紙の本
経済面から信長ら戦国武将を分析した書
2016/04/28 21:55
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投稿者:タンスの角に薬指 - この投稿者のレビュー一覧を見る
表紙に小さく副題として「戦国史の謎は経済で解ける」とありますが、これを主題にした方がよいのではないかという構成です。
「桶狭間は経済戦争だった」は第1章で語られ
第2章は信長の経済政策が語られ
第3章は堺について語られ
第4章は武田信玄が何故天下を取れなかったのか、その理由を武田の経済に求め
第5章は毛利や上杉などの外の戦国武将の経済について語られています。
経済から見た戦国時代の武将たちは実に面白く刺激的でした。
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昨年(2014)の6月に私のお気に入りである武田氏が出されていた本でした、不覚にも気づいたのが3日前でした。2日前に手元に届いて、面白くて一気に読みました。
私の追いかけているテーマの1つである「桶狭間の戦い」を、今回は経済の切り口から解説するものです。数年前に、あの「さおだけ」で有名な方が、平清盛の盛衰について、経済の切り口から解説されていて、記憶に残っていますがそれ以来のワクワクでした。
この本は、私が「桶狭間の戦い」において疑問に思っていたことに対する回答をくれたように思います。織田信長が桶狭間の戦い時点で、すでにかなり強かったことは、彼は常備軍を持っていた、持つことのできる経済基盤を持っていた点にあることが理解できました。
更に大事な点と思いましたが、他の大名にはない「今は室町時代ではなく、新しい時代になっている」という認識を強く持っていた点です、これがあるので、既存の権力・恩賞・階位にはこだわらず自分の道を進むことができたのだと思います。
その思いを理解することは当時の部下は大変だったと思いますが、後から見てみると、豊臣秀吉辺りが理解していたようですね。
経済的には信長よりも有利であった、上杉や毛利、戦闘では強かった武田を差し置いて、天下統一の目前まで行った信長の迅速な行動は、いつになっても色褪せないと思いを新たにしました。こんな本をかける、武田氏も素晴らしいと思いました。当分、追っかけを続けさせていただきます。
また、認識を新たにした点について、桶狭間の戦いは、ラッキーで奇跡的に勝ったと信じられていますが、その6年前にも信長は今川軍を破っており、桶狭間の戦いに至るまで十分な準備をしていることもよくわかりました。また、徳川家康の今川軍としての位置づけもよくわかりました。
以下は気になったポイントです。
・歴史というのは、経済面から見るとまったく違ったものに見えてくる(p3)
・今川義元が油断していた最大の要因は、信長軍の「驚異的な機動力」である、5月19日早朝、清須城を出た信長は、昼過ぎには桶狭間の今川本陣を急襲している、迂回する必要を考えると、40-50キロを半日で踏破している(p16)
・戦争の勝敗は、両軍の総兵力ではなく、決戦の場所をいかに素早く、多くの鋭い兵員を集められるかで決まるとされる、さらに信長は強力な精鋭常備兵を持っていてそれを投入できたと思われる(p16、21)
・小姓衆(赤母衣、黒母衣)以外にも、槍の者、弓衆、鉄砲衆、という旗本部隊があった、彼らは信長の居城の近くに住んでいる(p22)
・当時の清須城は巨大であった、これは常備軍を配置しておくことではないか。これが桶狭間の勝因を探る重要な手がかり、この巨城を作りえた経済力こそが最大のポイント(p25)
・信長以外の戦国大名たち、武田信玄、今川義元、毛利元就が、領土を拡張しても居城をほとんど替えなかったのは、それほど常備軍を持っていなかったからではないか(p27)
・中世で兵農分離ができなかったの���、領主は職業的な武士を雇えるほどの経済力がなかったから(p28)
・信長は、勝幡城で生まれている、尾張の物流拠点であった津島という港のすぐ近く、津島は尾張と伊勢を結ぶ地点、西日本と東日本の中間、木曽川支流大川と、天王川の合流点であり、尾張・美濃地方の玄関口、津島社の門前町(p29)
・信長の父の信秀は、伊勢神宮外宮の移築資金700貫を提供、朝廷へ4000貫寄付している、これは米にすれば1万6千石、4万石の大名の1年分の年貢収入、上杉謙信が朝廷へ献上したのは黄金30枚(1200貫)であり、3分の1以下(p30)
・上杉謙信は、柏崎と直江津の2つの港からの関税収入だけで、年間4万貫(30万石大名の収入)を持っていた、津島は更に栄えていた(p32)
・今川義元が尾張に侵攻してきたのは、経済要衝の地である「知多半島」を奪い合った、桶狭間は知多半島の付け根にある、当時の有数の商工業地域でもある(p34)
・中世から知多半島の土器は日本全国に流通していた、中世の遺跡で知多半島の土器が発見されないのは、わずか2,3県である(p35)
・1554年1月には、桶狭間の前哨戦ともいえる戦いが起きている、村木砦の戦い、このとき信長は義元に勝っている、桶狭間の6年前に今川軍を破っている、最終決戦が「桶狭間の戦い」であった(p39)
・鳴海城、大高城は、今川から見れば、敵中に打ち込んだ杭といった形、なので鳴海城の付け城として、丹下・善照寺・中島の3砦、大高城の付け城として、鷲津・丸根の2つの砦を築いた。これにより今川から見れば補給が途絶えて孤立したので、救援するのが、桶狭間の戦いにおける、今川軍の最大の目的(p40)
・桶狭間の戦いは、奇襲的な面が取り上げられるが、戦闘全般を見ると、ごくオーソドックスな挟撃作戦(砦をおとりにして敵の背後を衝く)と言える(p45)
・信長は、庶民に対しては非常に善政を行っている、それは税制であり、税のシステムを簡略にして中間搾取を極力減らし、農民の負担を大幅に低減した(p55)
・戦国大名にとっての大命題は、分散した年貢徴収システムを一括してまとめること、にあったが、それは難しかった。寺社や国人などの徴税権をそのままにしたので、自身の取り分が少なくなり、農民に過酷な税を課すことになり、農民の流出となり経済を疲弊させた(p57)
・信長は短期間で領土を拡大し続けてきた、これは武力だけではできない。領民の支持を得られなければスムーズにできない。(p60)
・明から、かなり銅銭が入ってきたので、年貢でさえ米の代わりに貨幣で納めるようになったが、中国から銅銭が入ってこなくなって(デフレ状態となり)、16世紀半ばから米を貨幣代わりに使うケースが増えてきた(p63)
・信長が1569(永禄12)3月16日に、近畿地区(京都、大阪、奈良)で、通貨に関する発令をだした。1)米は通貨として使えない、2)高額取引(中国との取引)は金銀使用、3)金銀がない場合は、良質の銅銭、4)金10両=銅銭15貫目、5)銀10両=銅銭2貫目(p65)
・田の広さに応じて、��銭の支払額を決めて銅銭で納めさせる制度を、貫高制という。銅銭が入らず流通量が減ったので、貫高制をやめてコメによる年貢「石高制」を採り入れた。これは農民にも歓迎された。ただし地域に応じて貫高制に据え置いたこともした。(p69)
・戦国武将は検地をなかなかできなかった、差出検地といって、農民側が自分で計った数値を報告するものも多かった(p70)
・撰銭令の対象となったのは、8大財閥であった。4つは寺社関連(3つは比叡山関連)、2つは都市(大山崎、堺)、2大名(細川高国、大内義興)(p73)
・信長は領地すべてで楽市楽座をしたわけでない、加納・安土・金森などの一部、京都や多くの領地では行っていない(p78)
・楽市楽座は、神社や寺院ばかりに利益がいき、自由な商取引ができないという弊害があった、楽市楽座で儲かった業者たちは信長にお礼をした(p79)
・江戸時代では商人が諸国を行き来するのが当たり前になっていたが、それは信長が治安を回復、関所を廃止してから(p90)
・南蛮貿易でも、日本側の輸出品として「奴隷」が扱われていた。これは秀吉の時代に「人身売買禁止令」が出るまで続けられていた(p95)
・信長にとって「防御御札」による税(判銭)は、大きな収入源であった。堺には2万貫を要求している。当時、米1石=1貫(1両=銭3貫)、1石を平均年収の半分とすると200万円、2万貫は400億円、年貢率を4割としても10万石が必要である。尼崎・京都は払わなかったことがあり放火されている(p98、160)
・足利義昭が信長に、副将軍か管領職を要請したが、断った代わりに、堺・大津・草津に代官を置く許可を願い出た。これは、東国大名にとっては、西から東への交易ルートを信長に抑えられたことになる(p100、153)
・堺は、応仁の乱で兵庫が荒廃したのをきっかけに、遣明船の母港となり、さらに発展した、一艘の一航海で、10万石の年収が得られた(p102)
・堺には、日本最先端の武器製造工場が集まっていた、古代から中世にかけてのわが国の鋳物産業の中心地(p109)
・ポルトガルがアジア貿易に乗り出したのは16世紀初頭、1510年にはインド、ゴアを占領、翌年はマラッカを占領した(p117)
・信玄には経済的な不安要素があった、1)農地が貧弱、水害多い2)領地が陸の孤島(p133)
・甲斐地方は天災によく見舞われる、1540(天文9)、大雨と大嵐により、家は押しつぶされ、世間の大木はなくなった、表現された(p135)
・信長が寺社の領地を侵食、既得権を剥奪すること経済的に力をつけたが、信玄は領民には過酷に課税しているが、寺社を保護した)(p145)
・信玄は租税に関して、領主としては禁じ手ともいえる、「領民全体から罰金として税を徴収している)(p147)
・人数の多さで押し切れる野戦ならともかく、鉄砲・火薬などの兵器を必要する攻城戦の場合は、1か月かかることあり。装備不足の差が極端にでる(p164)
・毛利は完全に瀬戸内海を制圧していない、主に村上水軍(因島・能島・来島)が勢力を持っていた(p174)
・織田水軍の中心は、九鬼水軍であった、もとは伊勢地方の海賊勢力であったが、信長の支配下にあった(p184)
2015年5月16日作成
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5章立てだが、1章の今川氏、4章の武田氏、5章の毛利氏上杉氏を除く部分は前作の「織田信長のマネー革命」の完全な焼き直しで読むかいないし。1、4、5章も筆者の主観と連想・類推があまりにも多すぎて客観性が薄かった。雑談としては楽しいけどソリッドな知識として得ることができるものは少ない。