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【運命の非情な饗宴を描く傑作、待望の新装版!】首席家老・又左衛門の許に果し状が届く。かつて同門の徒であり、今は厄介叔父と呼ばれる市之丞からであった―武家小説の傑作長篇。
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NHK BSで最近(2015年)再放送してる原作と云うことで読んでみた。実はドラマは結構面倒くさい感じで見るのを止めたのだけど、原作もしばらくは結構面倒くさい。時系列が入り組んでるの書かれているので、そこが入り込みにくい原因? でも、孫助に隼太が逢う頃から面白くなってきたので、下巻に期待
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藤沢周平の繊細な派手が光ります。
藩政の中の一生はリアリティがあり、果し合いや闇討ちなど現代社会では見られない生き様も絡んで、作品なぐいぐい引き込まれます。
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「類という名の、一蔵が婿入りした後家にも、男心を惹きつけるその種の神秘的な影のようのものが、つきまとっていたものだが、その妻女の身持ちの悪さのために、一人の男が死に、長い間の友人が罪を犯して脱藩した(中略)後に残っているのは、破滅を向えた不倫の隠しごとの醜い残骸だけだった」
家老の桑山又左衛門は、政敵に勝利して藩政の実権を握った後、古い友人の野瀬市之丞から果たし状を渡される。野瀬は若い頃、同じ道場仲間の友人の一人であったが、その友人たち(一蔵も含め)は歳月を経るごとに、人生(運命)が分かれてくる。
果たし状をもらったことで、若い頃から今に至るまでの長い道のりを思い起こす。
今年は、1月のベッキーから不倫報道が相次いでいるが、不倫は殺傷事件を呼ぶなど大きな代償を払うこともある。不倫は、覚悟(人生を賭ける)を持って行うか、火遊びならしないほうがいいと改めて思わされる。
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2021/3/9 読了
若年時に同じ道場で剣術修行をした者達が熟年期に至って毀誉褒貶がどのように変遷していったか、という藤沢周平 時代劇ではお馴染みのシチュエーション。初老の主人公が自分の人生や権力争奪争いを振り返るところはなんとも物悲しい。市之丞が決闘を申し込む心情はやや分かりにくい。
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年末年始にはこういうサムライ小説を読みたくなる。期待を裏切らない真っ直ぐなストーリー。身分や家柄など気にしなかった子供時代の仲間たちが成長するにつれて様々な事情が見えてくる。出世、結婚、仕事、そして仲間との付き合いかた。社会の波に揉まれて意図も望みもしない方向で衝突したり、裏切りや離別の形になったりする。武士の世の中だからということではなく、今もそう。運命や立場には逆らえない場合もあるのだろうが、できるだけ守り続けたいものがある。なんだか昔の仲間に会いたくなる。
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藤沢周平の最高傑作のひとつ。
その密度と、しっとりした肌触りと、読者をとらえて離さない展開で、同時期に読んでいたダルタニャン物語がスカスカに思えてきたのだが、それはアレクサント゛ル・デュマが悪いのではなく、藤沢周平がすごすぎるのだ。
藤沢周平を最初から読んできて、残った作品が少なくなってきた。
年齢とともに、作品の完成度がさらに上がっているのは、すごいとしか言いようがない。
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武家小説。歴史小説は現代と異なる世界観を楽しむことが魅力であるが、江戸時代の中下級武士は何石取りと常にランキングされる世界に暮らしており、重苦しい。
権力側の「大丈夫」という質問に社交辞令的に「大丈夫です」と答えてはならない。以下のやり取りには意味がある(86頁)。
「お丈夫で何よりだ」
「いえ、あまり丈夫でもありませぬ」
どう見ても大丈夫ではない状態にある人に「大丈夫か」と聞くことは最低の発言である。この質問は卑怯である。相手は大丈夫でも大丈夫でなくても、社交辞令的には「大丈夫です」と答えざるを得ないことになる。『鬼滅の刃』の竈門炭治郎も「大丈夫ですか」と聞いて怒られていた。人の気持ちが分かる優しい炭治郎らしからぬ失敗である。
日本では大丈夫でない原因を作った人間が「大丈夫か」と質問することもある。人の痛みを考えない最低の発言である。単に相手に「大丈夫です」と言わせたいだけである。本当に大丈夫かどうかは関係ない。むしろ自殺しても関係ない。単に「大丈夫です」という回答を強要し、自分の責任を回避する保身第一の無能公務員体質が背景にある。そのような発言をしたら恨まれることは当然である。