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関西では知らない人はいないといわれる「やしきたかじん」のずっと語られることのなかった出生、そして生い立ちや東京進出の話、そして歌への情熱の変化など、普段テレビを通して見ているやしきたかじんのリアルを著者が苦労しながら取材してまとめた一冊。
かなり、取材に関しては苦労したとあとがきで書かれている。
読んで見て、やしきたかじんという人物の見え方が180度かわるかもと思いながら、手にした1冊でした。
たしかに、印象とは違うことが結構書かれている部分もありましたが、時折テレビで魅せる恥ずかしがり屋な面などのなんとなく納得できる部分もあった。
自分にとって(関西在住の人はそう思う人は多いだろう)、まるで親戚のおじさんのような存在である、やしきたかじんの普段みせない顔がわかる、そんな1冊です。
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p.16 戦後間もない四九年十月五日に、たかじんは大阪市西成区で産声を上げた。男ばかりの四人兄弟の次男である。生前、たかじんは大阪市出身であることは公表しても、西成区で生まれ育ったことを言わなかった。
七七年に発表したセカンドアルバムの宣伝用パンフレットには、出身地が「大阪市(天王寺区)」と表記されている。出身地を詮索されることを気にしていたのではないかーこれは私の推測である。
p.20 たかじんは二十歳前後のときに、フォークソング・グループに参加している。グループのメンバーが証言する。
「みんなでキャンプに行こう言うて行ったけど、雨が降ってきたので仕方がないから、やしきの家で飲んでた。そのときあいつが『実は親父は韓国やねん』て泣きながら言うたことがあるんですよ。親父が在日韓国人というのはコンプレックスになってたんでしょうね。当時のことやから、就職のことなんかを考えると、しんどいなというのはあったと思うんです」
たかじんは父親の出自について深く悩み、気の許せる友人だ
けにはそのことを伝えていた。泣きながら打ち明けたというと
ころが、いかに彼にとって重要な事柄であったかを物語ってい
る。
p.25 父親は息子たちの将来を案じ、日本人の母親とは籍を入れなかった。「家鋪」は母方の姓である。つまりたかじんは、母親の私生児であり、日韓のハーフ(ダブル)である。民族差別が今より厳しかった時代に、両親がとった行動は、やむ得ない選択だったのかもしれない。責められるべきは日本人であり、日本社会であろう。
p.35 「これになりたいと思ったら、すぐ行動に移す。どんどんやって、どんどん挫折するわけです。そんなにうまいこといけへんわけですよ。そやけど、やっぱりその行動力が徹底的に僕らと違いましたね」
「高校時代に彼が夢を語るとき、それは常に具体的な職業やった。職業を選択するときとか生き方を含めて、自分の生まれをかなり意識してたことは間違いないと思いますね。それを自分なりに考えて、正面から闘っていた。やっぱりその激しさが違いました」
p.88 『動くということは大事や。曲がり角の先の景色は、行ってみないとわからんやろ。実際に行ったら、いろんなこと感じるし、違うアイデアも出てくる。とにかく動くことや』
たかじんは形式を嫌うとともに、聞く者を虜にすることにも心血を注いだ。新製品を自分で試し、疑問や不備があれば、生放送で生産した会社に電話し、質問攻めにする。リスナーの耳をいかにラジオに釘付けにするかを考えていた。「誰に向かって放送するか。スポンサーでもなく、放送局でもなく、聞いている人や」
p.89 話術に関するアドバイスは具体的だった。
「舞台に上がったら、15秒で客をつかめ」
「ライブをするときは、必ず笑わせられるネタを3本つくれ」
「話は七割はほんまやけど、三割は盛れ(誇張せよ)」
たかじんが実践してきた話術のエッセンスである。話術に磨きをかけるために、家では落語家・桂米朝、桂枝雀のテープをよく聞いていたという。
p.92 「そんなに面白いこと��毎日あるわけではないので、オリジナルのネタを探すために毎日、北新地に出かけました。飲み歩くことがどれだけつらいか体験させてやると言って、一週間連れて行ってもらったことがあるんですけど、しんどかったです。そんな生活を続けているから、たかじんさんは円形脱毛症とかノイローゼ気味になってました」
文字通り身を削ってマイクに向かっていたわけである。大学を卒業し、タレント活動を始めたばかりだった安井は、たかじんに「寝る間を惜しんで、うんと努力しなさい」とアドバイスされている。たかじんが自分に課していた信条であろう。
p.153 及川眠子には、たかじんはどのように写っていたのだ
ろうか。
「小心者で、優しくて、気の弱いおじさん。全部同じような意
味だよね。あの人は、やしきたかじんを演じていたと思う。私
ね、一回そういうことをあの人に言ったことがある。彼は、
『俺が乱暴で無茶をするのは、みんながそれを求めているから』って答えたな。しんどい人だろうなとは思った」
p.172 (たかじんの娘の)曜子が短大生のとき、恋人にふら
れて落ち込み、友人に誘われるまま合コンに行ったことがあっ
た。するとそこに父親のたかじんが、タレントの北野誠と一緒
にいるではないか。独身のたかじんは、出会いを求めて参加し
ていたのだろうか、それともネタ探しの一環だったのだろうか
。いずれにしても、父親と娘が再会するのにふさわしい場所で
はない。
曜子は北野に失恋話を涙ながらに語り、北野からその話を聞
いたたかじんは、娘に「これで飲みに行って来い」とぶっきら
ぼうに言い、五万円を渡した。良い父親なのか悪い父親なのか、わからない。
p.183 「コンサートの二ヶ月くらい前から家で一日中歌って
ました。ずうっと防音室に閉じこもって、出てきませんでした。食事はインターホンで『なになに持ってきて』『なになにが食
べたい』と指示があるので、言われたのを持って行きました。
神経が細い人だったので、コンサートが近付いてくると、下痢
でおなかをくだして、朝からトイレに何回も入ってましたね。
精神的に追い込まれていくのがわかりました。コンサートを続
けていくのは、体力的にも精神的にも持たなくなっていったん
だと思います」
やしきたかじんの歌は、五畳半の防音室とトイレの中で苦闘
した末に生み出されたものだった。
だがその闘いを、それ以上続けられなくなっていた。
p.186 「たかじんさんにとって一番怖いもの、怖い人は?」
というファンの問いに、彼は「怖いのは舞台で、怖いのはお客
さんです」と答えている(ファンクラブ会報、94年1月)。妥
協を許さないたかじんの偽らざる心境であろう。
p.189 ポリスターのディレクター田中は、たかじんの変化に
ついて次のように語る。
「たかじんさんの音楽に対する情熱は『東京』がピークだった
んじゃないですか。数字的にもヒットを出したでしょう。その
あと、なんか違いましたからね。達成感のようなものがあった
かもしれないですね。どこか、『もうえ��かな』という感じは
あった。テレビの方に力を入れ始めたなっていうのは感じまし
たね」
p.190 マネージャーの野田は述懐する。「たかじんはしゃべ
りの天才です。テレビのアドリブはなんぼでもできる。でも、
コンサートで歌うことには、かなり神経を使っていた。テレビ
はそれに比べたら、お金も入ってくるし、全然楽やったと思い
ます。テレビに出て、お金が入ってくるようになってから、人
間が変わりましたからね」
p.191 人間が変わったわかりやすい例が、仲間とつくってき
た事務所の解散であろう。
たかじんの再婚相手の智子は、野田の解任劇について、次の
ように分析する。
「結局、絶対に切ってはいけない人を切ったんですよ。自分を
ちやほやしてくれるイエスマンが残った。もちろん、全員じゃ
ないですけどね。でも、そういう傾向はあったんですね。だか
ら彼に本当のことを言ってくれたり、対等に話ができる人を切っていったので、それは大失敗だったなって、私から見て思いま
すけどね。アホやなぁっていう気がします」
p.209 高校時代の同級生で、初期のたかじんの楽曲の作詞を手がけてきた荒木十章は、たかじんが自分のルーツを言わないことに疑問を投げかける。
「あれだけいろんな番組で私生活を全部さらしてきた人間が、なんで言えへんかったんか。その決着を自分でつけるのに、いろんな葛藤があったんかなとは思う。五十になっても、まだそういう問題はきつかったんかなと思うけど、やっぱり中途半端だったね。その弱さって何やったんやろな。あの番組が始まったころから、疎遠になってあんまり連絡が来なくなったけど、俺、次に会ったら言うてたと思う。『お前、言うた方がええんちゃうか』って。日本人と在日のハーフやというところで生きてきたわけですからね。『それが何が悪いねん』て、何で言えへんかったんかな……」
p.210 自分の私生活までさらけだし、語ってきたたかじんが、タブーなき番組で、なぜ自分のことを言わないのか。そう感じる友人や同胞がいることは確かである。たかじんのふるさと、大阪・西成在住でたかじんと同世代の在日コリアンは次のように語る。
「『僕の半分の血は朝鮮人や』という言葉が一言でもあったら、あの人の株はもっと上がってたんよ。あれだけいろんなことを言うてた人が、一番大切なことを言えへんかった。ちゃんちゃらおかしい。でも言えへんかったのは、日本社会の病理でもあるんですわ」
p.216 たかじんの立ち位置は、あくまでも庶民である。その彼が、仲良く元内閣総理大臣と温泉につかって政治談議をする。そこにはたかじん得意の揶揄や批判はない。安倍はたかじんの番組に出れば、気持ちよく自分の主張ができ、多くの視聴者に伝わると考えたのだろう。
「たかじんのファンは、自分たち庶民の言葉を代弁してくれるっていう人が多かったですね。だから一切に、政治にはかかわらない、芸能人と政治家はめざすものが違うから、俺は一切そんなことに興味はないって常々言ってました」
たかじんのマネージャーを四半世紀務めた野田がそう述懐する。
庶民の代表者は、いつの間にか権��者のそれに代わっていった。
p.226 人気タレントになっても、彼は本業が歌手であることを強く自覚していた。歌にかける情熱は、半端ではなかった。コンサートで歌い始めるとき、あるいは歌い終わったときの深々としたお辞儀がそれを物語っている。しかもどの歌手よりも頭を下げている時間が長い。歌と聴衆に向き合う態度は真剣そのものであった。
しかしどれだけ歌に対して情熱があろうが、作曲、歌唱の才能があろうが、歌手としてよりもテレビタレントとして知られたのは皮肉である。夢を追い続けることがいかに困難であるかを、やしきたかじんは教えてくれたような気がする。
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角岡伸彦さんの「本」には手を出すことにしている。
「被差別部落の青春」依頼のファンでもあります。
立ち位置をしっかりさせて、
深い内容を軽妙な語り口で書かれるのが
大きな魅力です。
さて この一冊
ちょっと…
たぶん
全くTVを見ないので
主人公の「やしきたかじん」さんという人を
よくしらない、
だから 読みながらも
もう一つ自分の中にはいってこない
のだろう
と 思っています
それでも
次の「本」は
楽しみにしています
角岡伸彦さん。
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あ、角岡さんの本、読んだことある!「被差別部落の青春」。
やっぱりたかじんさんは歌手なんやなー。
「殉愛」の方、もめてるけどどんな内容なんかしら。
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生い立ち、歌に対しての(素人には)想像もできないまでのプロ魂、テレビでは到底うかがい知れないたかじんさんの人となり、どれも丁寧に描かれていたと思います。少しずつ読み進めていくつもりが一気に読んでしまいました。
前妻や一人娘、最後のマネージャーの方にもお話を訊かれてきちんと書かれていたのが良かったです。
最後の妻をはじめとして取材拒否の方が多かったというのは、やはり何かと話題のもう一つの「たかじん本」との兼ね合いもあってのことなんでしょうね…角岡さんも歯がゆい思いをされたと思いますが、それでもとても読みごたえがありました。
そして件の本ばかりが話題になってこちらの本がそうでもないというのは、なんかちょっともったいない気がしました。
あちらを読んでいる人は、やしきたかじんさんご本人について関心があるというよりも単にゴシップ好きなのかなと思ったり。余計なことですが。
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時々文章が引っかかる。
それから今喧伝される「やしきたかじん」という人物の評伝にしては薄いような気がしたが、それは死後の利権の行方による取材拒否のせいか。
複雑なたかじんの個性と、それに対しての著者の反発が伝わってくる。なのでちょっとたかじんに対しての愛が薄いように感じられる。しかし、もしかしたら今後、一周忌明けて口を開く親族や、その他の関係者の取材も取れて、もっと深い愛憎をとらえた改訂増補版が出るのかもしれない。期待したい。
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『殉愛』のせいで百田とさくら未亡人を取り巻く話題ばかりになってるけど、これは純粋にたかじんの生涯を丹念に綴った一冊。
生まれも育ちも関東の自分は、寡聞にして彼のことは全然知りませんでした。
西成生まれの在日だという出生から始まり、ミュージシャンとして売れなかった頃の話。
ラジオのトークが認められてタレントとして成功したこと。
ミュージシャンとして成功する前にタレントとして成功したせいで、ミュージシャンとしては悩みがつきなかったこと。
東京には3度進出したものの、いずれも上手く行かずに大阪に根を張ったこと。
売れる前から京都や北新地でお金を湯水のように使って、そのせいか私生活ではうまくいかなかったこと。
番組に対しては鋭い現場感覚と徹底したプロ意識で、数多くの看板場組を持つようになったこと。
けど、そのせいで政治にも関わるようになったこと。
他にも色々印象に残る記述がありました。
一言で言えば愛すべき暴君だったのかと思います。
不世出のタレントの死に合掌。
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図書館に予約して半年以上待った。
やしきたかじんのファンだった頃があった。コンサートやテレビ収録にも行ったことがある。でも、いつからか政治的な志向が全然違うことに耐えられず、テレビも全く見なくなった。この本には、本人に政治に関する確たる志向はないというようなことが書かれていたのだけれど。
前妻、娘、新旧マネージャーなど、よく取材されていて、興味深かった。ただたかじんの出自や性格などに関しては、薄々感じていて、そういう面での驚きなどはなかった。ファンならみんなそうなのではないか。
スターっていうのは孤独なものなのだなあと、改めてありきたりの感想を持った。
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中高生の頃、ラジオで鶴瓶さんと息の合った掛け合い漫才のようなトークを聴いて、大好きになりました。でも、いつからか、どちらかと言うと嫌いになりました。暴君のような振る舞いに目を伏せるようになりました。読んでみて、いかに気の弱いデリケートな人であったこと、コンプレックスの塊であったことが分かりました。決して幸せな人生ではなかったのかなあと感じました。私には人の幸せをとやかくは言えないですが。
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ゆめいらんかね やしきたかじん伝 単行本 – 2014/9/11
2016年3月10日記述
角岡伸彦氏によるルポ。
やしきたかじん氏の生涯を分析した本だ。
著者同様、自分もやしきたかじんを知ったのはTV番組の分析家、タレントとしてだった。
歌手と知ったのは随分後のことだ。
番組は確かたかじん胸いっぱいだった。
そんなやしきたかじんの若かりし日とはどんなものだったのか。
夢なり希望を見つけたらまずとことんやってみるという行動力の高さ。
この辺りは生涯において彼の人生を決定づける才能になったと思う。
たかじんの父が在日韓国人で名前を権三郎といった。
Gパンや音楽は不良のやるものだという認識の古さがあったそうな。
(とは言え、昔は音楽や漫画など新しい文化が正しく認知されていなかったのはなにもたかじん家だけではなかった)
いい友人をつくれ、いい本をたくさん読めというのが口癖の父親。
たかじんの買ってもらったドラムを捨てさせるなど昔の親父っぽいこともする。
一方で本屋で世界文学全集などをつけで購入しても何も言わないなど教育熱心でもあった。
後年、30代のたかじんに北新地のステーキハウスに呼ばれ黙って300万円を渡してやるなどいざこざはあれ常にたかじんを応援していたように思う。
龍谷大学を6年行き中退しているたかじんの学費は母親が出していたと言ってもそのお金はやはり親父さんの会社からのやりくりであろう。
権三郎氏の頑固親父ながらの愛情が幾重にも見えてくる。
そんな親父さんとの会話では常に敬語だったのだというたかじん。
TV画面のたかじんを思い返すと想像も出来ないが・・・・
引退するつもりでのぞんだフェスティバルホールでの大阪大衆音楽祭。
そしてそこでのグランプリ獲得。
なんというドラマチックな一場面であろうか。
TVタレントとしての開眼。
東京への乗り込みと挫折。
野田幸嗣マネージャーの解任劇。
再婚相手の智子氏によると、苦言、本当のことを言ってくれる人、対等に話ができる人を切っていった。
自分をちやほやしてくれるイエスマンばかりが残ってしまったと。
この辺は中小企業でも起こりがちな事であろう。
やしきたかじんの弱さを見た思いである。
以上のようにTV画面で知るたかじんのバックグランドが本書を通じて見えてきた気がする。
本書で残念なのは全て活字であること。
ルポなのだから全て活字はやめて欲しい。
特に昔の解説に関しては写真なども記載して欲しかった。
大阪大衆音楽祭の時の写真とか、マネージャーの顔写真とか。
当時の通っていた学校の写真とか。
あと可能ならたかじん年期みいたな年表もあればもっと良かった。
たかじんは仕事において手を抜くようなマネをするディレクターとは喧嘩をし時には殴打することもあったと本書にあった。
著者にももう少しそのたかじんの仕事ぶりを参考にし取り組んで欲しかった。
ルポとしての作り込みは不十分に思える。
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その昔、カラオケバーで「好きやねん」だとか「いちず」などよく歌ってた時期があったけど、関東在住ゆえ、関西の視聴率男という側面は全く知らずにいた。在日という出自と東京での挫折を強烈なコンプレックスとして生涯抱え続けながらも、ローカルヒーローとしての生き様を貫いた姿は清々しくもあり、痛々しくもある。
橋下大阪府知事と平松大阪市長の誕生とその後の抗争のフィクサーだったという裏事情のくだりには驚かされた。