紙の本
21世紀に入ってから書かれた古井由吉作品への入門に
2017/07/30 18:01
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投稿者:アオニサイ - この投稿者のレビュー一覧を見る
タイトルの通り、2000年代に入ってから上梓された古井の小説に、とりあえず手を出したいという向きにオススメも一本。古井の小説は、作者が歳を重ねるにつれてとっつきにくくなる印象がある。『杳子・妻隠』よりも『槿』のほうが、『槿』よりも『仮往生伝試文』のほうが、という具合に。
じゃあ初期古井の小説に入門してから21世紀にいたるまで遼遠な途しかないかというと、必ずしもそうではない。ちょっと覚悟すれば、おなじ新潮文庫という流れで『杳子・妻隠』からこちらへ(30年ほどをまたぐ形で)移ることもできよう。すくなくともその飛躍は、『仮往生伝試文』へ移るのよりは楽なはずだ。
紙の本
重みのある連作短編集
2014/08/13 01:45
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投稿者:une femme - この投稿者のレビュー一覧を見る
ずっしりとした重みのある小説、という印象。日本人特有の、内に秘めた暗さのようなものが、「辻」を持つ場所に根ざすようにして、描かれる…。
言うまでもなく、読むことで、気持ちが明るくなるというタイプの本ではないが、心の奥の狂気に隣り合う暗さを、この作品を通して考えてみることは、意義深いことのように思う。
連作短編集となっているため、一つずつ区切りをつけて読めるのが、そのような重さを考えるのには、ほど良いと言えるのかもしれない…。
また、年を重ねてから、再度手に取り、読んでみたいと思う小説。
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投稿者:deka - この投稿者のレビュー一覧を見る
この作者についても作品についてもゼロの状態だったが東大出身の作者ということで難しい文章を書かれているのかとりあえずトライしてみることにした。
途中で断念しないように頑張って読んでみたい。
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巻末に収められた大江健三郎との対談では、「私の作品は全然難しいことないのに」と笑いながら語っているが、やっぱり難しい。
氏の作品は用いられている言葉自体はどれも一般的なものばかりであるにも関わらず、文章になった瞬間に、1つ1つの文章が重層的になり、単一的な読み方を許さない解釈の幅がある、そんな点にあるように感じる。
そして物語られる世界は、極めて日常的な生活における情景であるが、たとえそれが我々が当たり前だと思っている世界だとしても、物語られる文体というフィルターをかけることによって、全く別の様相を呈してくる。日常の中に潜む幻想性ともいうべき世界を、直接的な題材ではなく、文体により描ききる技法は、見事としか言いようがない。
誰にでもお勧めできる作品ではないけれど。
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・天と地の間に悪い気が満ち渡るのだよ、と祖母は話した。寒いと感じられるのはじつは火で、熱いと感じられるのはじつは寒の気で、火も寒の気も一緒の毒なのだ、と言った。陰と陽の和合が過ぎたり足りなかったりでやぶれると、その毒が空中に昇って、普段でもすこしずつひそんでいるのが、人の行ないがあまり道を踏みはずすと、一度にふくらんで、からだの内の毒もそれに感じて暴れ出すのだ、と言った。ある暮れ方に見知らぬ人が村から村へまわって、昔この辺で労役と呼んで、家ごとに堤の工事などに駆り立てる、その札のようなものを、目には見えないのだけれど、貼って歩くと、三日もして、そこらじゅうで人が寝つく、と。
それは誰なの、と子供はたずねた。疫病神の手下さ、と祖母は答えた。その疫病の疫と、労役の役が今になり、熱にうなされた中で結びついた。
・夢の中のことだとわかって森中はひとまず安心した。しかし現実のことなのだ、と青垣は言う。覚めるから夢ではあるが、覚めても現実だ、と言う。長年の夢だと言う。近頃はまだ見ないと否定しながら、もう見ている、と振り戻す。一度見たものは過ぎない、と言う。青垣の話すことの矛盾に森中はついて行けずにいたが、その話す声があくまでも平静で、穏やかでさえあり、狂ったようなところはすこしもないので、青垣の言う覚めても続く夢の中へ、思い浮かべかねたまま、なかば惹きこまれた。
・曖昧な辻があった。行くにつれて三つ辻にも四つ辻にも、それ以上の路が合わさっているようにも見えてくる。後にしたはずの辻が、また前に現われる。空はいまにもまた降り出しそうにかぶさったかと思うとふいに抜ける。抜けたかと思うとまた塞がる。光の変わるたびにまた知らぬ辻へ差しかかる。これもすべてあくまでも平常だ、それでいて一回限りに際立って、そこにある。ところが見ているはずの自分がいない、その辻にも、それが見えている現在にも、どこにもいない。
・その頃から父親は一日置きぐらいに、眠りから覚めて娘を呼び寄せ、口もとへ耳を近づけさせて、妙なことを頼んだ。喘ぎの混じる細く掠れた声で、どこかへ行く道順らしく、往還とか辻とか分かされとか、畑とか林とか薮とか切通しとか、たどって聞かせるのだが、声は切実で、詳細らしい口調なのに、話すことがどうも通らなくて、そのうちに自分でも道に迷ったような、あせりの色を浮かべて、どうか、その先はどうなっているか、見て来てくれ、と懇願する。さからわずに女はうなずいて部屋を出る。父親の話すような場所は丘陵に挟まれた自宅の界隈にも思いあたるところがなく、ましてこの高台の病院の近辺にはありそうにない。どうせ徒労なら病棟の廊下のはずれに置かれたベンチで時を過せば済むことなのに、病人に足音を遠くまで聞かれているようで渡り廊下をわたり、初めの時には本館の玄関から表にまで出て、ずいぶん建てこんだ住宅地の、それでも間にまだ畑を残して、要領の得ない道を迷いながら歩くうちに、以前覚えのあった所を探すような足になっていた。
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ほろ酔い気分でタクシーにのって自宅へむかう。
じゃあここでといって、タクシーをおりると
家の近辺と思っておりたはずが
あれここどこ?とまるで見知らぬ場所におりたことに
気づく夜。そのぞっとする瞬間。
人生はそんな不可思議の連続で
ふと立ち止まって考えると今現在
思いもしない場所にたっていて
思いもしない町にすんでいて
思いもしない仕事をしている。
ふと、ここはどこだかわからなくて
ものすごく怖くなる。
ここどこだろうって、孤独がおしよせてくる。
間違いじゃないかって不安になる。
読んでいて、
迷子になったような気持ちで読み終えました。
捕えたとおもったら
すぐに逃げていく不思議な文章でした。
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いつかいつかと思いながら、やっと古井由吉を読むことが出来ました。
古井は昭和12年東京生まれで、「杳子」で芥川賞を受賞。
その他、谷崎賞、川端賞、読売文学賞、毎日芸術賞も受賞し、今や純文学界の重鎮と言えましょう。
最近では、又吉直樹が「憧れの作家」だと公言しています。
ただ、作風は素人にはちょっと難解で取っつきにくいのも事実(古井自身は「難解ではない」と反論していますが…)。
気軽に寝転がって読めるような小説ではなく、端然と居住まいを正して読むことになります。
で、本作は、日常に漂う性と業を主題とした12の連作短編集。
一読して、ただならぬ小説であることが分かります。
何がただならぬと言って、通常、言葉には置き換えられないような観念とか感覚とかそういったものが、巧みに言葉に置き換えられているからです。
読んでいて、何度も陶然としました。
たとえば、表題作「辻」にこんな描写があります。
「悪念に支配されたのは息子のほうだった。悪念は澄んだ心に似ていると知った。いまさら恨みも憎しみも動かない。思い悩みもしない。ただ悪念に満たされている。透明に飽和して、波も立たない。反転すれば満足と重なりそうだった。」
何と濃密な描写でしょう。
やや脇道へそれますが、小説は地の文と会話文から成り立ちます。
ただ、「辻」に収録された短篇には、カギカッコを使った会話文がただの1つもありません。
ここまで徹底しているということは、故意なのでしょう。
カギカッコが1つもないことが、作品をより重厚なものにしています。
どの短篇にも「辻」が出て来て、登場人物にとって意味合いが異なるあたりも読みどころかと。
私は、老境の父を巡る子と従姉の物語である「雪明かり」が特に気に入りました。
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書かれるほとんどについて、主人公の妄想か現実か、いつのことか、分からずに混乱。分かるべきものなのかも分からない。
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輪郭がぼんやりとしていて、何がなんだか分からないと思っていたら、ふとこれは老境の物語ではないかと気付いた。それも、ふと途中で、古井と大江の巻末の対談を読んだからだ。この対談は、訳詩と創作の破滅的な関係を語っていて、すこぶる面白い。
分かったのは、暖かい髭、だけだった。
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古井文学の到達点と感じた。
内省に内省を重ねてきた後期の作品群から飛躍し、大江や中上文学の様な神話的物語に転換している。近年無かった『槿』の様な濃厚なエロスも彷彿とさせ、作者のパワーがギュッと結晶した作品になってると思う。
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視点の切り替えが分かりにくいのと、短編なのに長編と錯覚してしまうくらい内容の密度が濃い。
まだ読むには知識量が足りないなぁと感じた。そのうちまた再読チャレンジしたい。
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表題作を読んだ。文章はかっこいいのだが、ぱっと読んで頭に入ってきづらく、正直話としても何が面白いのかよくわからなかった。
が、文学作品としての評価は高いそうなのでどこかで分かりやすい解説無いかなぁ…。
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SMAPが解散する前、水曜日の深夜に「ゴロウデラックス」という稲垣吾郎が司会を務める読書バラエティがあり、又吉直樹がゲストの時、古井由吉を特集していた。
その頃、少し興味を持って、新潮文庫の「沓子・妻隠」を読んだ。
かなり前なので、内容はほとんど覚えていない。
今回の「辻」では、ほとんどの作品にセックスが出て来て、タイトルの「辻」も情景描写で頻繁に使われている。
辻とは十字路のことだが、十字路とか四つ角ではなく、辻である。
そして、辻を通り過ぎると、何かが起きる。
一読では、良く分からないので、老後の再読のためにとっておく。
解説があれば、良かったのだが、巻末には大江健三郎と著書との対談が収録されている。
これはこれで面白いし、読書の参考にもなる。
難解なものを読むのは、時には自分の理解を超えた領域に手を出してみたいという不合理な衝動なのだろう。
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ピースの又吉さんの帯に惹かれて購入。忙しかったこともあるけど、読むのに3ヶ月もかかるぐらい格闘しました。音楽で言うとアンビエントミュージックのようで(坂本龍一の『async』の曲みたいな)、輪郭が曖昧ながらも重たく、自分の中の小説の概念が広がりました。
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【読もうと思った理由】
直前の「文学の淵を渡る」でも書いたが、伊坂幸太郎氏と平野啓一郎氏の現役人気作家の両名が、古井氏のことを絶賛している。平野氏は「小説家が尊敬する小説家」といい、伊坂氏は「完璧な小説は?」と問われれば「先導獣の話」と答えるかもしれないと、それぞれが、最大級の賛辞を送っている。また著名な作家でいうと又吉直樹氏や大江健三郎氏も、古井氏のことを好感や敬意を持って語っている。
伊坂幸太郎氏の「小説の惑星 ノーザンブルーベリー編」に「先導獣の話」が掲載されており、初めて読んだ際は、正直それほどのインパクトはなかった。それから一定期間が空き、平野啓一郎氏の「小説の読み方」で「辻」の短編である「半日の花」が、一部抜粋の形でピックアップされていた。そのときに初めて、「なんだこの文章、すごく綺麗だ」と感動したのを今でも覚えている。
古井氏の文章は確かに難解だし、分かりにくいところも多々ある。それは間違いない。だがスルメではないが、噛めば噛むほどに、少しずつその良さに気づける、奥深い作家であることまでは理解できてきた。まだ僕が古井氏の作品に対して、感想を述べるなど早すぎるのは重々承知している。だが、いまの自分の現状の立ち位置を知るためにも、このタイミングで感想を残しておき、ある一定期間後、同作品を読んだときに、自分の読解力や理解力、想像力がアップしているのを感じられるかも知れないと思った。なので、いまこのタイミングで感想を残しておくのも、意味があるかなと思ったので感想を書きます。
【古井由吉って、どんな人?】
(1937〜2020)(82歳没)
1937年(昭和12年)11月19日、東京都荏原区平塚(現・品川区旗の台)に生まれる。1945年5月24日、未明の山の手大空襲により罹災、父母の郷里岐阜県で終戦を迎える。1953年港区立高松中学校を卒業、独協高校を経て都立日比谷高校に入学。1956年東京大学文科二類に入学。1960年、東京大学ドイツ文学科を卒業、卒論はカフカ。1962年同大学大学院修士課程を修了、修士論文はヘルマン・ブロッホ。 4月助手として金沢大学に赴任。1965年立教大学に転任。ブロッホ、ムージル等の翻訳を刊行。
1968年1月処女作「木曜日に」を同人誌「白描」に発表。1970年6月第一作品集『円陣を組む女たち』、7月『男たちの円居』を刊行。この年、大学を退職。阿部昭、黒井千次、後藤明生らを知る。 1971年1月、「杳子」により第64回芥川賞を受賞、同月、河出書房新社より『杳子・妻隠』、〈新鋭作家叢書〉『古井由吉集』を刊行。筆一本の生活に入る。 1977年9月、後藤明生、坂上弘、高井有一と同人誌「文体」を創刊。1980年『栖』で日本文学大賞を1983年『槿』で谷崎潤一郎賞を、1987年「中山坂」(『眉雨』所収)で川端康成文学賞を、1990年『仮往生伝試文』で読売文学賞を、1997年『白髪の唄』で毎日芸術賞を受賞した。 その他の作品に『山躁賦』『野川』『辻』『白暗淵』『やすらい花』『蜩の声』などがある。
【あらすじ】
父と子。男と女。人は日々の営みの中で、あるとき辻に差しかかる。静かに狂っていく父親の背を見て。諍いの仲裁に入って死した夫が。やがて生まれてくる子も、また—。日常に漂う性と業の果て、破綻へと至る際で、小説は神話を変奏する。生と死、自我と時空、あらゆる境を飛び越えて、古井文学がたどり着いた、ひとつの極点。濃密にして甘美な十二の連作短編。
【感想】
古井氏は、文章というツールを使えば、マジシャンに変貌するんだと感じた。あまりに文体(文章のスタイル)が独創的すぎる。古井氏の代名詞とも言える、会話文をいっさいカギカッコ「 」で閉じないのは知っていたが、今回新たな発見があった。それは人称代名詞を使っていない。「彼」とか「彼女」や「私」、「僕」など。本当に一度も使っていないのだ。
それだけではない。古井氏いわく、本来の日本語に句読点はほとんど意味などないと言う。今回12編の短編の中で、何度か文庫本で8〜9行に渡って句点(くてん)「。」を一度も使わずに表現している。素人の僕などが9行にも渡り句点を一度も使わなければ、読みにくいことこの上ない文章が出来上がるだろう。ほとんどの方がご存知だと思うが、一般的に一文の文字数は、40文字程度が読みやすいとされている。文庫本の1行の文字数を数えてみると大体34〜36文字だ。ということは9行にも渡り句点がない文章は、本来であればこの上なく読みにくく、駄文と言われてしまう。
だがじっさい古井氏のその文章を読んでみると、読みにくいどころか下手をすると、句点が無いことすら読者に気づかせないほど、スラスラ読めてしまう。つまり、古井氏は文章が長くなってもストレスなく読みやすいようにたった一文字に至るまで、緻密に計算し尽くしているのだろう。
今作の「辻」というタイトルは、通常であれば交差点の意味だ。だがおそらく古井氏は、ただの交差点という意味では当然使っていないだろう。いにしえの時代より日本で「辻」とは、現世と来世の境目と言われており、そのような場所には、妖怪や魔物が住み着きやすいと言われていた。今回12編すべての短編で辻が重要な意味を持っている。色々な意味での境目を表している。ある編では、時空の間であったり、ある編では過去と現在の端境であったり、はたまたあの世とこの世の境目であったり、辻に差しかかると何かが起こる。と想起させる。そのあたりの話の持っていき方がただただ巧いと唸ってしまう。
上記の書き方であれば、12編すべてが小難しい話と勘違いさせてしまったかもしれないが、当然そんなことはなく、すんなり楽しめる作品もある。例えば、短編「林の声」は、20歳前後にして天涯孤独になってしまった女性の話であるが、最後は大いなる未来への希望を感じされてくれる感動的なストーリーだ。この短編を読んで、昔読んだ小野寺文宜氏の「ひと」を思い出した。あの作品も主人公、柏木聖輔が、20歳で天涯孤独になってしまう。だが周りの人々の温かい思いやりで、人生の活路を見出すという感動的な作品だ。作品の起承転結が似ていなくもない。古井氏の凄いところは、それを30ページ前後のかなり短い短編で、不足なく書ききっている。
あと再読して思ったのだが、古井氏は物語の終わり方が非常に秀逸だ。これ以上短ければ、話が何のことだか分かりにくいし、これ以上長くなれば、少し間延びして感じてしまうかもしれない。長年短編ばかりを書いてきた古井氏だがらこその芸術的な収め方��。
何かしらの理由で、文章が上手くなりたい方や、美しい文体が好きな方で古井文学に触れたことがない方は、一度読んでおいても損はない作品だと思います。一点注意点があるとすると、かなり集中して読まないと、現在読んでいるところが、過去の回想の話なのか、現在なのか、はたまた別の人間の回想なのかが、非常にわかりづらいです。おそらく古井文学が難解と言われる理由は、そこなんだろうと。そこを読み取れれば、めちゃくちゃ面白い作品だと思います。
伊坂氏や平野氏、又吉氏や大江氏が称賛する理由が、少しだけ分かったかも知れない。古井氏が作品の中でやっていることは、文体含め普通の作家の方なら、難しくてとても手を出そうとはしないことであろう。それなのに毎作品アップグレードし続け、挑戦し続けている姿が、同業者としてこの上なく格好良くもあり、少し羨ましい気持ちもあるのだろうと思った。
【雑感】
次は、スコット・フィッツジェラルドの「グレート・ギャツビー(村上春樹訳)」を読みます。いまさら僕がいうまでもないが、生涯で村上春樹氏が、もっとも感銘を受けた書籍と、何度も色んな本で語っている。そして次読む本は、村上氏本人が訳している。思い入れが他の作品と比べて、ハンパなく大きいのだろう。生涯でもっとも力を込めて訳した作品であるのは間違いない。やはり、情熱を込めて書いた作品であればあるほど、こちらの気持ちを揺り動かすはずだ。期待して読みます!