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本書においていみじくも言及されているように、1930年代の満州国が回帰したような状況、すなわち満州国の建設に主要な役割を果たした者、この傀儡国家の軍隊の将校だった者、そして当時満州で抗日闘士として戦った者、それぞれの子孫が北東アジアの対立構図に顔を揃えている状況のなかで、韓国の歴史家、在日の思想家、日本の哲学者が、福島、陜川、ソウル、東京、済州島、沖縄を訪ねて行なった鼎談をまとめた一冊。これらの場所は、満州国に象徴されるような欺瞞をもって人々に犠牲を強いてきた暴力、とりわけ国家の暴力、さらにはそれと同一化した人種主義の暴力が噴き出ている歴史の現場でもある。そうした場所において、暴力の犠牲者たちに、あるいは今もその暴力に立ち向かっている者たちに思いを馳せるなかからこそ展開される思考が、生きている者ばかりでなく、死者たちすら脅かしつつある現在を、そこに陸続している歴史とともに鋭く照らし出している。論じられている問題は多岐にわたるが、問題どうしが通底し合う地点が指し示されることによって、これらの場所が結び合わされるところが興味深い。なかでも、済州島と沖縄が、国家暴力の犠牲者の追悼の問題をめぐって、また軍事基地開発の問題をめぐって、相互に照らし合う関係にあることを認識することは重要と思われる。また、「韓国の広島」とも呼ばれる──なぜそう呼ばれるのかは、広島が帝国日本の拠点であったことから考えられなければならないはずだ──陜川で、広島で被爆した人々を苦しめている構造が今、福島で原発事故の被害に遭った人々にのしかかってきていることも忘れられてはならないことであろう。このようにして、場所と場所を結び合わせ、苦難の記憶を照らし合わせるなかでこそ、国家暴力への順応を拒みながら、それが陸続し、跋扈しつつある希望なき状況を、国境を越えてともに見通す、もう一つの歴史への回路が開かれるのかもしれない。日本では原発の再稼働と輸出の準備が進められ、沖縄と済州島では軍事基地の開発が進められつつある、きわめて危機的な状況を、東アジアの歴史から、かつその歴史を分有する可能性へ向けて見通す視座を与える鼎談書と言えよう。編集者と訳者による詳細な注も理解の助けになる。鼎談の場にいるつもりで自問自答しながら、あるいは他の人々と議論しながら読むとよい一冊と思われる。