投稿元:
レビューを見る
『僕たちのゲーム史』著者による、希望のポップカルチャー論!
本書は、二〇一〇年代の若者文化について語った本です。果たして、「二〇一〇年代の若者文化とは」という大きな設問に、まだ二〇一四年の現時点で、答えることはできるのでしょうか? それに、そもそも「若者文化など、なくなってしまった」という意見すらあります。しかし、それは誤りです。本書では、〇七年頃に「残念」という言葉の意味がポジティブに変化したことを手がかりに、一〇年代の文化と社会を読み解いていきます。若者文化は明確に存在し、これまでと違う、新しく自由な時代を築こうとしています。さあ、「現代社会は閉塞している」といったありきたりの社会論を超えて、「今」を肯定的に捉えなおしましょう!
投稿元:
レビューを見る
07年頃の景色から今の一〇年代が見える。二十年代はきっと十七年辺りに出てくるものたちによって形成されて行くだろう、という予想、いや予感について。本書では「残念」という言葉の変化を絡めつつ書かれているが、確かに「残念」におけるニュアンスはだいぶ変化したものだと読みながら思った。最近読んだ柴那典著『初音ミクはなぜ世界を変えたのか?』と合わせて読むのもいいと思う。ボーカロイド、初音ミクの現象からそれらが広まる背景や文化の流れなんかがわかる。Perfumeについての話などは興味深い。彼女たちがロキノン系のフェスの一番大きなステージで歌うようになったりとかを見ていたのでいろんなものが融和している感じを受けていたから。秋葉原殺傷事件の加藤や黒子のバスケの犯人についても書かれている。次の十年代にはまた違った形で出てくる文化はもう数年すれば出てくるということならばもう動き出している、芽吹き始めているものであるということだ。だから面白い事はもう始まっているし追いつけるということでもある。
投稿元:
レビューを見る
2010年代が終わる前から、2010年代の若者論を総括的に語ろうとする意欲的な一冊。オタク・サブカル文化を議論の起点としつつも、ひろく2010年代に横たわる新しい風潮を、「残念」というコトバの使い方に着眼し論じている。
投稿元:
レビューを見る
「残念」という言葉の意味の変化(というより枝分かれ状に派生した新たな意味)から、2010年代の文化を読み取ろうとした本。
〜x7年に種をまかれたものが育つ次の10年。
サブカルとオタクが同化した2010年代。
「残念」は新たなものさしなので、これを使えるか使えないかで、この先生きるときに便利だったり不便だったりする。使えない人は残念。
投稿元:
レビューを見る
「残念」という言葉の意味・用法の拡大をきっかけとして、10年代の文化、そして新しい感性のようなものを的確に捉えている。
投稿元:
レビューを見る
極めて暴力的かつ傲慢な分析にほかならない。そもそも著者は「残念」という枠に当てはめて現代の「若者文化」なるものを解説しているものの、その客観的根拠については極めて乏しく、それだけでもかなりの問題なのだが、ここでは措いておく。
それよりも大きな問題なのは、「若者文化」なるものを最初から上の世代には「理解できない」ものと規定し、過度に「変化」「差異」に注目することにより、「断絶」を基底とした社会観を提示し、そしてその「向こう側」を「語れること」それ自体を目的化する態度ではないか。しかしそれを裏付ける客観的な根拠がほぼ提示されていない以上、その分析の正当性を検討することは極めて困難だ。不毛な世代論の再生産でしかないこのような「文化論」に果たしていかなる価値があろうか。
投稿元:
レビューを見る
本書で10年代ポップカルチャーのキーワードとして語られる「残念」。
この「残念」の思想は2007年くらいから露出し始めた新しいタイプの文化的態度であるとさやわか氏は様々な事例を取り挙げて論を展開されていますが、やはり僕みたいな団塊jr世代から眺めると、前世紀からみうらじゅんタモリや糸井重里や「元気が出るテレビ」やら果ては赤瀬川源平「トマソン」などなど、過去「残念」の可能性(ポジティブ)を捉えた様々なクリエイター並びにコンテンツに満ちていたように思え、結局はカワイイ文化も結局が戦後高度経済成長後に一気に溢れたPOPS自体のその「残念」性の遍在ではないのかとも思えたりもしたのですが、後半岡田斗司夫流オタク論の「あえて」ダメなものを愛でる態度とは10年代の「残念」は似てて非なるものだという宣言を読むと、逆につまり僕なんかだと既に若い子の細やかな区別が見えなくなっているだけかもしれないなと反省も迫るある意味俗流「若者論」批判の書でもあります。
一点、この「残念」を現在のお笑い、アニメ、ラノベ、ボカロ、アイドルなどなど、文化アイコンから「残念」を探りあてていく鮮やかな手並みの中に、21世紀に猛威を振るい大量の死者も出したあの「中二病」について特に論じられてなかったことに疑問だったのですが(Wikipediaにもあるように荻上チキがかつてこの病を「キャラをめぐる病」と定義していたのも2008年ごろ)あとがきで「過去の文献からはあえて引用しない」と決めて書いたということらしいです。もしくは「中二病」を語るとポジティブな「残念」を見失うからか?
著者は上下斜め左右から凝視したり目を細めたりしながら何かまだ捉え切れぬものを捕捉しようと懸命にもがいているようにも思えました。なので、この先があるのではないでしょうか。
投稿元:
レビューを見る
「残念」とワードを出されて、あれっ?ってなってじきにうんうんって頷いてったカンジです。んで、某事件への言及がされてるところで「残念」が通ってる間はギリギリの場所かも知んないくって、残念が通らなかったら残念どころでは無い状況なのか知らんて思った。
とても面白かったデス!
投稿元:
レビューを見る
こういう現代カルチャーには疎いけど、なるほど、、という感じ。
著者が書いている「残念」についての記述はなんとなくわかるけど、その重要性はまだまだ伝わってこなかった。
「残念」な気風がなぜ生まれてきたのか、、それはとても興味深い。
投稿元:
レビューを見る
2000年代を「残念」をキーワードに論じる。
演技する自己(っていう言い方はしないのかな)のあり方など面白かった。「残念」=「何とも言えない、微妙な感じ」って感覚はなんとなぁくわかる。
2014/05/25読了。
投稿元:
レビューを見る
一〇年代を形作るものの萌芽はゼロ年代にあるという考えに感銘を受けた。
中身は,上記の説を補強するためのオタク・サブカルチャーの変遷と現在をひたすら例示したという感じで,雑多的である。
しかし,「さやわか」さんの若者文化に関する本はいろいろと読みましたが,著者の方が40歳になる方とは思っていませんでした。もっと若い方かと勝手に思っていました。
投稿元:
レビューを見る
宇野常寛『ゼロ年代の想像力』の次を行く本。残念に満ちた今のムーブメントを表していて、初音ミクの項は僕の考えとほぼ一致していた。ただ、初音ミクとじんの一連の作品群の関わりはちょっと違うのではないか、と思う一面も。しかし、良い一冊だった。
投稿元:
レビューを見る
知識や参考文献の参考にはなるし、着眼点特に主題にしている「残念」の言葉の意味の変遷の論拠は面白かったけれど、ここで語られる「サブカルチャー」を消費する側としては当たり前の事も多かったし、言われずとも体感している節があった。多分、「残念」という言葉のポジティブなニュアンスやオタクと言われる文化に馴染みがない人は新鮮に感じるかも
投稿元:
レビューを見る
2014年4月初版
さやわか著
==
2010年代の若者文化をどのようなものかといえば、それは“《残念》という思想”に基づいた文化である。《残念》の言葉の意味というよりも、その使われ方が変化した。《残念》とはどんな個性も許すおおらかさがあり、従来的な学校教育などからはドロップアウトしてしまうような種類の個性で、そんな残念な要素は《キャラ》として受け入れてしまえば深刻になることはないようなもの。若者から流行が作られない時代、など言われる昨今だがこうした感性の移り変わりこそが新しい文化であり、若者文化である。
ってな感じのないよう。文体は読みづらし。行ったり来たりしますねこの人の文。
投稿元:
レビューを見る
『残念』な視点から現代文化を読み解く。なぜ今の時点で10年代を論じることができるのか、という始めの切り口が明快で心地よい。10年代を生きる人間の一人としても、20年代を生き抜くために今が大事なのだと痛感させられる。文化と銘打っているが、ほぼサブカル、若者文化が中心なので、ライフスタイルなどは触れず。そのためシンプルな主張になっているのでは。ボカロ、ラノベなどが盛んになっていく中を生きて来た人間のしては、なるほどな、と思うこともたくさんある。このような時代を生きて来た人の価値観や生きづらさ、世代の特徴の一端を考えるにはよいのかも