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情緒的、でも好きだ。
「東京プリズン」のわからなさをわかりやすくした分、
多層性がなくなった。新書だからね。
文体の気持ちよさが逆にそれこそ気づかぬままに取り込まれそうになる。
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永遠のゼロが気持ち悪いのも東京オリンピックにも乗れないのは古いもう対応期限の切れた物語に幻想をみてる人たちは古い物語の幻想に捕われているからなのかもしれない。
震災があっても、変わらず安倍内閣の今の感じとかすべてはそういうものの実体のないなにか、語りづらいものを信じているのか。
『一九八〇年の断絶』と『オウムの語りにくさ』だけでも読めて良かったと思う。
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凄まじい。
プロローグ、第一章「母と沈黙と私」と読んですでに「確かにあったのに、誰も語らなかったこと」が横溢している。
第三章「消えた空き地とガキ大将」は、単独で優れたドラえもん批評。マンガと社会と歴史、現実と願望の関わりに迫った奇跡みたいな評論だ。
第四章「安保闘争とは何だったのか」 こちらもまたハッとする。日米安保の原文は、日本がアメリカに保護をお願いし、アメリカがそれを受け入れる、という書き方である、という指摘。
安保闘争は自国民による戦争裁判だった、参加者は一つ前の戦争と同じく特攻と玉砕で消えた、という指摘。
第五章「一九八〇年の断絶」はちょっと残念。1980年頃のテレビドラマなどから当時の「空気」を描こうとしているため、当時、自宅にテレビのない小学生だった私には「共感をもって」読むことができない。 (分かる人には分かるんだろうなぁ。)
これだけバラバラなトピックを扱い、その中にこれだけ共通する通奏低音を掘り起こしている。
素晴らしい。
経済成長人口増加のおかげで隠せた難がついに隠しきれずに露わになった今、私たちは何ができて何をするべきなのか。そのヒントが記されている。
ドラえもん。日本語。日米安保。安保闘争。バブル。オウム。住民自治。天皇。憲法。これらを貫く「語りえないもの」について語っている。
愛と暴力。
誰の、誰に対する。
それに対する物語の役目と限界。
うん、いい本でした。宿題をたくさんもらいました。
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だいたい日本史はマッカーサーと天皇の写真のあたりで教科書の記憶は消えています。戦後史は公的な歴史とならないままでまた69回目の終戦記念日を迎えます。本書の題名にある「…戦後とその後」は象徴的でただひたすらに時が積み重なる戦後という物語に対するモヤモヤの表明で、ある意味、ま逆の立場の安部首相が戦後レジームの総決算を希有するイライラ感にも通底するものだと思いました。ただ自民党のそれがひたすらにマッチョへの願いであるのに対して著者のそれは、もしかしたら女性ならでは皮膚感覚で語られていて「違和感の戦後史」と言えるものになっています。その違和感も言葉の定義という根本的な原則からのものであって(憲法とか、チャイニーズ・キャラクターとか…)感覚的でありながら根本的にロジカルなものであるところに共鳴します。自分も終戦と言う言葉がなぜ敗戦という言葉の代わりに使われるのだろう?と常々疑問に思ってきました。感覚と論理の戦後史、たぶん筆者に強いインスパイアーを与えたジョン・ダワー「敗北を抱きしめて」を読みたくなりました。
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20140803 同時代の作者なので内容には共感できる部分が多い。自分がなんの疑問も持たずに生きてきた事に気づかされた。この先は自分も他人事ではなくやれる事をやって行かないとと思わせる本でした。
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大きなエッセイみたいなかんじだった。けっこう直観にもとづいていろいろと結びつける。たとえば「1980年に何か決定的な変動が始まった。」このような直観から考察が出発する。個人的な、主観から出発する近現代史の本だから、いいのかもしれないけど、あるいは、読みやすくするためにそうしているのかもしれないけど、事象の解説の論拠が「知合い一人の話」だったりして、薄いなと思ったこともたびたびあった。
「神を創ってそのもとにまとまり、戦(聖戦)を戦い、そして負けた」ということでオウムと戦前の日本の類似性を指摘し、オウムを語りにくい理由としていた。たしかにそうではあるけれど、これはオウムや戦前の日本だけでなく、ほかにもそういう団体はあるし、その点はちょっと受入れがたかった。
通底して伝えている何か、というより、ちょくちょく、そうともいえるなということもあったというかんじだった。自民党の憲法改正案や来る東京オリンピックの招致についての考えは自分に近いものだった。
「何かあったら私が責任をもつから、君らは遊べ」といえるのが大人、というのはその通りだと思う、そうありたいものだ。
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東京プリズンを読む前に読んでみようと
思って買ってきた。
途中まで面白かったんだけど、途中から
思ってたのと違った。結果、東京プリズンは
読まないことにした。先に読むべきだったかな。。
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日本の近現代をここまで徹底して「自分の事」として対峙している人を初めて見た。いや、自分の事だからこそ日本人は近現代史を見ないふりをしてきたのかもしれない。人は誰しも歴史の中を生きているのだ、と改めて気づかされた。
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父から「読むか」とまわってきた本。この人の『東京プリズン』も本屋で見たことがあるが、あれは小説なのらしい。
まえがきにはこうある。
▼これは、研究者ではない一人のごく普通の日本人が、自国の近現代史を知ろうともがいた一つの記録である。
それがあまりにわからなかったし、教えられもしなかったから。…(略)
これは、一つの問いの書である。
問い自体、新しく立てなければいけないのではと、思った一人の普通の日本人の、その過程の記録である。(p.3)
"普通の日本人"て、どんなんかなーといきなり思いつつ、この本で書かれている「戦後とその後」については、そうやったんか!と思うところもあり、それは知ってるわと思うところもあり、10歳からの「戦後とその後」をリアルタイムで生きてきた父は、読んで何を思ったんやろと考えた。
それと、著者は正直で率直な人だと思った。私は知らない、私はわからない、ということを、知らない、わからないと書き、それを知ろうとし、わかろうとする人なのだ。
自分の母親について、「ママはね、東京裁判の通訳をしたことがあるの」(p.30)と祖母から聞かされた著者は、そのことを母に問う。言葉を濁しながら、裁判資料の翻訳を手伝ったようなことを著者の母は言った。
そのとき母が「下っ端よ、下っ端。BC戦犯」(p.34)と言ったところから、著者は"「A級戦犯が大物であり、いちばん悪い」という誤解"について書く。「A級戦犯」は、いまでも、最も重大な責任があることの喩えとして使われることがある。私も、そのように誤解していた。A級が一等悪い奴で、B級やC級は下っ端だと。
これらは、裁かれた罪が違うのだった。※
▼C級=人道に対する罪は、ナチス版東京裁判ともいうべきニュルンベルク裁判での(というか東京裁判が東京版ニュルンベルク裁判なのだが)「ホロコースト」に相当するもので、日本での該当者はほとんどいなかった。
B級は、通常の戦争犯罪、たとえば捕虜の虐待や民間人の殺戮で、当時の国際法で禁じられていた行為への造反である。従来、軍事法廷(東京裁判も軍事法廷である)で裁かれる戦争犯罪と言えば、これだけだった。
通常の戦争犯罪以外に「平和に対する罪=A級」や「人道に対する罪=C級」があるというのは、第二次世界大戦後の概念であり、戦争史上の一大発明ではないかと思う。(p.35)
母との会話のなかに、「あの戦争」の通俗的なイメージのほとんどが出てきたとして、著者はそれを書き出している。
▼「戦争」とか「あの戦争」と言ってみるとき、一般的な日本人の内面に描き出される最大公約数を出してみるとする。
それは真珠湾に始まり、広島・長崎で終わり、東京裁判があって、そのあとは考えない。天皇の名のもとの戦争であり大惨禍であったが、天皇は悪くない! 終わり。
真珠湾が原爆になって返ってきて、文句は言えない。いささか極論だが、そう言うこともできる。でもいずれにしても天皇は悪くない! 終わり。
その前の中国との十五年戦争のことも語られなければ、そのあとは、いきなり民主主義に接続されて、人はそれさえ覚えていればいいのだということになった。平和と民主主義はセットであり、とりわけ平和は疑ってはいけないもので、そのためには戦争のことを考えてはいけない。誰が言い出すともなく、皆がそうした。それでこの国では、特別に関心を持って勉強しない限りは、近現代史はわからないようになっていた。(p.45)
「戦後とその後」には、当然のことながら日本国憲法の話があり、「アトミックサンシャインの下で日向ぼっこをしていましたよ」というホイットニー発言のことも、この本には書かれていた(この件は、加納実紀代の『ヒロシマとフクシマのあいだ』で読み、そこから私はマーク・ゲインの『ニッポン日記』を読んだのだった)。
「それは、原子爆弾を想起させて敗戦国に君臨する、実にスマートで嫌な脅し文句だったのだが」(p.126)と書いた著者は、実際に英語でどう言われた文句だったのかを調べている。それは、"We have enjoying your atomic sunshine"だったらしい。こないだ読んだ『日本国憲法を生んだ密室の九日間』では、太陽の熱のことだと注記があったが、私がそもそもこれを読んだ加納の本では、「原子力的な」というのは、原爆を想起させるものだと書かれていた。
1964年うまれの著者は、自身の記憶や経験もたどり、知らない時代のことは年上の人たちに聞きながら、高度成長期という「空き地とガキ大将が消えていった時代」を書き、「安保闘争」の時代を書く。それが「愛と暴力の戦後」であり、1980年代の「断絶」のあとが「その後」なのだ。
同じ「安保」といっても、1951年にサンフランシスコ平和条約の一環として締結された安保条約と60年に改定された安保条約とはずいぶん内容が違うことを、まさに原典にあたって、著者は記していく。
▼日本にとっては、自分が言いもしない欲望を、他人が明文化し、しかも自分が呑む。これは倒錯的なことだ。そんな倒錯的な条文が、責任の所在がどこまでもクリアな英語で書かれていて、物語の域に達している。こんなに物語的な条文を私は読んだことがない。(p.122)
さらにいえば、同じ「安保闘争」といっても、60年安保と70年安保は、驚くほど違う。別種の人に担われ、違うものに向けられた違うエネルギーではないかと思うくらいに違う。そう著者は書く。日本の歴史には、わけのわからなさがつきまとっていると記しながら。
私がおもしろかったのは「この国を覆う閉塞感の正体」と題された6章。著者自身がメンバーとして加わった「ある地域の会議」で、昔からの公園である子供の遊び場のことがどう検討されたかが詳しく書かれている。著者がその遊び場のあり方についての検討メンバーに立候補した理由のひとつは、子供に自由に遊んでほしい、その子供の既得権益を守ってやりたいと思ったからだった。
だが、検討委員会は、著者には勝手のわからないまま続いていく。「子供の遊び場に」と明確に考えていたメンバーは著者とあと二人だけ。委員長と副委員長の明確な希望は「老人の憩いの場として使いやすく」というもので、会議が3回目になって、どうやら出来レースらしいと著者は気づく。
▼同じ地域に住まうご近所さんなのだから、話せばわ��るというのは間違いだった。ご近所さんだからこそ、同じ土地の占有権を主張して譲らない。領土問題とよく似ている。「住み分けしよう」という提案は通じず、「共存の道を探そう」という提案は、ハード面で排除されようとする。(p.214)
しかも提案や共存の道を探ろうとするやりとりが記録してもらえない。議事録には「フリーディスカッションをした」と、何も書いていないに等しいことが書かれるばかり。私はかつての職場で、長い長い時間をかけた議論をし、議事録にも書いたことが、次の会議でやすやすと覆される、というわけのわからない経験をしたことがある。著者が会議のもようを記すのを読んでいると、そういう雰囲気を思いだすのだった。
▼どうやら見えてきた。
委員会だけの想像力ではない。こういうことなのか…。
「子供は、管理された状況でしか、体を使ってはいけない」
恋さえもだ。かなり暗い気持ちになった。
自由さを奪うこと。その「見返り」は、「管理しやすくなること」。「代償」は「活気が失われること」。
そして、「管理しやすさ」という見返りは、すぐに結果が見えやすく、管理責任を問われることもない。それに対し「活気が失われる」には長い時間がかかり、それに対しての責任は、誰もとらなくてよい。なぜなら特定できないから。(pp.220-221)
著者はこの話のあとに、軍隊じみた日本の学校の管理についても書き、「身体性や自然な衝動を管理されることのつけは、目にはよく見えないけれど、積もり積もって、とてつもなく大きいと思う」(p.230)と述べる。ここのところに、共感する。
8章は「憲法を考える補助線」。英語で憲法を指すConstitutionは「成り立ち」という意味で(小文字で書けばそれは「構成」という意味になる)、それにしたがって憲法を「国家構成法」として虚心坦懐に読んでみてどうか、ということが書かれている。著者は大日本帝国憲法を読み、日本国憲法を読み、自民党の憲法改正草案を並べて読む。「テキストというのは正直なものだ。思惑や運用の仕方がどうであれ、原典のテキストには、実はありのままのすべてが書かれている、そんな気持ちがすることがある」(p.259)という。
著者は、「現行憲法、特に第九条を護りぬこうという人たちに素直に与することができずにきた」(p.265)そうだ。そう主張する人たちの多くが口にする「「日本人の平和に対する願いが憲法に実った」という言い方に、嘘とは言わないまでも省略がありすぎるから」(p.265)だという。その一方で「「アメリカの押し付けだから破棄すべきだ」という物言いにも、与する気にはなれない。…(略)もらおうが拾おうが押し付けられようが、いいものはいい、と言ったっていいはずだ」(p.266)という。
▼なぜ正直に、
「私たちがつくったものではないが、美しく、私たちの精神的支えとなってきた」
と言えないのだろうか。(p.266)
この人の本は初めて読んだ。この人の書いた「物語」を読んでみたいと思った。「まったく新しい物語を」を思いながら、そういう物語をなかなか紡げなかったというエピローグを読んで。
(11/24了)
※外務省「歴史問題Q&A 関連資料集」
極東国際軍事裁判(「東京裁判」)について
http://www.mofa.go.jp/mofaj/area/taisen/qa/shiryo/shiryo_11.html
極東国際軍事裁判所の管轄に属する犯罪は、
「平和に対する罪」:侵略戦争又は条約等に違反する戦争の計画、準備、開始、遂行やこれらのいずれかを達成するための共同謀議への参加等。
「通例の戦争犯罪」:戦争の法規又は慣例の違反。
「人道に対する罪」:戦前又は戦時中の殺人、せん滅、奴隷的虐使や政治的又は人種的理由に基づく迫害行為等。
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同い年の人が書いた文章は歩みが違っても共感性が高くなる。これが同時代性というものか。ただ同時代を生きながら、その中心にいるのではなく、辺縁を歩いているからこそ共感できるのかもしれない。この本のテーマは「物語」か思う。著者の問題意識は、「私たちの現在は、明治維新と第二次世界対戦後と、少なくとも二度、大きな断絶を経験していて、それ以前と以後をつなぐことがむずかしい」そのため「自分たちが、自分たち自身と切れている」ことを出発点に戦後の歩みについて著者が探していく「物語」である。最後にたどり着く結論は、「物語」はマジョリティを作り出す、そしてマイノリティを区別し、暴力性を持つ。だから「物語は弱者(マイノリティ)にこそ必要なもの」との結論に到達するところが救われる。作家が書く文章なので読ませる文章であり、読後感は良かった。
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著書は思い込みの強そうな人物だと感じた。
そして、その壮大な思い込みに付き合わされているような、感じが読んでいてした。
頭が良くて面白い人なのだと思うし、ここまで日本というもの、戦争の結末を自分ゴトとして考えられるのはすごい才能だとは思うのですが。
頭が良くて真面目な文系の人特有の言葉遊びというか、レトリックに付き合わされている感じがした。
読んで何か得られるか、っていうとそういうものもなかった。
視野が外に広がるというものでもなかった。
なんというか、非常におすすめできません。
戦後史とかを知りたいならジョンダワーの有名な本なり何なり、他に面白い本がたくさんあると思う。
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自分が生きるこの社会は重層的に織り成す「何か」の上に成り立っているということを戦慄とともに実感した。
当然ながら「何か」というものは普段生活している中では気づかないし、知るよしも無かった。
本書を通じて一つひとつ、その「何か」が理解していく中で、己の無知さ加減はともかくとして、自分が信じていた(若しくは理解しているつもりだった)この日本の姿が作為的に作られたものであり、虚構であることを知った。
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「村上さんのところ」Webサイトと並行して読んでいたせいか、取り上げるテーマおよび問いそして考察といった流れが、読者と村上春樹さんの間のおりいって質問・相談したいこと ちょっと話したいこと 私の好きな場所・嫌いな場所 「猫」あるいは「ヤクルト・スワローズ」…に対する問い、回答となじんで来てしまい、どっちがどっちに書いてあったことか混乱してきました。本書でとりあげてきた安保闘争、オウムも村上春樹作品になっているし、地域、学校の閉塞感についてのくだりも、村上春樹さんの回答を読む限り、一度脱出したところには戻りたくないようですし。
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ところどころに印象的な言葉はあるけど、全体的になぜだか思い込みの強さを感じてしまい少し受け入れられないところがある。まるで無農薬野菜の素晴らしさを説かれているように。
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近代というもの、戦後とはいったい何だったのか、学術的な話ではなく、筆者が身近に起こったことを起点にそれについて考察されています。戦後の特殊な一時期にあって、現在にはなくなってしまったもの、その一つに「ガキ大将」などの暴力があり、それが大切だったということを感じさせてくれます。そしてその暴力を、今の私たちは分かることができなくて、その時代の人にしか理解できないものなのだなと感じさせてくださりました。その文脈から、この間の原発事故、オウム心理教のこと、決してて他人事ではないということ、改めて教えられました。