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子どもの自殺、が社会でどのように語られているのか、その語られ方にはどのような背景があるのか、という本。
いじめ自殺を語るときに世間は被害者側に立って強い怒りを表現していることが多いけど、それでもどこか他人事のような印象があって、そんなぼんやりした思いをことばにしてくれた本。
いじめ自殺の語られ方に、もっとしっかりした方向が見えてくることを願う。解決なんてないのだけど、それでもね。
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問題は加害/被害、権利/義務といった法的な言葉で語られたり、症状や治療といった医療の言葉で語られることが多く、中間集団において日常的な言葉で語られていたのとは問題をおらえる枠組みが異なっている。そこでは法律や医療など専門的なパラダイムによって問題が定義されるので当然であるが、曖昧さを極力排除し、いわば「白黒つける」ような対処が特徴となる。(p.78)
「いじめ自殺」をした子ども=被害者なのは、「近代的子ども観」。「近代的子ども観」とは、子どもとは純真無垢である一方、弱くて傷つきやすく、意志の力や理性も未熟であるため保護が必要な存在だというイメージである。(p.103)
社会問題についての語りが個人にとってアイデンティティや承認の供給源になっている一方で、社会問題が作られるにあたってこうした語りが重要な位置を占めていることも指摘できる。(中略)問題についての個人的な語りが社会問題のあり方を方向づけるようになっているのである。(p.126)
いじめや「いじめ自殺」の被害者に感情移入して加害者を非難する者が、実はその加害者と同じことをしているという構図は、大いなる逆説である。これを考えると、加害者を非難するいじめ言説は「いじめっ子」のしばしば身勝手な論理と同程度のものではないかと思える。少なくとも、それらの言説が依って立つ基盤は、多数派であることや、他者への洞察を欠いた表面的、一面的な人間理解にあるという点で共通している。(p.148)
物語化することによって私たちはきわめて複雑化した世界を理解可能にしているという側面が考えられる。役割や機能の分化が高度に進んで複雑化し、なおかつ急速に変化する現代社会において、私たちの周囲で起こっている現実やその意味を的確に素早く理解することはどんどん困難になりつつある。そのとき、複雑性を「縮減」する方法のひとつとして物語化を位置づけることができる。(p.153)
いじめは人間の尊厳に関わる問題とはされても、学校で学習し、それによって人生の可能性を広げていく機会が侵害される、という視点は希薄である。子どもにとって、学校での友人関係や「居心地」は、それ自体として重要であるのは言うまでもないが、仮にそれが充たされていなければ、学校に行きづらくなったり、精神的に疲弊したり、学校生活全般への関与が低下することを通じて、学業への動機づけも低下していくと考えられる。(p.177)
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人々がある社会問題について取り上げるとき、自らを被害者側の立場に近づけて語る。加害者側は自分とは全く異質なものとして糾弾する。誰もが納得せざるを得ない正論を語ることでカタルシスを得、現代のSNSにおいてはそれがアイデンティティや承認欲求の充足にも繋がる。
これは単にいじめ問題に関わらず、現代社会(特にネット社会)全般に言える構造なのかもしれない。
自らが加害者側に立って語るということはなかなか難しいし勇気のいる作業だと思うけど、そういう現状を認識し、自らも加害者側になりうるorである という意識を持とうとしない限り「正論言って気持ちよくなって終わり」のループが無限に続くことになるよね…