紙の本
ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサ
2024/01/24 14:57
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
ガルシア・マルケスとバルガス・ジョサは一時期近い関係にあったが袂を分かち絶交状態となる。こういった関係は往々に起こりがちであるが、本書はそれ以前の対談やジョサによるガルシア・マルケス評などが収録されている。
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最初の、ガルシアマルケスとバルガスジョサの対談は面白い。あくまで比較ではあるが、真面目で理知的なバルガスジョサと、何処か感覚的で皮肉屋なガルシアマルケス。また、自分が百年の孤独をあまり読めていなかったことが分かった。
二つ目の、バルガスジョサによる百年の孤独とガルシアマルケスの紹介はして単なる紹介って感じ。実際、バルガスジョサの百年の孤独の評論(スペイン語で絶版。日本語訳はされていない)の前文のようなものだったようだ。
三つめの、バルガスジョサへのインタビューは悪くないけど、ノリが軽いし議論にあまり深みがない。緑の家が出る前らしいのもイマイチ。
全体的に、ラテンアメリカ文学の華やかなりし頃の雰囲気が漂っている。
何故か対談とそれ以外とで文字サイズが違う。
全部文字サイズを小さい方に合わせて文庫サイズで良かったのでは、と思うが、まぁ半分お布施みたいなもんか。
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三部構成。
●1967年9月に行われた、39歳のガルシア=マルケスと(百年の孤独発表後)、31歳のバルガス=リョサ(緑の家を出した後)の対談の記録。
●バルガス=リョサのガルシア=マルケス書評。
●29歳の時のバルガス=リョサへのインタビュー。
さて、「ガルシア=マルケス」と何度も打つのが面倒なので、以下愛称「ガボ」と呼ばせてもらいます。
「バルガス=リョサ」は愛称「バルギータス (Varguitas)」らしいんだが、本名と対して変わらない長さなので、インタビュアーやガボさんが呼びかけてるように、以下「マリオ」で打ちます。馴れ馴れしくてすみませんですが。
(南米の結合姓の場合、父方姓「バルガス」母方姓の「リョサ」のどっちかで呼んでいいのか?「バルガス・リョサ」で一つであってばらしたらいけないのか?よく分からない…)
とうわけで。
まず対談は、マリオさんがインタビュアーで、ガボさんが答えるという形式。
ラテンアメリカで作家になるということ、小説を書くということ、ラテンアメリカ作家について、影響を受けた作家について、ラテンアメリカ作家と政治の関わり、「百年の孤独」「緑の家」の裏話、などなど。
真面目なマリオさんに対し、ガボさんがはぐらかしたり、質問返ししたり、質問の本質を答えるために遠回りしたり。
二人はこのころは互いに親しみを持ち、「この前も話したけど…」「君だってそうだろう?」みたいな以心伝心っぷりもみられます。
面白かったのは、ガボさんが自分に対する書評を読んでしまって影響を受けることを恐れていること。
「百年の孤独の執筆中に、自分の小説の癖についての書評を読んでしまった。そのため、自分が本当に書きたいことを書いているのか、書評に引きずられているのかわからなくなった」
さらにガボさんは、ボルヘスのことを「毎晩読むけれど作家としては嫌いだ、繰り返すけど嫌いだ、嫌いだったら嫌いだ~!」と言っています(笑)。
ガボさんはボルヘスは嫌いだけれど偉大で意識はしているようですね。短編作品でもボルヘスに触れていました。 主人公が不思議な体験を語り、それを聞いた友人が「それはボルヘスの迷宮だね、まだ書いていなくてもきっといつか彼が書くさ」とかそんな感じ。
ラテンアメリカ文学の特色として、幻想と現実が無理なく混ざり合う手法があり、マジックレアリズムと表現されますが、
ガボさんは「ラテンアメリカの現実を書くとそうなるんだ、すべて事実だ」と言いますね。
大統領が大真面目にまじないを信じる反面、労働者たちがデモを起こせば軍隊が差し向けられ一斉銃撃され、そしてそれが正式に記録として残らない。
しかしそんな国にいるとそれが当たり前になる。海外に住んだり触れたりして、初めて客観的にラテンアメリカの現実を書くことができる…。
ガボさんマリオさんが直接文学や自分の作品について語る貴重な1冊です。
次の章はマリオさんの「百年の孤独」解説。
これは分かり易い。
小説だと時系列や語り口や主眼が入り混じりますが、文学論になるとなんとも素直。
マリオさんはガボさん論としてもう一冊「『ガブリエル・ガルシア=マルケス 神殺しの物語』」(この剣呑な題名は、「小説を書くということは、別の世界を作ること、すなわち神殺しの行為だ」ということらしい)を書いているのでそちらも読んでみたくなったのだが、
この後、40歳のマリオさんが48歳のガボさんを公の場で殴り、それ以来完全決別で、「神殺し~」も自主回収となってしまいました。
ある意味有名なこの写真。ガボさんぶん殴られたのになんでそんなに満面の笑みなのよ。
(記事部分に「Vargas Llosa 」と書かれてますね)
http://www.elmundo.es/especiales/cultura/gabriel-garcia-marquez/album/06.html
こちらはマリオさんがノーベル文学賞受賞後に見かけた写真なんですけど、南米社会では未だにこの二人の名前を聞いたらこの事件を連想するのだろうか。
http://latino.foxnews.com/latino/news/2014/04/18/gabriel-garcia-marquez-vs-mario-vargas-llosa-literary-friendship-ends-with/
この時以来二人は決別。
そして最後の章はマリオさん29歳当時のインタビュー
インタビュアーに鋭い突っ込みされたりして案外微笑ましい。
さて、ガボさんは2014年にお亡くなりになるしばらく前から認知症による記憶障害を併発していたということで、昔の知人や知識を忘れたり混乱していたりしたようで。
なんとも幻想文学的でもある。
以下印象的だったところ。
P78
先日話に出た騎士道小説と同じことですよ。騎士は物語の必要に応じて何度でも首を切られるでしょう。だったら私も、必要があれば、風にさらわれたことなど忘れて、簡単にマコンドを再建しますよ。自己矛盾を起こさない作家など独断的作家に他なりません。(…)だからマコンドが必要になれば、明日にでもまた再登場させるでしょう。
P90
祖父母から得た題材に濃い影を落としたのは、当時彼が呼んだ二冊の本、「千夜一夜物語」と「ガルガンチュアとパンタグリュエル」だった。内容面ではなく、形式面において、二作はマコンドの物語に足跡を残している。前者が残したのは、次から次へと挿話を繰り出す語りの様式、後者が残したのは、誇張と過剰への志向である。1940年、ガルシア・マルケスがアラカタカを離れてボゴタのイエズス会学校で学ぶことになったとき、彼の頭にはすでに「百年の孤独」の核心部が出来上がっていたようだが、長い紆余曲折を経た後でなければ、少年時代に取りつかれたこの悪魔を巨大な言語的構築物として吐き出してしまうことは出来なかった。
P134
少年時代、あるいは、その少年時代の体験を短編小説や長編小説というまじないに変えて再現することで、何とか厄払いをしようとするんだ。文学的才能の正体はこれに他ならないと僕は思うよ。(…)だから作家と言うのは、作家である限り、孤独で、自分の殻に閉じこもった人間なんだよ。
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ある時ふと考えてみると男であれ女であれ真に興味を掻き立てられる人物は情熱をかけて仕事に打ち込んでいるものであるという事実に気づかされる。信ずるに値するのは忍耐の情熱、理性の情熱、そして一生かけて執拗に粘り強く時間と知能をたっぷり費やして仕事に臨むものたちの情熱だけだ。内側で込み上げてくるような、屈強な手で締め付けてくるような仕事、そんな仕事によってどれだけ私たちが救われるか!愛の情熱はしぼみ、書くという情熱の前に崩れ落ちる。