紙の本
腑に落ちる点がポロポロ。
2015/12/27 03:01
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投稿者:朝に道を聞かば夕に死すとも。かなり。 - この投稿者のレビュー一覧を見る
おそらく知性のみならず、倫理も混乱している状態なんだと思います。で、この本を読みました。
市民は、その判断は専門家にお任せしますというマインドから原発事故が起こって、科学への不信が過剰にならないためにはどうしたらいいのか。複合的な判断が必要な事柄についての発言はしないことが美徳とされてきました。
それじゃ、理想の専門家ってのは?って問いに「一緒に考えてくれる人」という一定の解が出てきます。
平時であれば専門家の棲み分けで回る仕組みではあったわけです。そのためにはトランスサイエンティックな交流が必要であり、ときに相手の話を聞いて自らの意見を変える覚悟、交渉事が必要になります。
「研究者はレフェリーではなくプレイヤーに変わったのである。」
対して研究者でもない私たちは社会の難しい問題に直面するとすぐに白黒つけたがります。わかりやすい答え、明確な答えを性急に求めます。しかし自分の生き方の問題でも重要な問題ほどすぐに答えは出てきません。
わからないものは何か?わからないままに対処しないといけないものはどう対処するか?という複雑性がますます堆積する中で、「思考の耐性」こそが今こそ求められている、とします。
私たちはあらゆる活動を成績に還元する労働社会で、学校化社会で生きています。この本で介護施設とかケアの話が出てくるのは、そことは違った社会からヒントを得るための重要なテーマであるからこそ考えられているのだと推察できます。
東西冷戦の後、左右の対立がほとんど見えなくなり、イデオロギーの終焉と言われました。しかし、実は今がイデオロギーの時代ではないか?と問います。よく思想とイデオロギーは違うなんて言いますが、思想のためには、言葉をまとめなければなりません。しかし「論理に代わってイメージの連接が、推論を駆動している」のがイデオロギーに含まれているとするならば、なるほどと膝を打つのです。確かに本に書いているようにイノベーションとか公共性とか言いますが、なんか言葉が上滑りしているんですよね。
「普通ということを初めて人が口にした時、ときめきのある言葉だった。例えば普通選挙や普通教育。平等主義的な理念を表していた。特急や特別急行なども登場して普通列車はいよいよ下級の列車を意味するようになったおそらくそれ以降普通より限定や特別の方が偉そうな顔をするようになった。」
「普通」に何も感じなくなった私たち。多くの自己啓発書にみられるように差異化・卓越化を自分に課す社会はどうなるのか?そのためには見ず知らずの人たちに対する想像力が必要になってくるのでしょうが、そんな「気の利いた人たち」を増やしたり、想像力を欠いているところでもリスクがうまく回避されるような仕組みを設計するなんてのは、「高度に私的な作業」で「重い課題」とされています。
それじゃ、気が利くとか想像力がうまく働くってのはどういうこと?ってのは本書をご参照あれ。
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細分化された専門に引きこもる専門家と文句を言うだけの受身の人々、経済成長とともに堕落した知性(教養)を一喝し、大学のミッション、コミュニティの課題、メディアの役割を問う。初出で掲載された媒体や年代がバラバラで散漫な印象ですが、逆にそれが幸いして気楽に読めます。
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出張帰りに先輩にエロ本買って帰りますと告げて買った本。
冒頭の、科学技術は専門家にゆだねるには荷が重すぎる。という文句に惹かれて買いました。
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科学について、大学について、コミュニティについて、メディアについての論考を通じて「知性とは何か」を語りかける一冊。
生活のあらゆるものがサービスとして外部化し、市民が無能力化してしまったことに対する危機感と、これから市民力(シチズンシップ)を取り戻していく必要があること。
専門技術が高度化するとともに対処が必要な問題も複雑化しているのに、他分野との専門家や市民との対話ができない専門家が多く、多角的なコミュニケーションの回路のデザインが必要であること。
一冊を通して、これら二点に触れるところが多く、筆者の強い想いを感じました。
新聞記者への叱咤激励ともとれる前向きな批評を読んで、また数は少ないのかもしれないけれどひとつの事件からその奥にある社会構造まで切り込んだ奥行きのある記事が取り上げられており、新聞も悪くないのかなぁ、たまには読みたいなぁ、という気持ちになりました。
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さすが鷲田さん。好きやなあ。
身近にあるものごとを思考のタネにして、「あ、確かに」と思えるような思考を巡らせてゆく。
やっぱり、このひとの文章の繊細さ、触れたら壊れそうなぐらいに丁寧な言葉の積み上げが好きです。
でも、同時にこのひとの文章は一筋縄ではいかないな、と思う。
本気で書かれると、あっという間についてゆけなくなる。けど、それも、いい。
このひとが言う「本気で取り組む」という言葉には、重みがある。いつも真剣。
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アカデミックな知識の限界性が露呈したといいつつ、アカデミックな知識の可能性と必要性を捨てていないニュアンスがある。それは著者が大学人だからではなかろうか。
村上龍のアブアンドポップについて、時間が今まで未来から過去に流れるものであったことに対し、時間が現在から過去にさらさら流れていく感覚を描きだし、新しい時間観念を表出してみせたいう評はなるほどと唸った。
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幾つかの分野の知識が混ざり合わないと解決できない複雑な事象に囲まれているのが現代社会と前提をおく。この状況において、一つの専門分野のみを扱うだけで他の分野に完全に疎い専門家ではやっていけない。広く教養という形を身に付けた人材が求められる。
一方で、「専門家任せ」、専門家に任せておけば良いのだとする一般大衆の態度もまた宜しくない。もっと疑問や考えをぶつける姿勢を見せるべきだ。
上記のような内容を時事と照らし合わせて綴った一冊、という感じ。
書店だと哲学の棚に分類されてる事が有ったので、読みづらい文章を覚悟したが、そんなに分かりづらい部分が少なく良い本だった。
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あちらこちらに書かれたことの寄せ集めだったので、内容の重複が多く、少々退屈であった。
3.11以前の哲学や思想を読んでも、それ以後ではこの国を包む何かが大きく変わっているので、意味がないような気がした。
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2000年代に鷲田さんが新聞や雑誌などに書いた文章をまとめた1冊。一つ一つの文章は深いけれど、短いので、時間はかかったけれど読み切ることができました。
文章は「科学」、「大学」、「コミュニティ」、「メディア」の4つのテーマに分けられて収められてます。が、それぞれが独立している訳ではなくタイトルの通り、「パラレル」な世界が構成されていると感じました。以下印象に残ったところ。
空想と「想像力」は違う。
(想像力とは、現実を編んでいる見えない構造や媒介、それらに届くようなまなざしのこと)
(pp45-51「いま、〈知〉の光景が問いかけること」より)
フランスの上級公務員を養成する大学院では卒業要件として「哲学」の論文提出が義務付けられている。(著者の知人はその理由を「よい社会、一人でも多くの市民が幸福になるような社会をめざして働く公務員が『よい社会』とどのようなものか、『幸福』についての定見をもたなければ社会はめちゃくちゃになる」からと言っている。なるほど!)
(pp55)
多くの日本人が「すぐに白黒つけたがる」単純思考にはまってしまった時代だからこそ、わたしたちはその逆方向に心を鍛え直す必要がある。(pp287)
自分が気になったとこだけピックアップしましたが、「想像力の欠如」が「すぐに白黒つけたがる」に繋がるんじゃなかろうかとふと思いました。
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専門家が特殊な集団でしかありえなくなった現代、科学者にはその逆の知的努力が求めらえれいている。状況の全体に目配りしつつ、その都度の状況の中で何が一番大事かを見通せること、複合的な要因によって発生している問題の解決のために幾重にもの取組体制のデザインができることである。科学者は専門分野でのイノベーションだけでなく、社会全体でなすそうした判断にこそ寄与しなければならない。
知は市民の基礎体力の1つである。
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哲学は、使い方の学だという話は私には切実だった。設計制作プロセスから排除され、消費者に閉じ込められた者は、クレームという形でしか事物の有り様にコミットすることができないという不幸。
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よかった!扱っているテーマ的に、鷲田さんの本で読んだなかではいままでで一番好きだ。
専門知、現時点で何が確実に言えて、何が確実に言えないのか掴んでいなくてはいけない。自身の判断を一旦かっこにいれ、問題をさらに聞きなおすこと、別の判断とすり合わせた時に時にそれを優先すること。
フクシマ:学者のいうことはすべて信じられるーから逆への転換(学者のいうことはすべて信じられない)への転換。心配。
住民:どんな専門家がいい専門家ですか?「一緒に考えてくれる人」(市民に変わって答えを出してくれる人ではない)
信頼の根:学者がその知性を自分の利益のために使っていない。(理性の公的利用)知性を自分のためでなく、他者たち、人類のために使うこと。
この逆(知性の「私的使用」、知性を自分のために使うことではなく、特定の社会や集団のなかで自らにあてがわれた立場に従って振舞うこと)=上司の指示に受動的に従う、割当られた職務に無批判にふるまう
バイオテクノリジー:存在の値踏み、人が別の人の存在価値を決定すること
市民は専門家に判断を丸投げするでなく自分の頭で考えること。
ほとんどが<見えない>なかで行われていて、信頼が台無しになりかけている。(でもこの<見えなさ>が日本の文化、ハイコンテクストカルチャーの基幹にあるのでは?)
何が確実に言えるかという<限界>の知は科学外の利害関係や希望的観測によって歪められてはいけない。
やりとりを回避しようとしている「読み上げ」発表が連発する学会。
コミュニケーションをあらかじめ遮断するようなコミュニケーションの形式。
相手を説得する、説き伏せる。自分が構築した理論を公衆の前に晒し、反論にさらに反駁することでさらに強固なものに鍛え上げる。あるいは反論を受け入れて自分の理論をより広く妥当するものへと変容させる。そういう研究者としての欲望がやせ細ってきているのか?
(反論が人格否定になったりするからこうなる気が.....相互作用で生まれる自閉的コミュニケーション。それは個人じゃなくてシステム全体の問題というところが大きいと思う)
市民たちの研究者とは違った視線、違った関心をそれとして理解しようとせず、自分の専門領域の、内輪の符丁で相手を抑え込もうとするものはそもそも専門家として失格。ーーだれも責任を取らない構造がますます修復不可能になっていく。
知的想像力:見える現実をそのように編んでいる見えない構造へ向けて潜航していくこと。自分と他者との隠された結びつきに気づくこと。感性も知性も不在のものに向かうという心の動きとしては等しい。
想像力:現実を編んでいる見えない構造や媒介、それに届くような眼差し。科学も宗教も政治、芸術、倫理もその意味では想像力がいのち。
今目の前で起こっている出来事がどんな見えない規則や構造によってそういうふうに起こっているのかを探求する科学の思考。この世界をその外部に視点をとってそっくり捉えなおそうとする宗教の思考。偶然の事件や相手の思惑などさまざまな不確定要素が��なるなかで、見通しもきちんとつかないまま即座になんらかの決定を下さなくてはならない政治の思考。曖昧なことを割り切るでなく曖昧なままに正確に表現しようとする芸術の思考。じぶんたちの行動をなすべきという原則の視点から指示する倫理の思考。
米本昌平(職業科学者の大衆性に絶望し、大学院に進学せず証券マンになって独学で研究を続けた)
『独学の時代 新しい知の地平を求めて』
じぶんを問うというのはじぶんがこうである、あるいはこうでしかありえないその条件に問いを向けること。そしてその条件は見ようという強い情熱のなかでしか見えてこない。<知>の制度全体に口をはさむ権利が市民全体にはある。<知>と見えるものがより深い無知へとじぶんを誘う。
専門家主義がますます市民の知的体力を削ぎ、受動的な存在にしている。
教養を失った専門家:オルテガ、大衆の反逆(科学者について、今日のもっとも教養ある人が歴史的無知におちいっている)「じぶんの限界内に閉じこもって慢心する人」、彼らは選ばれた人間が己に課していた「じぶんを超えじぶんに優った一つの規範に注目し、自ら進んでそれに奉仕する」という使命をもはやうちに感じることはない。
イリイチ「専門家時代の幻想」:専門家こそ全知全能だという幻想を受け入れた時代、専門家サービスは人を無能にする援助にもなりうる
専門家と非専門家の間のインターフェースが欠如していることによるディスコミュニケーション。結構深刻。ハラスメントの正体でもある?(加害者・被害者という対立的側面ばかりが目につく)一方方向の伝達、旧来の科学モデルが原因か?相手の話を聞いて自らの意見を変える覚悟がなければコミュニケーションとは言えない。
大学と社会の連携で大事なのは科学技術のリスクにさらされた市民をサポートすることで科学への信頼を取り戻すこと。
大阪大学CSCD, 専門家と一般市民の間のコミュニケーションを媒介するメディエータの養成が緊急課題。
日本のアヴァンギャルド派に感染したヨーロッパの若者(イッセイミヤケ、ギャルソン、ヨウジヤマモト)がアントワープ派を形成。
博士号を苦労してとったところでそれに見合う職がない、社会的評価も見合わない。優秀層が研究者を志さなくなっている。
モード、(流行)という世界が政治や経済、技術の領域まで浸透している。
思想も芸術も宗教も、死ぬとわかっていて生きようとする、理由を探求するところに生まれた。
「実業」つまり行政や産業活動にかかわる人たちはそれぞれのやり方で幸福な社会をもたらそうと働く。しかしその「幸福」の吟味なしに、慣習や流行に従って活動することほど危険なことはない。
大学がもし本気でブランドであることを望むのなら有名ブランドが記号(=ファッション)として流通し、ブランド自身がそれに巻き込まれてしまう、そうした逆立した事態からまずは身を剥がす必要があるだろう。
大学とメディアが共有している使命とは同時代の社会が直面している諸問題をそれを煽るマジョリティの熱い意見から距離をとって正確に分析し、その問題解決の提言をなすこと。その”距��感”こそ大学とメディアは社会から委託されている。
哲学はメタ学問:「知の知」「技術の技術」
ここに求められているのは広範な知識をもって社会を、そして時代を、上空から眺める高踏的な教養ではなく、むしろ何が人生の真の目的かをよくよく考えながら、その実現に向けてさまざまな知を配置し、繕い、まとめ上げていく技術としての哲学。ヨーロッパでの教養はそういうもの、高みから時代の社会を眺めるのでなく、時代の社会のなかに深く入り込もうとするもの。
一つの問題に対して必要な幾つもの思考の補助線を立てることができる、複眼的思考。
重要なことはわかることよりもわからないことを知ること、わからないけれどこれは大事ということをしること、そしてわからないものにわからないまま的確に対処できるということ。
複雑性の蓄積のなかで思考の耐久性が求められている。人が学ぶのはわからないという事態に耐え抜くことの出来るような知性体力、知性の耐性を身につけるためではないか?
この仕事は自分でなくてもいいのではないか?ーそうである。そんな不安が常に付きまとう大人。給料をとっているという事実のみが喜び。
幼稚な大人が増えたのは社会構造の問題。
絶対になくしてはならないもの、あればいいけどなくてもいいもの、端的になくてもいいもの、絶対にあってはならないもの、また「これ以上進めば取り返しがつかないことになるという臨界点の感覚」を備えていることが教養。(最後が特に大事な気がする)
「自立」は誰ともかかわらない孤立ではなく、いざとなったらいつでも助け合うことができる人的ネットワークを持っていること。
芸能や宗教などの人の魂を揺さぶる文化は無縁の場ー誰にも所有されない場所であり避難場所とも言える場所ーに生まれ、無縁の人によって担われてきた。言ってみればこの世のしがらみとしての縁が解除される場所であり、都市とはあるいは宗教施設は元来そういう場所として人を惹きつけてきた。
よく気がつく人は危険のサインや兆しに敏感な人である。そういう人は自分の責任範囲をわきまえているだけでなく、誰の責任にも属さないからこそ放置されたままの隙間に敏感で、身を震わせている「助けて」のサインにも敏感である。あるいはこのままだと危ないという感覚を事業の途中でも持つことができる。虫の知らせのように。(高い想像力が必要)
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晶文社で鷲田さん。
こういう本の選び方が出来るようになったことを実感した本。
鷲田さんに関しては
並行読みをしている
しんがりの思想で語るとする。
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リスクを回避するためにあらゆる手立てを講じるというのは、あたりまえのことである。人生ではあたりまえのこのことが、社会という規模になるとあたりまえとは言えなくなる。どこかで割り切りということが必要となるからだ。
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著者は文章がうまいし、文学者あるいは広告のライターみたいな斬新な表現を使うから、それを読むだけでも楽しい。
ただ、中にはあえて論理のアクロバティックを楽しもうと無理くりひねり出したような論考もある。そのアクロバティックさを楽しむにはいいけど、鵜呑みは危険。