紙の本
明治という時代の終わり
2015/12/25 12:19
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投稿者:ゆうき - この投稿者のレビュー一覧を見る
高校時代に読んでいた本が復刻すると聞き早速購入しました。
漱石が重体に陥ったのち、向こうの世界で様々な人と交錯します。
懐かしい人、不思議な縁で行き合った人・・・。
そして死地を乗り切った漱石は、静かにこれまでを振り返ります。
始まりの、若者のエネルギーに満ちた明るさと打って変わって、
前巻から続く大逆事件という闇を越えて終わりゆく明治。
漱石に関わった人々が亡くなっていくのも、その「終わり」を感じさせています。
独特の明るさと、闇を持った不思議な時代。
近いようで遠く感じるこの時代を、このシリーズは鮮やかに描いてくれました。
明治という時代に興味のある方はぜひご一読ください。
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明治43年8月。病床にある漱石。
胃が気持ち悪いと言いつつ生卵2個とご飯を3膳食べる。
空腹に耐えかね、温熱療法で腹の上にのせている温めたコンニャクをちぎって食べる。
文豪なのに食い意地はり過ぎ、と思ったけれど、さすが正岡子規の友人と思いなおす。
類は友を呼ぶのだなあ。
8月24日。
大量に喀血し、30分ばかり漱石は死んだ。
死んだという意識は本人にはないが、確かに呼吸が止まり瞳孔が開いて、漱石は30分ばかり死んでいた。
その時漱石は、啄木を道案内に昔懐かしい、しかしよく考えると今はもうこの世の人ではない人たちに会いに行っていたのだ。
漱石は神経を病んだり胃を病んだりと繊細なので、せっかく懐かしい人と邂逅しても、心残りをなくすどころか却って思考がぐるぐるまわりをしてしまうのだが、最終的には何となく自分を納得させて前に進んでいるところがある。
たぶんそういうところが漱石の人気の所以なのではないか。
理詰めだけではない、納得は行かなくてものみこんで消化しようとする姿勢。
消化できるかできないかはさておき。
真面目なんだよね。だから神経や胃をやられる。
案内人の啄木は「ぼくをご覧なさい。借金で首はまわらず 家庭内はいざこざばかり。なのに この晴朗さ。悩みは深いが この無責任。時代閉塞の日本では こう生きるのが賢明です」と、あっけらかんと言ってのける。
知り合いじゃなければ好きだ、こういう人。
病状回復後、文部省から博士号を叙されたときに漱石が言う。
「疲れても 已め得ぬ戦いを持続しながら けい然として独り老いるのは 惨めというほかはない。惨めというほかはなくとも……。僕は官の世話にならない。大学の世話にならない。博士号の世話にもならない。一回の夏目金之助としてこの苦を引き受けて 偶然生還したこの世に とどまる心算だ。」
自分の人生に悔いの残らない人などいないであろうに、こんなことを考えているから、体を壊すのだ。
そして、漱石は文豪になった。
シリーズ五巻を続けて読んで、明治って面白いなあと思った。
江戸から繋がる明治。明治から繋がってる平成。
大きく変わったはずなのに、ぐるりと一回りして同じところに戻ってきたような気がするのは、気のせいなのだろうか。
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團子坂上の観潮楼に森鴎外を訪ねた 明治四十三年は異常な多雨で 愛宕山のホテル 即ち死は、本人にとって存在しないも同然であった。 短い死から還った者が、あの完全な虚無の中に溶け込んでしまい、最早届く筈も無い恋人に贈る、それは寂しくも清涼な挽歌であった。 病床でウィリアム・ジェイムズの『多元的宇宙』を読んでいた 処女歌集『一握の砂』 …見よ今日も_かの蒼空に_飛行機の高く飛べるを…啄木はこの詩「飛行機」に翌明治四十四年六月二十七日の日付けを添えて_手書き詩集「呼子と口笛」に入れた_それは啄木二十五年余の生涯最後の詩となった 実は結核性腹膜炎であった 凛冽たり近代_なお生彩あり明治人 往時茫々の思いは深い