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人以外の動物も、仲間の死を悼む。
仲間の埋められた場所に集まったり、骨に触れようとしたり。
僕らの持つ、死を悼む感情は、思っている以上に古い進化的時期に獲得したのかもしれない。
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例外に近いくらいの割合で、死を悼む(ように見える)動物が観察される。それをどうとらえるか。奇跡的なケースなのか、本能的な行動がたまたまそう見えたのか。本書の視点は「どの動物も何かしら、仲間の死を悼んでいて、人間に理解できるほどに顕著なケースが報告される」というスタンスだ。思い入れのある動物のケーススタディで涙するが良し。
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「動物にそのような感情があるものなのか?」とタイトルに興味を引かれ手に取りました。
科学系(といってもこちらは自然科学の方ですが)の翻訳モノは読みにくいものが多い、という引っ掛かりがありがちですがこちらは大変読みやすかった。そして心揺さぶられました。
動物も、哺乳類だけでなくこれほど悼むような行動をする種(まだそれが本当に悼む行為であるという確証はない種もある)がいるのだなと驚きました。
そして章が進んで、最後の方になってくるといろいろ考えさせられもしました。クマを人間の勝手な目的のために発狂するまで飼い殺しにする、とか動物の自殺としか思えない行動など、読んでいてぞっとしました。
しかし知らないでいてはいけないことなのではとも感じました。
また、近年ではペットを家族と呼び、ペットをロスしてからもそのように扱う人がかなり増えましたが、そういう人々に対して違和感を感じている人との折り合いというのも難しくなってきているとも感じました。
特に死亡欄にペットの訃報を載せてしまうことに対する異議。日本ではまだ考えられませんが、確かに自分の肉親とよそ様のペットが一緒に訃報欄に載っていたら許せないと感じる人はかなりいるだろうと思います。
ペットを家族のように感じる人、それに違和を唱える人、どちらの立場も分るように思います。
人間がいつから死者を悼むようになったのか、という考察もとても興味深いものでした。
ところどころジーンと感動する場面がありましたが、著者の最後の「おわりに」を読むともう涙を抑えられなかった。
「動物も人間と同じように喪失の悲しみに打ちひしがれていると知ったとしても自分たちの嘆きが和らぐわけではない。けれども、自分たちの嘆きが落ち着いてきたときにそれを知ったなら、それはまぎれもない慰めになるのではないだろうか」という意味のことを著者は「おわりに」で語られています。
それが著者がこの本を著したかった一番の理由なのではないかな、とも感じました。
動物も、どの国の人間も、みんな大事な自分以外の存在を喪いながら生きているんだな、と強く感じることができました。
なかなか手に取られにくいジャンルの本だと思いますが、本作はもっと読まれても良い良書だと思います。
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象、チンパンジー、ゴリラ、ヤギ、馬、イルカ、クジラ、カラスと多くの動物が近しいもの、仲の良いものの死を悼むという。彼らに去来するものが何か、明確な説明はできないかもしれないが、そこにある種の情動が働くことは確かなようだ。驚きの連続!
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動物が或る対象の「死を悼む」。これはペット愛好者の間では、自明のことかもしれない。けれども、ペットを飼わない私などは違和感がある。例えば「ネアンデルタール人が死者のために花を添えた」ということが大きなニュースになる。それは、即ち「類人猿など人類でない者は、死を悲しみ、相手を愛する心を持っていないし、そのための文化も発達させていなかった」という認識が前提としてあったからである。では、動物たちにはその「こころ」は無かったのか?それはキチンと科学的に検証されなければならないだろう。
著者は自然人類学学者である。「プロローグ」に結論は書かれている。「人間がそうであるように、動物も相手に愛を抱いていたから悲しむのだとわたしは考えている」(23p)科学的根拠は何か。必要条件(相手が側にいることを選んだ積極的働きかけ)と同時に十分条件(相手の死を悼む)の行動をとっているから、という点に過ぎない。著者も、これがキチンと科学的に認められた定説とは思っていない。しかし、こういう推論によってこの本の大部分は、それらの行動記録を丹念に拾うことに費やされている。著者本人も、「現時点ではまだ完璧とはいえない」と言っているように、私は著者の結論には懐疑的である。「ある」とも「無い」とも、私は言えないと思っている。
非常に多くの例が綴られる。しかし、それが本当に悲しみからくる行動なのか、愛からくる行動なのか、はっきりしない。統計的資料もない。そもそも「愛」とは何か、人間自身もまだわからないのだ。こんな言葉を、著者は意識的に学術的論文に使っているのである。
犬や猫、熊や象、チンパンジーなどの行動を記すのはまだいい。しかし、カラス、コウノトリにもそれらしき行動があると書いてほかの動物と同等の位置に置いている。脳の大きさが明らかに違うのに、そういう事をやっていいのだろうか。
承認できないのは、和歌山県太地町のイルカ漁を告発する映画「ザ・コーヴ」を無批判に受けいれる一方で、「悼む」動物の中に、豚も牛も例示しないのだ。イルカ漁を残酷と言うのならば、牛豚を食べることをどう思うのか、著書の中で一言は書かなくてはならないと、私は思う。
はっきりしているのは、「埋葬」等の著者言う所の「芸術的」行動は、ネアンデルタール人が最も古い、ということだ。それ以前の人類の遺跡からは出ていない。霊長類も動物たちも芸術的行為はしない。だからそこは、現代の人類は動物たちとは違うと、著者も認める。だからどうなんだ、ということは展開されない。
人間とは何か。ということを知るためにも、「動物たちは本当に死を悼んでいるのか」の問いそのものは重要だと私は思うが、立証されないことをダラダラと述べただけの著作であり、忘れるべき本だと思う。
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『動物学者が死ぬほど向き合った「死」の話』を読んだ直後に読んだため、こちらの本では多くの具体例と共に動物たちが仲間の死を悼む姿が多く描写されており、とても感慨深いものを感じた。
前本や本著には、動物が仲間の死を悼んでいるというのは人間が死を悼む“ヒト”という唯一の種にならないための人間による美徳に過ぎないという意見があった。科学的な証明を得られていない現在、この意見は真っ当な意見でもあり一理あるものと考えられるが、私はたとえそれが科学的に証明され得ないものであったとしても動物は(人間を含め)みな死を悼む動物ということを信じたいものだと感じた。