも気持ちの理解はできない。
だから「バックラッシュ派は書いてあることを読みもせずに曲解しては難癖をつけてくる既得権にすがりたい人」というイメージを持っていた。
この本に出てくる保守にはそういう人もいるけれど、そうじゃない人もいる。
話の通じない人よりも話の通じる人のほうが怖かった。
日本時事評論(保守紙)の山口敏昭編集長は、フェミニズムの文献を読み、理解した上で反対する。
そこまでは思想の違いだからわかるんだけど、内容を理解してなお「注意を惹くため」曲解のプロパガンダを発する。
多分、曲解というよりは多少大げさにいってみた程度の認識じゃないかと思う。
映画の「不都合な真実」を思い出した。あれはプロパガンダのうまさが怖かった。
出した人が誇張を理解していても受け取る人はそのまま信じてしまう。
そこを煽ることの怖さをわかっていない。
だけど例えば「ジェンダーチェック」に疑問を出さなかったり、隙をついて条例を通しちゃいましょうというフェミニズムの側も、同じことをしている。
どちらも、多少手続きに誤りがあっても、正しい答にたどりつけば良いと思ってる。
自分の思想を信じているから、正しい手順を踏まないと答がゆがむかもしれないことに気づかない。というか方法が正しくないことにも気づけない。
p98の、山口編集長の言葉はなかなか衝撃的だった。
“フェミニズム運動はレッテル貼���がうまく、「右翼」や「新興宗教団体系」、そして「バックラッシュ」「バックラッシュ派」などといったレッテルをすぐ貼ってしまう。そして「敵/味方」「善人/悪人」といった単純な対立構造を仕立て、自己の正当性を誇示するが、違った意見を聞き入れる寛容性をもたないのではないかと思う”
うわあこれこのまんま私が保守にいだくイメージだよ。
お互いに対話も検証も絶対的に足りてない。と思う反面、やっぱり私は保守が嫌いだから「曲解キャッチフレーズをあれだけ出しておいてどの面下げてこのセリフが言えるのか」とも思ってしまう。
文章も作りもわかりやすくて読みやすいけれど内容を飲み込むのに気合いがいる。
「この人はこういう意見」「この主張はどこから来ているんだろう」という読み方をしようと思っても、やっぱり無知と偏見にもとづいた差別的な言葉はみるのがしんどい。
論争自体が気力を削りあうような実のないバトルだったから、ふりかえりも滅入る。
でもしんどいから見ないまんまで批判したら、ここで論じられている無根拠な論争をなぞってしまう。
図書館で借りたのを休み休み読んでいたら時間切れ。5章まで。
続きは気力を養ってから。
しっかり読まなきゃと思いながら頭の片隅に浮かんでいたのは「君が代・日の丸」のこと。
私が高校生の頃は今ほど右傾化していなかったから、卒業式の対立はあったけれども今より健全だった。
反対する教員がまだ生き残っていて、歌わせたい人たちとなんかやってた。
まさに「なんかやってた」という感想しかなかった。
「私の卒業式なのにどうでもいい人がどうでもいいことで争っている」と思っていた。
今は大事な部分で闘っていたんだとわかるけれど、当時は知らなかった。
愛国教育は受けなかったけど論点も教えてもらわなかったから、何を通そうとしているのかがわからなくて、ただ諍いを嫌悪した。
だからこの国旗国歌問題を知ろうと思ったのは最近だ。それまでは「なんか面倒くさそう」と思ってたから。
この本の中の論争も、しばらく追っていたけれど重箱の隅でケンカしているように思えてきて離れてしまったんだった。
これだけ「おおきな」争いだけど、この界隈に興味のない人は論争の存在さえ知らない。
そこが問題なんだよなきっと。
『自由論』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4003411668自分の理論を強くしようと思ったら敵対する思想を学びなさい、それもただ読むんじゃなくて、その陣営で論陣を張れるくらいにしっかり理解しなさい、ってなことが書いてあった。
『性教育裁判―七生養護学校事件が残したもの』http://booklog.jp/users/melancholidea/archives/1/4000094653 根拠も検証もない批判で教育に口出しされた事件
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感想ではあるが、非常によく調査して書いた本だとは思う。反フェミニズム運動の当事者にわざわざインタビューしたり、フェミニストの翻訳のまずさを指摘したりする、その度胸は大いに認めても良い。
ただ、フェミニズム運動が、どのような背景を持った組織に、どのように阻まれたのか、という点については、もう少し考察の余地はあると思う。フェミニズムに限らず、市井の人々の声をどのように政治に反映させるのか、という軽視してはならない点について、もう少し配慮は必要かと思う。ことに、先般の『はだしのゲン』の一件をみるにつけそう思う。
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「男女共同参画」とかの部分はなかなか難しかったけど、保守の人たちとフェミニズム側の人たちが対話を通じて、思想を超えて繋がる瞬間みたいところが読んでて安心したなぁ・・・!
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図書館で予約したら80人待ちとか言われ、た割には早く順番が来て、しかしここ最近で最も忙しい時に来たので、一章しかちゃんと読めず。延長もできないしね、まだ待ってる人いるでしょうから。
読んだのは斉藤正美による「第五章 男女共同参画とは何か」。推進員になったひとが、まず勉強し、その人たちが市民を啓蒙する。だけど行政側に、こういうのが共同参画だ、という方向性がない。というのに驚愕。すすんで委員になる人は真面目ではあるが。