紙の本
そうか、そうだったのか、と気づきます。
2015/10/21 08:46
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ganji - この投稿者のレビュー一覧を見る
ずっと気になってた著者だった。ようやく読むことができた。
自分にない視点からの物の見方をたくさん学ぶことができた。今の時代を「負けた先の戦争」と「これから起こる次の戦争」との間にはさまれた時期だと設定し、現代の空気を独特の視点から切り取ってみせる。日本という国は敗戦の後の主権を回復していないこと、対米追従の中で国家としての意思決定ができない国であること、国家運営と企業経営を混同してしまい効率を最優先にしたこと、その結果として民主主義を壊して金儲け第一とする流れができていること、だからいずれ国のかたちが崩壊するだろうこと、特定秘密保護法も集団的自衛権の解釈改憲もそれらの流れから出てきていること、ところがその特定秘密保護法は本当に肝心な国家機密を守れない構造になっていること等々、まさに目から鱗の連続。もう少しこの人の著作を読みたい。
紙の本
日本はこれから、どうする?
2017/04/21 13:11
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:きよし - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹は、2014年にこの本を出版しているが、それは日本に「次の戦争」が起こるのではないかという危機感からだった。
そして2017年4月の今、世界情勢は日に日に悪くなっている。
まず、内田は日本について、かなりシビアな見方をしているところがあり、僕たち日本人は戦争で徹底的な敗れ方をしたため、現在は主権国家でもなんでもなく、アメリカの従属国であるとしている。これは、内田がどの著作においても一貫して主張していることだ。
そして本書で特徴的なのは、内田が過去に「もしも」を持ち込んでいる点である。
もしも日本が1944年までに講和していたら、今の日本はどうであったか思考実験している。
それは、敗戦後も主権国家であり、「次はアメリカに勝つ」というマインドを保ち、敗戦責任の追及を日本人自身の手で行うことかできた、「ふつうの敗戦国日本」はどうであったかの想像である。
本土空襲が始まったのは1944年の暮れから翌年までであり、この空襲の死傷者は75万人。被災者は1000万人。原爆による死者は広島20万人、長崎14万人。
この数字を読んだだけで、僕は絶望を感じた。
そして内田は言う。44年までに講和が成立していたら、この死傷者被災者はほぼゼロであった。
そして、戦争の被害の大きさ、死者の多さによって、僕たち日本人は、戦争によって失ったものを考えることができなくなった。文字通り、誰もそんなことができる人はいなかったのである。
ここからは僕の意見である。しかし、だからといって、今の僕たちが敗戦を忘れていくことを正当化することはできない。
むしろ今、あの戦争は何であったのか?と問いかけることで、未来に遺せるものがあるのではないかと感じる。
2017年4月現在、日本も戦争と無関係ではいられなくなりつつある。しかし、日本は戦争の惨禍を忘れることなく、殺されることも、殺すこともしない道を選んでほしい。
紙の本
標的になるリスク
2019/07/02 23:10
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たあまる - この投稿者のレビュー一覧を見る
内田樹の『街場の戦争論』を読みました。
いつものように、鋭い指摘で、こちらがぼんやりと考えていることに筋道をつけてくれる内田樹です。
2つ、特に大事なことを言っていて、ひとつめは憲法九条について。
「交戦権を放棄した」国に宣戦布告する国はありません。
あっても、国連加盟国の中でそれを支持する国はありません。
九条があるかぎり、日本に対して「こちらが先制攻撃をしなければ日本がわが国に侵略してくる蓋然性があった」という言いがかりをつけることのできる国はどこにもありません。
ふたつめは、その逆のパターンです。
日本が平和憲法を掲げ、軍を他国に出さないことが軍事的抑止力になっている(つまり平和憲法がわが国を守っている)と指摘して、しかし、こう続けます。
今後、集団的自衛権を発動して、日本がイスラーム圏でアメリカの軍事行動に帯同した場合、日本はイスラーム過激派のテロの標的になるリスクを抱え込むことになります。
つまり、内田センセイの見るところでは、安全を保障するための政策が危険を呼び込み、無防備でアブナイといわれている専守防衛の平和主義がいちばん安全だということですね。
紙の本
著者の挑発的な「あの戦争」と戦後論。
2018/07/18 19:52
0人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:たまがわ - この投稿者のレビュー一覧を見る
すごすぎる本だった。
全五章のうちの最初の二章は、戦前の日本(大日本帝国)と戦後の日本の
断絶などについて記されていて、その内容は、まるで「右」側の人が書いたとしても
違和感がないような言葉も出てきたりして、読者の心を打つような内容だった。
第一章から三章までと第五章は関連性があり、戦争、戦後、自民党の改憲案、
日米関係、インテリジェンスなどの話題で、第四章はやや異色で、「働くこと、学ぶこと」。
この本全体を通じて、著者は(おそらく)あえて挑発的な書き方を多くしていて、
そのせいもあり、衝撃度が高かった。
全体にわたって、大いに納得することばかりだった。
以下は、本書からの抜粋
『 僕たちが今いるのは、二つの戦争つまり「負けた先の戦争」と
「これから起こる次の戦争」にはさまれた戦争間期ではないか。
これが僕の偽らざる実感です。
今の時代の空気は「戦争間期」に固有のものではないのか。
その軽薄さも、その無力感の深さも、その無責任さも、その暴力性も、
いづれも二つの戦争の間に宙づりになった日本という枠組みの中に置いてみると、
なんとなく納得できるような気がする。』
『 戦争についてもっと知っておきたいと急に思うようになったのは、
それを忘れないためではなく、「次の戦争」が接近していることを肌に感じるからでしょう。』
『 ですから、僕たちはあらためて、あの戦争で日本人は何を失ったのかという
痛々しい問いを自分に向けなければならないと思います。』
『 ここに名前を挙げた何人かには問題意識に共通点があるように僕には思えます。
それは、誤解を怖れずに言えば、「もう存在しなくなった大日本帝国」と
いまここでの日本国の現実を架橋する手立てを見出さなければ、
日本人はたちゆかないという直感です。
「もう存在しない大日本帝国臣民」という仮説的な立場に立って、
そこから戦争と敗戦について語る人間がたとえわずかなりともいなければ、
戦前から戦後への「引き継ぎ」は完遂しないのではないかという文学的直感です。』
『「主権国家の国民であることの気分」がどういうものか、僕は知りません。
僕が明治生まれの父親についてたぶん最後まで共感できなかったのはそのことでした。
父たちの世代の人々はかつて一度「主権国家の国民」だったことがあります。
明治一五年生まれの父にとって、久しく日本は「戦って負けたことのない国」でした。
日本は大戦間期においては「世界の五大国」の一角を占めていました。
そのような国の国民であるときの「気分」というものを僕は知りません。想像もつかない。』
『それは、安全保障についても外交でもエネルギーでも食糧でも、
自国の政策については日本の政府が決定権を持っていたからです。
「破れて滅びる」という選択肢を含めて、日本人は自分の運命を決めることができた。
日本人は一九四五年まで自己決定できた。今はできない。
日本人はその断絶の深さをもう少し深刻に受け止めてもよいのではないか。』
『 日本は主権国家ではなく、アメリカの従属国です。
そして、二重の意味で従属的です。
一つは今述べたように、重要政策について自主的に決定できないから。
もう一つ、もっと重要なのは、従属国であるという事実それ自体を隠蔽しているからです。』
投稿元:
レビューを見る
安倍政権が復活してからの懸念に答えてもらったよう。
特に東京五輪招致の件は、決定当時のもやもやした気持ちの正体がわかってすっきり。
もっと知らないといけない。
投稿元:
レビューを見る
冒頭で書かれてあるとおり。今年1年くらい著者の
出版本の数は驚異的というか、少し出しすぎと思います。
そうなると書いてある内容は以前に読んだ内容
ばかりかと。確かに以前からの内容と同じ内容も多く
あるのですが。今回初めての内容もあり、逆に著者の意見がぶれていないという
感じがします。そのこともあって、やはり面白い。
最後のあとがきのところで、もしかしたら私が
ハマっている根幹というか、内田さんの一番
ベースの面白さをなしているような気がします。
『僕が訴えているのは、「想像力を広く深く使う」
ということでした。当面する問題に取り組むとき、
僕がよく採用するのは、「まったく違う文脈の中で
眺める」というやりかたです。』
『「非常用人材」「バカ枠」』
投稿元:
レビューを見る
14/10/26。すぐに読み始めた。いつもながら、やっぱ内田さんは、すごい。歴史のifからして、ぶっ飛び。しかもミッドウェイ海戦後に日本が降伏していたらというifが。
10/31読了。
投稿元:
レビューを見る
先の大戦で、日本は負けっぷりが半端ではなかったという下りがとても印象的です。
また、戦後殆どの日本人は、大日本帝国憲法における「臣民」という立場を引き受けたまま戦争について語ること、即ち自分の問題や責任として語ることをしなかった。誰も引き受けなかった。被害者としての立ち位置でしか、戦争を語っていないのです。昨今自己責任という言葉が流行っていますが、それとは全く重みの異なる自己責任を戦後の日本人は引き受けて来なかったのではないかと考えさせられました。
内田樹氏の著書は数多出ており、内容も重複する部分が多いのも事実です。
しかし、この著書は戦争論とあるように、我々が今まで聞いてきた戦争観と異なる切り口を提供してくれています。また、グイグイと引き込まれていくエネルギーをヒシヒシと感じました。
投稿元:
レビューを見る
カタストロフを経由し、政体が変わっても、支配的なイデオロギーが変わっても、それでも揺るがないものの上に立っていたい。そのような堅牢な地盤を探り当てるための知的なエクササイズとして、僕は「歴史に『もしも』を導入する」ということをご提案しているのです。(p.36)
緊急事態についての法整備をする場合に最優先で配慮すべきことは「緊急事態宣言が恒久化するせいで国民が受ける被害」が「緊急事態に対処できないせいで国民が受ける被害」よりも決して大きくならないようにするためにはどういう仕組みを作っておくか、ということなのです。(p.129)
憲法の主務は国のかたちを急には変えないということです。それに尽くされると言ってよい。民主制では選挙による政権交代の可能性がつねにあります。その場合に、政権与党が変わるごとに統治システムが大きく変わっては困る。制度には、社会の変化に即応して変えてよいところと、簡単には変えてはならないところがある。「国家の骨組み」の部分は勝手には変えてはならない。国家の惰性を担保すること、それが憲法の役割である。いくら操舵手が懸命に舵輪を回しても、船が簡単には航路を変えて急旋回できないようにする安定装置、それが憲法です。(p.132)
原理的なことを再び確認しますが、民主制も立憲主義も意思決定を遅らせるためのシステムです。政策決定を個人が下す場合と会議で決めるのでは所要時間が違います。それに憲法はもともと行政府の独創を阻害するための装置です。民主制も立憲主義も「ものごとを決めるのに時間をかけるための政治システム」です。だから、効率をめざす人々にとっては、どうしてこんな「無駄なもの」が存在するのか理解できない。(p.141)
念押しするまでもないことですが、国民国家の目的は「成長すること」ではありません。あらゆる手立てを尽くして生き延びることです。あらゆる手立てを尽くして国土を守り、国民を食わせることです。(p.162)
弟子の立場にあるときには、自分が稽古している技術について「自分がどれくらいできるか、わかっている」「どのレベルであるか、知っている」ということはうかつに口にしないほうがいい。自分が修行のどの段階にいるのか、自分の才能や実力について、客観的に語ろうとしないほうがいい。(p.186)
戦争というのはどちらが正しく、どちらが間違っているから始まるわけではなく、「どちらも正しい」から始まる。だから、戦時国際法は戦争行為そのものについては正否を論じないのです。(p.246)
「非常時対応」の能力というのは、システムが崩れるときに局所的に生き残っている「条理の通った場」を見つけ出す能力のことである。絵画的に表象すれば、宮殿が瓦解するときに、「こっちだ」と言ってそこだけ石柱や岩盤が崩れ落ちてこない一本道を走り抜けることができる才能のことです。(p.259)
どの論件についても、僕が訴えているのは、「想像力を広く深く使う」ということでした。当面する問題にn取り組むとき、僕がよく採用するのは、「まったく違う文脈の中で眺める」というやり方です。これまでそんなことばかりしてきたような気がします。(p.281)
投稿元:
レビューを見る
僕とミシマ社との付き合いは2008年の「謎の会社、世界を変える。~エニグモの挑戦」に遡る。当時の勤務先が表参道だったため、よく青山ブックセンターや山陽堂書店に通っていた。そこでよく平積みになっていたのがミシマ社というよくわからない出版社の本だった。今では書店の必須アイテムになった手書きPOPの走りだったかもしれない。
次いで新潮新書「日本辺境論」で内田氏の著作に出会い、読み進むうちに気がついたら合気道多田塾に入門するほどに傾倒してしまった。(ミシマ社代表の三島邦弘さんも多田塾生なのでおふたりとも僕の兄弟子というわけ)
そんなわけでミシマ社から出る内田先生の本はちょっと襟を正して読むのだけれど、これはいつもとちょっと雰囲気が違った。ミシマ社と内田先生に底通しているのは、真面目ななかにもどこか(いやかなり)楽観的なところがあって、世の中の問題を真っ向から見据えて取り上げながらも最後はなにか希望を抱かせてくれる、そんな空気ではないかと思う。しかし、現在の第二次安倍政権が向かっている先にはかなりきな臭く、悲惨なものを見ているようで、すこし筆致が重いように感じる。
日本が60年間忌避してきた「戦争」というものを、わざわざたぐり寄せようとしている人間が、少なからずいるという事実。彼らはもちろん自分自身が戦場に行って危険にさらされることも、自国が戦場になって自分や家族が殺されることも想定していないだろう。「自衛隊員のいくらかは死ぬかも知れないが、その損失を補ってあまりある利益、国益があれば良いだろう」と考えているはずだ。あるいは「戦争ができる能力を高めるだけで、まさか戦争にはならないだろう。万一そうなったら、自分と家族は安全な国に逃げることはできるだろう」か。
そうした人間が政治や経済を動かしている現状。そしてそんな政治家を選んでしまう(あるいは投票すらしない)国民。
そこへの諦観が、本書では少しずつ強まっているような気がする。
東日本大震災と原発事故。
あれほどの災害と事故があってなお、そこから何も学ぼうとしない日本人に、やや絶望的な気分になってしまうのは僕だけではないと思うけれど。
微力だけれど、ひとりひとりの意識が変わっていくことがただひとつの方法だと思う。そのために理想を掲げること。文芸や芸術にできることはそれしかないのかもしれない。
投稿元:
レビューを見る
【何故読みたい?】
日本の将来が不安だから
内田樹さんの本だから
視点を変えて世界を観たいから
このままじゃダメだと思うから
【ファーストインスピレーション】
ぐいぐいと引き込まれる内容。
今月の熟読本にする。
[編集中]
第一章 過去についての想像力
投稿元:
レビューを見る
この著者の著作をずっと追い続けていたが、最近は本を乱発しすぎて内容も繰り返しがが多くなり、手に取るのを避けていた。しかし、昨今の絶望的とも思える日本の政治・経済状況の中で、内田センセイが「戦争論」と銘打った書物を出版するというのだから、読まないわけにはいかない。案の定、まえがきに、「どこかで読んだ話」をどんどん削っていったら、「戦争の話」と「危機的状況を生き延びる話」だけが残ったとある。
著者は、「過去についての想像力」をはたらかせることから始める。もしも、1942年のミッドウェー海戦の後に日本が講話を求めていたら・・・と。甚大な戦死者を出し、本土を焼かれ、沖縄を犠牲にし、原爆を2発も落とされ、壊滅的な敗戦を喫し、あげくの果ては、敗戦の総括も自分では出来ず、擬制ともいえる「国体」だけが残った日本。日本が、主体性を失うことのない普通の敗戦国になれなかったのは、戦前と戦後を架橋する「戦争主体」が不在であったからだと指摘している。第二次世界大戦を葬送する「喪主」が日本にはいなかった。その結果、日本は、アメリカの指示を待つしかない従属国のまま現在に至っている。集団的自衛権、TPP、米軍飛行場の辺野古移設・・・。戦後(昭和)は現在も続いている。
軽薄さや無力感に満ちた日本の空気に包まれていると、不安と焦りが募るばかりだ。著者は、こうした事態への対応策をはっきり示しているわけではないが、武道家らしく、身体技法や非常時対応能力を身に付けて「生き延びるための処方箋」だけは提示してくれている。
読後、爽快な気分にはなれないが、著者の言うように、暗くて悲観的な未来予測が外れることを願うしかないのだろうか。
73年前に日本が第二次世界大戦を始めた日、昭和89年12月8日に。
投稿元:
レビューを見る
街場の戦争論が書かれたのは、昨年の総選挙前、実際にそれに合わせてミシマ社のHPはじめこの著書のまえがきが公開され、徐々に外堀りを埋めながら、少しずつ政治的に戦争へ加担していく様子を危惧しているのが分かる。
経済政策の圧倒的な強さは、すごい。雇用が回復し、企業の業績が伸び、株価が上がったことで得た信頼は、多少の反知性を全て見逃してくれる。
そうした経済的なものから一歩離れたところにいる知識人たちは、経済政策だけが有効に作用しているあいだに、次々と自由が奪われていくさまに警鐘をならす。
2015年の夏、そうした知識人の警鐘がついに表面化しつつある。国民の多くが疑問を抱えたまま、既定路線として決められた政治的な行程だけが進んでいく。
集団的自衛権、武器輸出、防衛費の増大、非正規労働者の増加、原発再稼働、外国人労働者の受け入れ、貧困格差の拡大。
全ての符号がいくストーリーは内田氏の指摘する通りだと思われる。軍需産業による経済発展はどれほどの効果をもたらすのか、一方で人を殺すための武器を作る人は何を思うのか。事故を起こしてもまだ共依存の関係にある原発で、過酷な労働を行う下請けの労働者は、声を上げることもできず、また仕事を続けるのか。その道しか本当にないのだろうか。
搾取される側の意識、権利といったものの議論のないままに、ただただ一方的にいろいろなものが決められていくことの気持ち悪さを、本著は正しく丁寧に説明していく。
少なくとも、学者や知識人だけは、サイレントマジョリティになることなく、声を上げてほしい。
投稿元:
レビューを見る
初めて読んだ内田樹の街場シリーズ。
新書大賞を受賞した『日本辺境論』は、
日本という国の地理的位置づけ、
武道を通して得た実践的な修業の本質など
目から鱗が多かった。
街場シリーズの「戦場」を手にとったのは
今回の衆議院選挙の隠しテーマが
集団的自衛権と憲法改正と感じたから。
幸い、マスコミの世論調査で、「自民単独3分の2」が
効いたのか、一気にという可能性は薄れた。
しかし、アベノミクスの光に潜む影のようなものを
読み解くのに、おおいに参考になった。
「強い現実」「弱い現実」は
歴史を将来に向けた視座でとらえるときに
おおいに参考になる。
そして最終章の「インテリジェンス」は
明日を生き延びるための術としての
全体知について。
これは、東日本大震災以降
いかに生き延びるかを問い続けている私にとって
まさに納得できたサジェスチョンでもあった。
混沌の世を、生き抜く上で、常に手元に置きたい一冊。
投稿元:
レビューを見る
内田さん、めちゃくちゃ頭いいなぁ、とあらためて思う。
戦争を経てもう七〇年。日本が根っこから変わることができないのは、敗戦という事実にしっかりと向き合うことができなかったからである。その場その場をだましだましやりながらも、奥底でしっかりとアメリカに従属している日本、なんとも窮屈やなぁ。
いつもは軽快な文章を書く内田さんやけど、本書の重苦しさはいつもとちょっとちがう。でもあとがきで、やわらかい内田さんが戻ってきてほほえましかった。