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タブララーサ 白紙
デザインは断絶。明治維新、終戦など。
特区も断絶?
シミュレーションベースでは過防備都市にならないか。
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1930年代生まれのベテラン都市プランナーへ、1970年代生まれの若手が投げかける、差し迫った問いと議論の応酬。都市計画の現実、矛盾と展望を明らかにした現役世代に訴える一冊。
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読み終わって、また、読み返して、を繰り返している一冊。4月からまさに都市計画と向き合う仕事になって、日々、葛藤しているからだ。
「都市再生」の名のもとによる民間大規模開発の相談案件を毎日目のあたりしていると、だんだん「麻痺」してくる感覚になる。事業の採算が取れると判断すると、ヒューマンスケールを超える企画がポンポンと出されてくる。確かに、マスタープランで表現されている都市機能や土地利用が図られているのかもしれないが、このような空間的感覚がそこには語られていないことに問題があるのだろうか?
また、今までの都市計画は時間軸があってないようなもの。今の都市計画図ははたしていつを想定しているのか?立て続けに出されるリアルプランの前に、時間軸が読みとれない計画図が体をなさなくなってしまっている感もある。
拠り所となり得る「都市計画」が、今、本当に必要だと思う。
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※メモ
【きっかけ】
計画屋としてやっていくのかどうかというときに、まさにストレートな問いかけ。
「これからの日本」に限らず計画の必要性について、突っ込んで考える素材となる本。
アマゾンにて発見。
【概要】
都市計画家・蓑原敬氏と若手都市研究者らによる都市計画論の講義、議論集。
【感想】
人口減少、震災後という「これからの日本」が前提とはなっていたが、欧米を含めた戦後の都市計画史の実例に基づいた復習があり、そこから成長過程にある国々における計画に重ねて考えられる部分は大きかった。
また、そのような国々でもいずれ迎える可能性がある脱都市化フェーズを見据えると、現在日本の都市に対して考えられていることもある種先駆的な議論であって、計画に織り込まれる意義はあるかもしれない。
歴史をさかのぼって、都市が計画通りに成立するということはないのかもしれない。
あったとすれば強大な権力によるものか、資本が影響を及ぼせる範囲内でものか。
現在では後者しか存在しえないとしたら、それによって都市レベルでの空間秩序は成り立つのか。
また、都市内での多様性や偶発性を捨象することが是なのか。(それらの特性こそが都市の魅力ではないか、という指摘はまさにと思う。)
明確な答えというものは結局存在しないのかもしれないが、ひとつの回答として藤村氏の中学校区での機能再編と施設設計というアイデアはおもしろかった。
一部対決っぽい場面もあったが、先生を立てているというようなところが若干気にはなったため★4つ。
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日本おける都市計画の理念を考える本であった。土地利用、開発と保全をコントロールするには都市計画という名称が国民には伝わらないと思う。本書で語られている理念は、現実的であり今を起点に将来を計画するもので賛同する。
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期待して購入。書いてあることは何やら頭良さげでカッコいいのだけれど、何故か心に響くところがなかった。閉じたサロンの中の議論という感じがどうしてもしてしまう。
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タイトルに惹かれて衝動買い。
都市計画系の本を読むのは7年ぶりぐらい❓かな。
全体的に感じたのは、日本ではまだ都市計画の分野について、成熟してないのかなということ。
ただ逆に言えば、まだまだ学問分野として成長する余地は多いにある訳で。
とりあえず、大学で都市計画を学んだ身としては、日本に都市計画という分野が根付く日が待ち遠しくなりました。
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必要なんだか必要じゃないんだか結論はよくわからないんだが、ともかく今の都市計画論の慨論になっててありがたかった。
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蓑原敬氏および若い世代(40年差)の建築家・都市計画家たちのゼミ形式での意見交換の議事録の本となっている。議事録形式の本は情報に対する文献などの提示がなく、それでいて情報量が多いので自分は読むのが苦手であった(遅かった)。
答えの出ない問いに対しての白熱した議論を見ることができるが、白熱「講義」とあるだけに、先生である蓑原氏を立てるスタンスが見える(人によっては反駁したくてもできない感じの様相を浮かべている部分もある)。
蓑原氏が若手メンバーに対して講義を行う講義編、若手メンバーがそれぞれ問いとリサーチを持ち寄ってそれについて全員でディスカッションを進めていく実践編の二つに分かれた構成である。講義編は第1〜3講に分かれているが、ちょうどこの間に東日本大震災が起こっているのが興味深い。
講義編の内容は、第1講が読書指南およびそれらをベースにした近代都市計画についての考察、第2講が震災を踏まえた日本の都市計画の見直し、第3講がこれからの都市計画にあたる課題の確認となっている。
近代都市計画に対する様々な知識(特に近代・これからの展望についてのもの)を初学者がつけるにはちょうど良いものであった。
多岐にわたる上に読むのに時間がかかったせいで所々忘れているのでまとめ・感想は追記…
実践編においては大きく分けて3種類の問いがなされていた。
一つは設計主義を乗り越える現代都市計画論を模索した問い。「都市計画にマスタープランは必要ですか?」、「計画よりもシミュレーションに徹するべきではないですか?」がこれにあたる。価値観が多様化し都市像が拡散していく中、これらの事柄については明快な答えはない(少なくとも本書には)。ただしこのような状況の中では、ルールではなく空間イメージを用いた合意形成ツールが必要であって、さらにシミュレーションはその一端を担うことができる。
次に、都市像を定めるに当たって構想が必要になってくる人々のハビタットのパターンについての問い。「都市はなぜ面で計画するのですか?」(点とそれをつなぐ線ではいけないのか、)、「コンパクトシティは暮らしやすい街になりますか?」といった既存の概念に対する疑問を呈するもの、「都市はどのように縮小していくのでしょうか?」という時間軸も含めた議論がこれに当たる。都市計画はコンパクトシティのような実体性を欠いた概念の議論だけではなく、広い視点から現実の都市の動向の把握を通して行われるべきであるという主張にこれらの問いは帰結する。
最後に「都市計画はなぜ人と自然の関係性から出発しないのでしょうか?」(新たな知見としてのランドスケープへの言及)、「都市計画は時間とどう向き合っていくのでしょうか?」といった近代都市計画への批判の問い直し。これは3・11という不連続点を経験した後でもなお、タブラ・ラーサという割り切りではなく土地の文脈を紡ぐことにこだわるべきだという若い世代の意思表示としての問題提起であったように感じられる。
都市および計画を行う上での都市像の必要性、コミュニティの重要性、また技術としての都市計画から脱却し、個別��事案に対応を行っていくことが不可避であること、などへの帰結はどの問いに関しても見られた。
知識を手に入れるだけではなく、この本全体の議論を深く理解し自分なりの答えを出すためには、多くの事例を通して基礎知識をつけたあとにもう一度読み返すべきであると感じた。
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都市計画の歴史を詳しく振り返る第一部とその展望を震災後の日本社会と都市計画の現状から批判的に議論を重ねた第二部によって構成されている。第二部には従来の都市計画に対する批判に加えて具体的にどのようなあり方があるべきか、模索しながら議論が展開されていて示唆的である。明示的な結論とは言い難いが、一点にまとめて論じることなく都市計画が地域的、時間的な違いを取り入れながら思考停止することなく詳しく議論され進化をしていくべきであることを明快に述べている。
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都市計画のイメージと言えばシムシティ、道路を作り住宅地、商業地、工業地を指定し公園や学校を作る。このように地域ごとに利用規制を課す方法をゾーニングと呼んでいる。都市計画法では市街化区域と市街化調整区域に線引きが行われ調整区域では開発が抑制され開発を行うためには都道府県知事の許可がいる。
近代の都市改造の例は例えばパリ改造で道路の幅を広め道路沿いの建物のデザインを統一した。エベネザー・ハワードの田園都市は日本にも影響を与え主に東急や西武などの私鉄が沿線の開発を行った。そしてル・コルビュジエの「輝く都市」の高層都市は六本木ヒルズの構想の元になっている。
これまでは人口が増え、住む場所を増やすために都市開発を行っており、その方法に一定の枠組みを作るのが都市計画だった。とは言え現実的にはシムシティのように更地にゾーニングを行ったところよりも、自然発生的にできた街がスタートになっておりうまく機能してきたわけではない。歴史的には明治維新、関東大震災、戦災、東北大震災などのたびごとに設計主義的なマスタープランが要請されてきたのだが、ストック(既建造物)とフロー(新築)を比べた際にフローが圧倒的に多くなるタイミングでは設計主義的な公共投資主導型にならざるを得ない。例えば幅員5.5m以上の道路は1960年には5万5千km弱しかなかったのに2008年には33万kmを越えた。1960年代の道路の舗装率は3〜4%しかなくそこに鉄道や道路、港湾や団地を作ってきたわけだ。マスタープランと実行計画がうまくできたかどうかはともかく、そう言う方法でしか対応できなかったと言うことだ。
一方で今後のことを考えると人口は減り、高齢化し街には空き家が増えていく。都市が拡大するときには使えたゾーニングでは縮小する都市にはうまく対応できずストックが大きくフローが小さくなると現実に即して漸進的に一歩づつ進めていくしかない。古い木造建築物が集積している地域や耐震性が足りない建築物を作り替えないといけないのだが一気にできるわけではない。だいたい成長期のマスタープランに基づいた都市計画で作るはずの道路が用地収容が進まないために何十年たってもできない所も多い。
こう言った現状をふまえ、1960年代から都市計画に携わった蓑原氏と1971年〜76年生まれの7人が2010年から始めた都市計画についての勉強会の議論をそのまま活字化したのがこの本で、門外漢からするとあまり親切な本ではない。都市計画を作ろうとすると農業、林業を含めた産業政策まで広がるし、一方で驚いたことには日本の場合マスタープランには道路や駅は入ってこないらしい、蓑原氏は反対したそうだが「用途地域甸
図こそが計画であって、道路や鉄道を含めたマスタープランはありえない」のだそうだ。マスタープランを実行するための「都市計画図」に鉄道や道路が含まれてくるのだろうけど何もない更地ならともかく、既に開発された土地をどうするかと言うことに対してゾーニングを中心にマスタープランを作っても役に立たないのはわかる。ゾーニングがうまくできたとしてもその中に作る施設が縦割り行政の元では効率的には出来てこなかった。
こういう時代に��応してコンパクト・シティとかスマート・シティが出てくるのだがアラブのマスダールにしても中国の天津生態城や曹妃甸にしても更地に設計主義的に作ったもので日本とは違う。天津なんか人が入らずガラガラの様だが。高齢者が歩かなくて住む様に中心部にインフラを集めるというのはうまくいくのだろうか。地域内の交通網とコストのバランスでどこかに落ち着くのだろうが一方では街の中心の商店街が衰退し、より広域圏を商圏とする郊外型スーパーとコンビニがインフラ化しているというのも事実だ。
では都市計画が全く無力化と言うとそうではなく、実験的に設計主義で作った幕張ベイタウンは文字通り学校と地域、教室と廊下の壁をなくした打瀬小学校の人気もあり子育て世代の流入が耐えない。目先の最大の課題は東北大自身の復興なのだが人口減が続く漁村を元に戻そうとしても残念ながら上手くいかないだろう。高さ三倍の防潮堤を作ってもそこに住む人がいなければ何のためなのかとなる。住んでる人が喜ばない都市計画は上手くいかないのだけど、住んでる人の希望を全部叶える金はどこにもない。どこで折り合いを付けるか、正しい答えはなくどう選択するかでしかないのだろう。難解だ。
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蓑原敬と都市に関わる若手の人たちがテーマを決めて議論する本。
甘えが無くてとても勉強になる。全員勿論真剣なのだが、蓑原敬になんか圧倒された。勿論良い意味で、これぞまさに昭和の官僚だ、と思った。
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都市計画は単なる技術ではない、社会現象や文化現象である
日本では住宅政策が都市計画と切れている
アメリカはゾーニングの国、プランニングの国ではない
日本の都市マスは1992までなかった。一体的なビジョンの必然性が外国に比べて弱い?
横浜の田村明、人と金を動かす力に能力が備わった
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プランナーとしての自我がむき出しにぶつかったり表出しているようにも感じて鼻につくような気もするが、いろいろな論点が提示されているので、視野が広がるようで、有益だった。
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とてもおもしろかった。空間のコントロールという点では、森林も都市も同じ。
政策手法や社会状況の変化など共通点が多く大変勉強になった。
参考文献も豊富に紹介されているので、今後も勉強できそう。