紙の本
親友の妻に心奪われ
2020/10/09 14:07
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
死んだように生きる宗助は、「こころ」の先生や「それから」の代助に繋がるものがあります。もともと悟りの境地に達していた宗助が、門をくぐる必要はなかったようです。
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再読。わたしは漱石だと圧倒的に「こころ」と「それから」が好きで、この「門」は「それから」のあまりの素晴らしさに興奮して勢いこんで読んだ、という覚えしかなかったのですが。読み返してみても、やっぱり前半はそんなに好きじゃないんだけど。でも後半から一気に面白くてたまらなくて、好みでしょうがなくなって、退屈してた前半すらそのたわいもないエピソードにどんどん思いを巡らせてしまう、っていう漱石マジック。新聞小説という形式が生んだ娯楽性と、紛れもない純文学の深みが見事に融合していて、ああほんとうになんて近代文学は豊かなものだったんだろう、とか、おもいます。
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カフカのVor dem Gesetzと似ている。
門の前まで来ながら、門の前に佇むしかない人間なのだ、と。
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誰に許されたら荷を下ろせるのか。変わらない日々が、これからも変わることのないように、それだけでも、とても骨が折れるのに。
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ー彼は門を通る人ではなかった。また門を通らないで済む人でもなかった。彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。
日の当たらない崖の下の借家で、互いに慈しみ合い、つましく生きる野中宗助・お米夫婦。宗助は実父の死後の整理も人任せ、弟の世話にも積極的でない。何が彼らをひっそりとした方へ追いやるのか、どんな後ろめたいことを抱えているのかが次第に明らかになっていく。
物語が核心に近づくほど加速度的に面白みが増す。しかし肝心のところは細かな描写がない。静かな、抑圧した文章がいかにも大人の文学だ。
上記の抜粋からも感じ取れるように、宗助は前へも後ろへも進まないまま物語は終わる。待ちわびた春を前にしても、「うん、しかしまたじき冬になるよ」と呟く様子はどこまでも後ろめたさから逃れられないことを悟っている。
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宗助と御米の心暗い過去を抱えながら静かに日々を送る姿の描写が何とも美しい。小六が登場しさざ波のように不穏が押し寄せ、坂井との交友から突如安井の存在が浮かび上がり物語は急転直下の展開を迎えると思ったら、まさかの宗助の突然の仏門入り(といっても10日間の修行体験)。夏目漱石でなければ夢落ちくらいのトンデモ展開である。しかしそこは日本指折りの文豪。仏門から戻り季節は冬を超えて春を迎えたなかで来冬を案じる宗助の姿は『陽はまた昇る』のような刹那的な物悲しさ・侘しい雰囲気を描き出している。困難からの逃避行は暫定的な解決をもたらすかもしれないが根本的かつ心理的な解決には繋がらない、美しくも哀しい事実を突きつけられた気がする。
物語展開の賛否はさておき、夏目漱石の天才的な描写力・文章表現力を楽しめる作品である。
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夏目漱石ハマり中。
相変わらず表現が美しい。
誰もが何かを抱えて生きているわけだけど、その葛藤と生き様がありありと描かれています
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読んでみた。が、今ひとつ。
略奪婚の果てに、ひっそりと消極的に生きる夫婦。その夫が主人公。奪った妻の元夫の消息を聴き、悩みを覚え、禅の門を叩くが。。。
生活の描写がされているものの、何となく平板で退屈を覚える。後半、徐々に盛り上がるも、劇的な展開には至らず。日常とは、そういうもので、その中の葛藤を描写するとこういう物語になるのかも知れない。
容易には悟れぬこと、生活上の流転する悩みを悟りによって解消しようとしても、悟りを開く方がもっと難しいよ、というお話の様に映る。
『彼は門を通る人ではなかった。又門を通らないで済む人でもなかった。要するに、彼は門の下に立ち竦んで、日の暮れるのを待つべき不幸な人であった。』
座禅での主人公の経験の描写の部分を、禅僧に解説して貰うと、面白いかと思った。
また、座禅が、『今の世に』と主人公がかつて思っていた描写があり、明治の世でも、一部の人達からは、座禅が古いと思われていたという事実があったことに面白いと思った。
禅の功徳に縋りつつも、門を潜れない苦しさのあるところがリアル。ただ、我々がマインドフルネスとかの瞑想に勤しむことと、変わりはなく、こうした生活上の憂鬱というのは明治の世も現在も変わらぬ人間の共通性なのかも知れない。主人公の略奪愛という原因はちと特殊だが。。
其れにしても、漱石は何故こうも略奪愛をテーマに描くのか?心も確か、そうだったし、他にもあった様な。それ程普遍的とも思えぬが、何故其れをテーマにしたのか、其々の作品の評価はどうなのか、少しく調べてみたいと思う。と、ここまで書いてきて、そう言えば三四郎も、虞美人草も明治の世の学問を収めた自立した女性の出現と、恋愛について描かれていたし、明治に入って現れた、家や門閥に寄らない自由恋愛が一つのテーマだったのかも。
本書は佐藤優が、日本的な無常の文化と西洋の目的論的な生き方の葛藤や対比を描き、我々の指針にもなると紹介していたので興味を持って読んでみた。しかし、そういう形の対比や指針を読み解くことはできなかった。彼はどの様に本書を読んだのだろうか。書物の読み解き方は、その人の着眼点と経験に大いに影響されるということを改めて認識する。そして、その読み解き方は、果たして作者が意図したものなのかどうか、ということにも興味がつきない。
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淡々と進む話。主人公の過去の激しさは敢えて描写せず。年齢を重ねればより深く感じ取ることが出来るかもしれない。
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3部作の最後。三四郎、それから、門。どれが一番良かったかと考えると、私の好みはこれ。三四郎のような青春もそれからのような情熱もなく、たんたんと続くなんとなく不安な(?)日々が逆に落ち着きます
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いわゆる前期三部作(三四郎・それから・門)を読んで一つわかったことがあります。
内容で括ると『それから』『門』『こころ』こそが実は〈三角関係〉の三部作だったのです。
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『それから』・・・親友の妻を奪い炎上
『門』・・・・・・略奪婚後も悩む生活
『こころ』・・・・親友を裏切り破滅
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漱石は余程三角関係にトラウマがあったのでしょうか??
登場人物や設定も似ており、
働かない・煮え切らない主人公、一見夫に尽くすタイプだが結構自分をしっかり持っている妻、真面目な親友、そしてお金の問題…。
クライマックスもそっくりで、妻に本当のことを言わずひとり参禅する宗助は、Kのことを打ち明けず自死する先生と驚くほど重なります。
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それでも『門』のラストに救いが見えるのは三部作で唯一主人公が〈働いている人〉だからでしょうか。
特に事件も何も起こらないこの物語は一見退屈です(何度か読むの止めかけました…)。しかし、最後まで読んでみると、このような枯れた世界観はもしかしたら漱石流<究極の夫婦>のあり方なのかも知れないと思うようになりました。
つまり、物凄~く穿った見方をすれば、これは宗助の壮大な〈ノロケ〉だったのです。
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本作を読もうと思ったきっかけは、長尾剛の「漱石の言葉」という本のなかに、「門」の引用文があり、それに興味をもったから。
読む前は、内容が難しいのかなと思ったが、全くそんなことはなかった。むしろ、明治に書かれたものなのに、情景が頭に浮かびやすかった。
宗助が満員電車に揺られて通勤している場面や、居間で宗助とお米がランプの明かりの下で話す場面。鮮明に想像することができた。
文章表現には秀逸さを感じた。
例えば、頭の中に次々と浮かぶ心配事を「徘徊」といったり、頭の中の思考を「ページをめくる」といったり。
文章にイキイキした印象があるのだ。
漱石の他の作品も読んでみようと思う。
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逃げるように暮らし、いざ逃げられなくなると禅に助けを求める姿。それでも悟りは開けない。主人公の人間らしさが3部作を通じてとても生生しい作品であった