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内田センセイ経済人にきもちよくケンカ売りまくりでやべえー!!となる一冊でした(笑)そんな軽々なテンションではしゃいでいる場合ではないと思いますが(笑)
日経を読んでると、内田センセイの言っていること全てが正しい訳ではないのだと思えますし(経済人は自己の利益のために仕事をするという前提があるようですが、実際には世のため人のためと思ってやっている方も確かにいるし、お題目ではなくそれが規範とされている、と信じたい)、しかし人文学者としてこの視点から熱く警鐘を鳴らし続ける人が必要な事態だというのも強く感じます。まえがきに「もう二度と依頼が来なくなるくらい過激に」(笑)とあるので、そのくらいのラディカルさ(この言葉聞くとウチダ節って感じがします)でもって語っているのだと思います。言いすぎなくらいで。
問題の内容は、政治が経済に肩入れしすぎている、グローバル企業の言いなりになっているので危険だ、というような主題かと思います。国家の寿命を考えた場合、政治は百年先を見据えるべきなのに、寿命が5年ほどの株式会社の考え方に同調してしまっている。国民国家というシステムが崩壊に向かっている。(下村治の「国民経済」の概念も崩壊している)ということに内田センセイ警鐘鳴らしまくりでした。
まだ半分、贈与経済のはじまりの辺りまでしか読んでいません。
同じことを簡単な言葉で何度も言ってくれるので、あいかわらずバカにもよくわかってありがたいです。
情理を尽くしてリーダブルな文章で伝える。その書く技術が、なにより素晴らしいなあと改めて思いました。
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ブログに掲載しました。
http://boketen.seesaa.net/
グローバリズムのもたらす災厄への、哲学者からの警鐘
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歴史が教えているように、競争的なマインドの人間は危機を生き抜くことができない。危機とは定義上「1人では生きてゆけない」状況のことだからである。だからそれを生き延びるためには、他の人々とある種の「共生体」を形成できる能力が必要である。p344
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内田樹さんの著書の特色は、読了後、ただちに他人に感想を話したくなるという点に尽きます。下手をすると読んでいる最中に「ねぇねぇ聞いて聞いて」と誰かに語りたくなる衝動に駆られます。
その魅力を思いつくままに羅列すると、独創性がある、読み手の知性を喚起する、スリリングである、リーダブルである、その他いろいろ…。こんな書き手は滅多にいません。
必然、レビューを書き始めるとキリがありません。感想文の出題者は「簡潔にまとめよ」と指示しますが、世の中には簡潔にまとめられない作品というものがあるのです。
本書もまさしくそういう類の本です。でも、時間がないので誠に惜しいですが、ひとつの論考に絞って感想を記したいと思います。
それは私の仕事に大いに関係のある論件を扱っています。テーマは「地方紙の存在意義について」。同僚はもちろん、地方紙に関わる全ての人に読んでほしいです。
著者によると、米国では経営不振から次々と地方紙が消滅しています。カリフォルニアの小さな街ベルでは、地元紙が1998年に休刊になり、地元の出来事を報道するメディアがなくなりました。
その結果、何が起きたか。
「市の行政官は500万円だった年間給与を十数年かけて段階的に12倍の6400万円まで引き上げた。市議会の了承も得、ほかの公務員もお手盛りで給与を増やしていた。でも住民はそのことを知らなかった。十数年間、市議会にも市議選にも新聞記者がひとりも行かなかったからである」(P272~273)
ずいぶん単純な話ですが、監視の目がなくなると、規律が緩むというのは事実だろうと思います。権力の担い手が人間である以上、それは必ず腐敗する宿命を帯びています。ですから、社会のあらゆるシステムは、放っておくと劣化するという前提で作られているのだと思います。行政が健全に運営されるためにも、新聞記者の存在は不可欠なのです。
しかし、現下の情勢から米国だけでなく日本も地方紙の衰退は免れませんし、現にそのように事態は進行しています。
どうすればいいのか。「ネットがあるじゃないか」とおっしゃる方もいます。ですが、ネットの情報の多くは既に新聞やテレビが報じたニュースについてのものです。
「ネットは、新聞やテレビが報じたニュースを高速ですくって世界に広める力は抜群だが、坑内にもぐることはしない。新聞記者がコツコツと採掘する作業を止めたら、ニュースは埋もれたままで終わってしまう」(P273)
ありがたいことに、著者は対策の一例を示しています。米連邦通信委員会(FCC)から委託されて全米のニュース需給事情を調べた元米誌記者スティーブン・ワルドマン氏が語ります。
「自治体の動きを監視し、住民に伝える仕事は自費ではできない。ニュース供給を絶やさないためには、地元に記者を置いておくことが欠かせない」
ワルドマン氏は、ビジネスモデルとしての民間新聞はもう保たないだろうと見通したうえで、それに代わるものとして住民からの寄付を財源とする「NPOとしての報道専門組織を各地で立ち上げる」ことを提唱しています。
そんな簡単にできるの? と思われる方もいるかもしれません。「メディ���に際だった知性や批評性を求める」(著者)が背景にあるでしょう。しかし、著者は「それはおかしい」と言下に否定します。
「警察官や消防士にきわだった身体能力や推理能力や防災能力を求めるのがおかしいのと同じである。地域の治安や防災はもともと、その地域のフルメンバーであれば『誰でもが負担しなければならなかった、町内の仕事』であった。誰もが均等に負担すべき仕事であったということは、『誰でもできる仕事』でなければならないということである」(P275~276)
同感です。地方の発展を考えた場合、メディアの縮小化、「小商い」は現在、採用し得る選択肢の中では比較的賢明で現実的なソリューションなのではと考えた次第。同時に、弊社のような「小商い」のメディアで働く記者として、勇気を得たことでした。
どっちみち長くなりましたね。すみません。
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「憂国論」なので、全体的に暗い話が多いのですが、その中で「こうしたらいいのかもしれない、ちょっとはよくなるかもしれない」という「希望のとっかかり」のようなものを掴むことはできます。
”事故を未然に防いだ人たちの功績は決して顕彰されることがありません。事故は起きていないのですから。そういう人たちのちょっとした警戒心とささやかな配慮のおかげで大きな災禍を回避できた場合があったということが日本にもあったはずです。…そういう顕彰されることのない英雄のことを「アンサング・ヒーロー」と呼びます。「歌われざる英雄」です。”(「あとがき」より)
何か問題が発生してからそれを解決した方が、見た目には貢献したことが分かりやすいし、報われやすいのかもしれない。だけど、もう少し「アンサング・ヒーロー」な生き方を見直してもいいのかもしれない、見知らぬ誰かのために、未来の自分や自分たちの子供たちのために。
そんな気持ちでいっぱいになりながら、本を閉じました。
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攻撃的な論旨を平易なロジックとキャッチーな喩えで投げかけてくるウチダ節はますます脂がのってます。
今回のファーストヒットは「政策決定プロセスがスピーディーで一枚岩であることは、それが正しい解を導くことと論理的につながりがない」ということを『朝三暮四』で説明しているあたり。「この政権転覆させちゃる」と勇躍投票所に向かったかつての自分は、「サル飼いのおっさんの提案に即答するサル」であったということに気づかされ、忸怩たる思いとともに膝を打ったのでありました。
以降も目から鱗なお話のつるべ打ち。リテラシー論はしょんぼりしながら読みました(笑)。
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内田センセイの、例によってあちこちのブログやネットや雑誌などに寄稿された文章から編まれた憂国論。政治、経済、教育、マスメディアなどあらゆるところでコンフリクトを起こしているように見える我が国を、どのように論じることができるのか。いったいその処方箋は存在するのか。
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内田さんのブログやその他書き物の中から「政治ネタ」だけを選んで編んだアンソロジー。面白かったー。
前に内田さんは「自分の書いたものはネットで無料で読めるのに、どうしてお金を出してそのネットに書いたものが載っている本を買ってくれる人がいるのか」ということを書いていた(と思う)けれど、「本」という再編集された形で関連性を意識しながら読むとまた新たな発見があるからだと改めて思いました。
「憂国論」というだけあって、未来に夢も希望も無い話が多い。だけれども「最悪」を想定して、そこからどう現状や未来を変えていくのかという視点はとても大切だと思うので、そういう意味で「他の人が書かないような変なこと」が満載のこの本は一読の価値があるのではなかろうかと思いました。
政治も教育も何もかもが「長期的な視点」を見失って、とりあえず「目先のこと」、「短期的な結果」を追い求めるようになっている傾向はとても興味深い。実際仕事しててそう思うし。以下特に印象の残ったところ。
「本来企業が経営努力によって引き受けるべきコストを国民国家に押しつけて、利益だけを確保しようとするのがグローバル企業の基本的な戦略」(p25)
「学校教育の目的は金が稼げる知識や技能を習得させることじゃない」(p305)
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面白い。著者のブログから『政治ネタ』を拾って
本にした内容なのですが。
行き過ぎた市場主義。グローバル化。贈与経済。廃県置藩
橋下・維新の会批判。教育行政批判等々。
いいようによっては屁理屈とそん色がないほどの論理と
本質によるキレッキレの批判論評。憂国からくる提案もそれも秀逸。
アンサングヒーローを目指し。『自己利益よりも公共的な利益を優先させることの必要性を理解できる程度に知的であること』を目指したいと思う内容です。私よりも若い人たちに読んでほしい内容です。秀逸です。
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本書で著者が何度も言及している、政治の責務は「国民全員を食わせること」であるという国民経済という考え方はシンプルでわかりやすい。これは今の政治に置き去りにされている考え方だ。
(以下引用)
議会制民主主義というのは、さまざまな政党政治勢力がそれぞれ異なる主義主張を訴え合い、それをすりあわせて「落としどころ」に収めるという調整システムのことである。「落としどころ」というのは、言い換えると、全員が同じように不満であるソリューション(結論)のことである。誰も満足しない解を得るためにながながと議論する政体、それが民主制である、(P.48)
行政官に対しては「税金を無駄使いしている」という批判はありうるが、「稼ぎが悪い」という批判はありえない。(中略)管理部門は価値あるものを創りだすプロセスを支援するのが仕事であって、自分たちではなにも価値あるものを創りださない。行政とはそのような管理部門である。そして、そういうものでよろしいいのである。(P.73)
ひとわたり欲しいものは手に入ったら、購買力が落ち、経済成長は鈍化する。欲望が身体を基準にしている限り、欲しい物には限界があるからである。1日に三食以上食べるのはむずかしい(してもいいが体を壊す)。洋服だって一着しか着られない。(中略)かように身体が欲望の基本であるときには、「身体という限界」がある。ある程度以上の商品を「享受する」ことを身体が許してくれない。そのとき経済成長が鈍化する。(P.111)
今の日本における若年層の雇用環境の悪化は「多くの人に就業機会を与えるために、生産性は低いが人手を多く要する産業分野が国民経済的には存在しなければならない」という常識が統治者からも、経営者からも失われたからではないのか。(P.122)
外交についての経験則のひとつは「ステークホルダーの数が多ければ多いほど、問題解決も破局もいずれも実現する確立が減る」ということである。(P.165)
ロビンソン・クルーソー的単独者は、無人島でそれほど厳密な手続きで、それほど精密な実験を行っても、科学的心理に到達することはできない。それは彼が実験によって到達した命題が科学的に間違っているからではない。命題の当否を吟味するための「集合的な知」の場が存在しないからである。科学者たちが集まって、ある命題の真偽について議論するための「公共的な場」が存在しないからである。「反証不能」とはそのことである。命題そのものがどれほど正しくても、他の専門家達による「反証機会」が奪われている限り、それは「科学的」とは言われない。(P.238)
「オレがここで死んでも困るのはオレだけだ」と思う人間と、「彼らのためにも、オレはこんなとこで死ぬわけにはいかない」と思う人間では、ぎりぎり局面での踏ん張り方がまるで違う。それは社会的能力の開発においても変わりません。自分のために、自分ひとりの立身出世や快楽のために生きている人間は自分の社会的能力の開発をすぐに止めてしまう。「まぁ、こんなもんでいいよ」と思ったら、そこで止まる。でも他の人生を背負っている人間はそうもゆくまい。(P.331)
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著者内田樹氏の日本憂国論。
2013年現在日本で起こっている様々な社会問題に対して著者独自の視点から考察が加えられている。
「他人のあまり言わないこと」を書き綴ったと著者が豪語するように、大手メディアから発信される情報とは大きく異なる知見に出会浮ことが出来た。
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読み進めるたびに目からうろこ。
いかに経済的な利得に頭が凝り固まっていたのかということに気付かされました。
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久々発見、内田さんの本。
ちょっと大きめの本屋さんでじっくり本棚漁る時間は至高ですが、収穫があるとなおよしですね。
「憂国論」というタイトルそのままに、現代日本の様々な問題を独特の視点から掘り下げて意見を述べている本です。
特に強い口調で何度も述べられているのが以下の3点。
・国家のことを考える際にグローバリストの言うことを信じてはならない
・市場開放・自由主義を行政に適用するべきではない
・国の役目は、国民全員をいかに食わしていくか、である(下村 治著『日本は悪くない 悪いのはアメリカだ』参考)
ざっくりといえば、フランスの特徴的な思想のひとつである「自然権」の影響を大きく受けた(と私は感じる)考え方+福祉国家(国民国家)思想がその根幹にあります。
他にも日米関係の特殊性や贈与経済への転換への展望などが書かれています。
著者自身も述べていますが、書籍に書かれた内容は決して一般的な意見ではないでしょう。
しかし逆に言えば、タイムリーで今風でないのに、こうして人が「なるほど」と思える文章を書くことができるということは、読者の視野を広げ、新しい考え方や行動のきっかけとなる可能性を秘めているのではないでしょうか。
個人的には、行政への自由主義的思想の介入度合がここ数年顕著である点は同感ですが、グローバル企業の意見に傾聴するか否かについては自分の知識が浅いゆえに一概に信じられないとも言えません。
また、天からの授かり物である先天的な資源(etc. 身体的特徴、才能)は他の誰かと分けあい、共有すべき、との意見について、後天的な資源(etc. 知識、能力)はどう考えていらっしゃるのか気になりました。
「この本で述べられていることはすばらしい!著者の言うとおりだ!」
というレビューばかりの本よりも、
「著者はこんな風に言っているけど他にはどんな意見があるんだろう or わたしは〇〇についてはこうだと思うなぁ」
といった「その先」につながる感想が持てる本が見つかるとうれしいですね。
こういった、手にとってよかったなぁ、と思える本に出会えるのはしあわせなことです。
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著者の本は、これまでにも何冊か読み、ときおり
ブログなども追っていた…新刊を見たくて、書店へゆくと
ビニルがかかっていて、特定秘密保護法に関する
号外冊子がついてる! 単行本では珍しいこと!
本書は、2011年から2013年にかけての政治関連の
論説を編集したもの…内容は多岐にわたり、
「ほぉ!」と思ったところに付箋を入れていたら、
数十枚に及んでしまった…まさに…目からうろこの一冊。
たとえば、2012年8月の消費増税法案に関して
次のように語る…要旨がわかるように抜粋すると…
―法人税を下げ、賃金を下げ、公害規制を緩和し、
原発を稼働させ、インフラを整備すべしというのが
当今の「リアリスト」たちの言い分である。
―「『選択と集中』だよ。国際競争力のないやつらは
マーケットから退場する。それがフェアネスだ」と
豪語するであろう。
―(しかし)自主的にマーケットから撤収する人々が
出てくる可能性を彼らは勘定に入れていない。
こうした言説からボクは、自らを浅薄卑小と思いつつ、
生活者として、お金にかえられない喜びは、
お金をかけなくても得られるもの…と再認識したのです。
生活の喜びにつながる営為は不断に続けてゆきたい…と。
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素材は2011〜13年のブログから選出された政治・教育アンソロジー。内容は繰り返しになっているが、根底にあるのは全体を貫く深い危機感。ぜつぼう的状況のなか複雑に絡まった呪いを解毒するうえで必要なことが幾つか。先天的な能力のシェア、身近な人との連帯、「蟻の穴を塞ぐこと」、など。「能力主義的な思想が内面化した世代は、世代間の不公平に『怒り』を感じ、同世代間の不公平に『あきらめ』を、社会的不備の原因を質し、解決策を講ずることについて『無関心』を感じている」。実感としてあるだけに、指摘の一つひとつが重い。