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労作。1章ではまさに(戦後)河川行政の系譜をまとめていて参考になる。しかし本書の主題はどうやら、多目的ダム批判、そしてそれを支える利水需要予測批判、基本高水(と貯留関数法)批判、さらに河川行政にみられるパターナリズム批判、水害訴訟における司法判断への批判…。
膨大な資料やデータを引いており、ところどころでは目を引く指摘もある(利水需要の原単位の縮小傾向や、洪水ケースの引き伸ばしのこと等)。それだけに、肝心のところで感情的・主観的に評価して、イメージで記述していることが多いのは残念(「不合理と思われる」とか「きわめて怪しい」とか…)。
そういった傾向は、利水に焦点を当てた前半よりも、治水に焦点を当てた後半でより強まってくるので、読み進めるにつれ次第に頭が痛くなってくる(笑)
やや中途半端に自然科学と社会科学を同時並行的に行き来している危うさがあるし、それ以上に、社会科学や社会政策を扱う上での「客観性」にしばしば乏しいと言わざるを得ない。特に、本書が東大の博士論文をベースにしたものであるならば、このような「プロ市民による評論文(あるいはジャーナリズム気取りの文章)」のようなものが科学として良しとされたことには違和感を抱かずにいられない。実際、本書が「河川工学や法学等を横断する研究」と自称するわりには、博士論文審査のレビュワーに河川工学者が含まれないことは象徴的であり、おそまつである。
(参考)http://gazo.dl.itc.u-tokyo.ac.jp/gakui/cgi-bin/gazo.cgi?no=122774
とはいえ、冒頭に記したとおり労作である。物事を客観的に見ることを志向するならば、本書での梶原の言い分も含めて考えるべき、という意味において、大熊孝の「この本は今後の利根川に不可欠」という台詞も理解できる。
本書では国交省や都県や司法は(一方的に)批判されているが、それらの者の見解(反論)も把握し整理し客観化される必要がある。これこそが、「科学」となるための、次のステップである(本来は本書の範疇に含まれているべきと考えられるが)。そういう意味からすると、本書のレファレンスにあがっていた、雑誌『世界』における「基本高水」をめぐる大熊と福岡捷二との議論は、また一つ参考になる。