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『生命と過剰』(河出書房新社、1987年)と『ホモ・モルタリス』(同、1992年)の2作を収録しています。
『生命と過剰』は、『ソシュールの思想』、『文化のフェティシズム』に続く第三の主著と位置づけられています。著者は、実体論的な思考を批判し関係の第一次性を説く立場が、それ自体「関係」を一つの実体として想定する事態に陥ってしまうという問題を指摘します。
その上で、すべてが言葉の産物だという「唯言論」の立場に立ち、言葉によって私たちの世界についての理解は異なるという相対主義に居なおるのではなく、相対主義それ自身の立場を不断に掘り崩していくことが求められると主張しています。
著者は、コスモス以前のカオスを実体的に措定する発想を見いだそうとするのではなく、むしろたえざる差異化の運動によって、あたかも実体としてのコスモスが存在しているかのような見かけを作り出しているのだと考えます。しかもこうした「生の円環運動」は、つねに既成のコスモスをおびやかし、そこに亀裂を生じさせる可能性を孕んでいます。こうして、言語以前の世界を実体的に想定してそこへ立ち返ろうとする発想を採るのではなく、今ここで既成のコスモスが破られて新たに編成されている現場に立って、新たな可能性が言葉にもたらされる歓びを享受することに著者のまなざしは向けられることになります
『ホモ・モルタリス』は、「生の円環運動」が「死の円環運動」であることを論じた著作です。ここでの著者は、これまでの学術論文的なスタイルから、ややエッセイ的なスタイルへと、重心を移動させているように感じられます。神秘主義的な主体の排除へと向かうことで生と死の二元論を乗り越える道を探るのではなく、生そのもののうちに死への往還運動の兆しを見いだそうとする著者の試みには、おそらく読者によって賛否両論はあるでしょうが、既存の思想的枠組みを越えていこうとする著者の膂力を感じさせられました。