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E.H.カーの歴史観を乗り越える、歴史を学び研究する人たちのための入門書。
歴史は過去の出来事の羅列ではない。偶然の出来事から突如として激変する歴史、創造と破壊を繰り返して飛躍する歴史、創造的行為によって切り開かれていく歴史――、歴史は生き物だ。
本書は、生命パラダイムから歴史をどう見るか、その見方を問い直す。歴史を「内から」見る歴史哲学へといざなう一冊。
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歴史に対する考え方が大きく変わった。歴史を一つの複雑系と見る考え方や、歴史と歴史家の関係についての考えは、自分の歴史の見かたを変えてくれたと思う。『歴史とは何か』もぜひ読んでみたい。
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歴史はシナリオのない芝居です。歴史は、予定論のシナリオを狂わす偶然性によって成り立っているのです。(p.70)
歴史は、実のところ、過去のことを語っているのではありません。歴史的事実の選択の基準も過去にはなく、いつも現在にあります。だから、時代が変われば価値観も変わり、過去の歴史の中から何を重要なものとして選択するかも変わってきます。選択そのものは、その時代その時代の関心によります。歴史とは、ある時代が注目したことの記録であり、それは次の時代に書き変えられます。歴史叙述そのものが歴史的に変化していくのです。歴史は歴史叙述を超えているのです。(p.116)
歴史を研究する前に、それを書いた歴史家を研究しなければならないことになります。歴史的事実を思い浮かべる前に、その事実を誰が語っているのか、どのような立場にある歴史家が記述しているのかを見極めなければなりません。歴史家も。必ずしも不偏不党の立場で歴史を記述しているのではなく、一定の価値判断をもって歴史記述をしています。その価値判断は様々ですから、歴史記述も様々です。同じ一つのことでも、多くの歴史家によって異なったイメージで描かれます。歴史家が歴史的史料を集め整理する際でさえ、歴史家の社会的地位などが影響してきます。歴史家も、その出身や育ち、地位や経験など、無意識の背景をもっています。それが、歴史家の見方を左右します。(p.138-9)
歴史を書くには構想力が必要です。構想力がなかったら、歴史は構成もされず、読むことも、理解することもできないでしょう。構想力こそ、歴史叙述に一貫性を与えます。しかし、この歴史的構想力は経験に先んじてあるものではなく、歴史家がその時代で経験している体験に根ざすものです。(p.170)
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以下引用
わたしたちは、いつも、過去から現在への延長線上に未来を予測して動いていますが、歴史は、常に想定外の事件によって、突然その方向を変えていきます。そして歴史は突如として激変し、おもいがけない結果をもたらします
歴史は、その渦中を生きる人間によってつくられてきました。わたしたちは、歴史法則の単なる操り人形ではありません。歴史を内側から見る必要があるのです。わたしたちの前に道はありません。わたしたちは見えない未来にぶつかり、未来を切り開きながら生きていきます。しかし、そのためにこそ、わたしたちは過去に学ばねばなりません。わたしたちが歩んできた来し方を反省してみる必要があるのも、そのためです。五里霧中の未来に面した立場から過去を眺めるとき、決してそれは必然の歩みではなかったことがわかるでしょう。
→その「歴史」は、客観的な純粋記述によっては、共有しえない。かつてあったことは、個人の記憶にしか刻まれていない。それを共有することがなくなってしまったら、それを語れる人がいなくなってしまったら、「歴史」という運動それ自体が、この世界からなくなってしまう。ベンヤミンのいう「歴史の主体」というのは、こうした「過去あったことを」、あらゆる方向から知り、鑑みながら、それを引き継いだ「今」を、暗黒の中で模索していく存在であると言えるだろう。
E・H・カーの「歴史とは何か」は、歴史を現在と過去との対話と見て、歴史の中に現代物理学の不確定原理を読み込んだもので、今でも価値をもった深い考察です。
わたしたちの社会の歴史は、絶えることなく変動する社会環境への適応の歴史でもあり、それはみずからの構造変革によって可能なのです。
社会の歴史なかりでなく、長い人類史を鳥瞰しますと、歴史はまた自然環境への適応の歴史でもありました。人類史を取り囲む自然環境も幾度となく変動してきましたが、この環境変動に適応するためにも、人類は、常に新しい組織や制度、社会構造を創出し、外部環境を改変し、環境を形成してきました。環境の変動に対応するのも、環境の改変なしには不可能でした。石器の制作と使用、牧畜や農業の開始、都市文明の形成、科学技術の発達、産業の振興など、どれをとっても、人類史は環境改変能力の向上の歴史でもありました。
→自然に生きた っていうけれど、その中でいろいろな組織や構造を作り、人間は生きて来た。それは、今も同じだ。
人類は、自己の中に環境を受容するとともに、環境のなかに自己自身を創造してきたのです。
歴史は、生命同様、環境との相互作用から自己自身を形成する自己創出形です。わたしたちの歴史は、環境との相互作用を通して、絶えず新しい秩序や構造を創発していきます。歴史は新しい環境をつくっていくとともに、その作られた環境がまた新しい歴史を作っていきます。
歴史はあるのではなく、成るのです。歴史は、休むことなく新しさに向かって前進する運動であり、展開なのです。
→そして、その「運動」のなかに入っていくのが、世界内存���ということ、歴史の主体ということなのだろう
わたしたちは、日々、歴史のただなかを生きています。歴史の中で行為しながら、歴史を形成しています。誰も歴史の外に止まることはできません。
わたしたちは、歴史の中に好むと好まざるに拘らず産み落とされています。その限り、わたしたちは歴史によって規定されていますが、しかし、歴史を規定するのもわたしたちです。
渦中に身を通じ、意を決して新たな未来に突入していく行為
歴史学が記述する行為は、精気のない、、、
→昔は、この「歴史」を引き継ぐというのが、もっと身近にあったんだろうな。「死」が近かったことも要因かもしれない。無常観を今は感じにくい。そして、外的環境との沸騰的な交渉をしない。「ヒト」が多すぎる。歴史に接続するきっかけの多くは「傷」だと思う。