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11月の初めに、本屋で、おっ、姫野カオルコの新しい文庫と思って、ぴらっと見たら、もとは『コルセット』で、それを加筆修正し、タイトルも変更したものだということだった。その日は、まだ待ち受けている仕事があったため、(あとでー)と思って棚に返して帰り、後日、買ってきて読む。
子供の頃から恋愛ものがどうも嫌いだったという姫野カオルコが、40代後半に、「試みを課そう」と思って書き始めた一人称小説の恋愛もの。
『お金のある人の恋と腐乱』というタイトルだけあって、"お金のある人"が出てくる。そこがちょっと『本格小説』風でもあった。表紙のカバー裏にも引かれているが「恋愛で結びつくなどという行動は、働かないと食べてゆけない人がすること」(p.192)という世界の"恋愛もの"である。
4編入ってる話は、どれも「藤沢さん」と「わたし」の話だが、話ごとに、「藤沢さん」は別人だし、「わたし」も別人… で、ちょっとアタマが混乱しそうになる。が、この藤沢さんが、あの藤沢さん…などと整合性を求めなくても、話は楽しめる。
▼男のラベルにひかれる女は清らかなのだろう。淫蕩な女にとってラベルは無価値だ。わたしは淫蕩なのだろう。自分の舌がうまいとかんじるか否か、自分のからだが気持ちいいとかんじるか否か。基準はそれしかない。他人の評価はなんの意味もない。(p.52)
ラベル、それは例えば「学歴や肩書や年齢や収入」といったもの、あるいは「身長や顔だち」もそれに含まれるのかもしれない。そのラベルが、いかほどのものを保証するのか、と第一話「反行カノン」の「わたし」は考える。文庫の帯に「淫蕩に男の学歴は無価値だ」とあるのは、このことなのだろう。
第二話「フレンチ・カンカン」の「わたし」は、夫の性癖を知ったときのことをこう記す。
▼夫Qが同性にしか欲望を抱けないと知ったとき、キリスト教徒ではないわたしは、あなたは酒を嗜まれるが自分は下戸であると言われたようなもので、とくにおどろかなかった。とくに落胆もしなかった。(p.105)
その夫の新しい恋人、表向きは子どもたちの家庭教師として住まわせることになった藤沢先生が、「わたし」にこう言うところが、印象的だった。
▼「栞さん、ぼくはQのこどもは産めないんだ。年月がたったあとに正しかったことより、いままっしぐらにそうしたいことが、ぼくのいまには正しいことなんだ。いまだいじなことやすてきなことが、あとでだいじじゃなくてすてきじゃなくなっても、そのときそうだったことを残しておくのは必要なことなんだよ」(p.126)
「いままっしぐらにそうしたいことが、ぼくのいまには正しいことなんだ」と言う藤沢先生に、恋人の妻にそう言える藤沢先生に、若さを感じた。
若さについて、第三話「三幕アリア」では、藤沢さんが、年若い「わたし」にこう言う。
▼「若い娘というのは、自分が若いことがマイナスになると信じている生き物のことで、自分は若いと主張しない。主張するとそこでもう若い娘の価値はなくなってしまう。だからいまの世の中のほとんどの若い娘は価値がないのに、それでも自分に��欲を抱く男をみくびる。その傲慢に男は性欲を抱くんだと思う。すくなくともぼくは」(pp.169-170)
どの話に出てくる性愛も、なんだか遊戯のようで、サラサラした感じで、こういう感じで書けるのは姫野だからこそという気がした。
姫野は、巻末の「リニュアル文庫版あとがき」で、書くにあたり「上流階級」の方にそっと取材したこと、その方たちは、「おしなべて外見が地味」で、「時には妙に貧乏くさかったり、妙にあばずれていたり」(p.250)という風だったことを記している。
そして、この「ものすごく裕福な、お金に困ったことのない人たち」の話を書いていた頃は、「四人の女性にひとりずつインタビューをし、彼女たちが自由に語るのをひたすら聞いていったような感覚」(pp.251-252)だったこと、「聞いているあいだ、旅行しているような気分」(p.252)だったことを振り返っている。自分と異質な人間の述懐を「へえ、なるほど」と感心して聞けるようになったのが、年をとることのよい面かもしれないとも。
私も、そういう年をとってきたよさなのか、「上流階級」の暮らし方というか、家庭をなすにしても「いまあるものを減らさないため」のような結びつきがあるのだなあと思ったり、そんな躾もあるのかと思ったり(たとえば「小説本を読むのは躾として低俗とされていたから」というところや、一通りの作法について鋳型に流し込むような厳しい躾をうけたというあたり)、こんな世界もあるところにはあるんやなーと、ふうううんと相槌を打つような気持ちで読んだ。少なくとも、私が育ってきた世界とはぜんぜん違うんやなと思った。
このたびのリニュアル文庫化で小説を改題したのは、編集者著者計4人で考えたシックなタイトルのつもりだった『コルセット』が、シックに過ぎて読者にイメージを喚起させられなかったからだという(「コルセット」とは、ネット検索すると、腰痛や整形外科に関連する項目ばかりずらずら出てくるような言葉なのであったと)。
たしかに、「お金のある人の恋と腐乱」のほうが、ふさわしいと感じる。
(11/13了)
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四編の輪環形式連作小説。
「反行カノン」
「私」が藤沢さんに抱く恋愛感情がハンパない。
抑えられないほどの熱情がわき上がる感覚は貴重だと思う。
「フレンチ・カンカン」
「私」は、僕が苦手なタイプ。具体的に「ここが嫌い」と書けるのだけれど、言わぬが花と思い、詳細を記さず。こういう人って(庶民にも)ときどき居る。
「何処が嫌なタイプなの?」と疑問に思う人とも、僕は親しくなれない。
藤沢さんのタイプとは、親しくなったことが無い。
「三幕アリア」
まともな人である、と思う。藤沢さんも「私」も。
実際にこのオケージョンになった場合、僕は藤沢さんのようには振る舞えない。
「輪舞曲」
官能的だった。一生に一度、こんな経験をすると、それだけで生きていけるような気がする。
南の島のバカンスに行って、帰ってきたような気分になった。
旅行に行きたくなったのではない。
具体的に自分でこのような旅行を計画したら、「これだけ自由に使える金があるなら」と、別のことに使うと思う。そんなふうに思う自分を、つくづく小市民だと思う。
旅情は、この小説を一冊読んだことで満たされました。
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【装幀・デザイン】
アルビレオ ©Bridgeman Images/amanaimages
【あらすじ】
恋愛で結びつくなどという結婚は、働かないと食べてゆけない人がすること--。上流階級でしか暮らせない男女のめぐり逢いを、醒めた文体で描いた、四篇からなるロンド小説。欲望を経た純愛、秘かな被虐性愛、静かに熱を帯びる片恋、南島での邪淫。満ち足りた暮らしの満たされない孤独を、四組の「わたし」と「藤沢さん」が織りなす。異才が贈る、正しい背徳と倦怠。
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ケアンズにて。
退廃的で、けだるい。
姫野カオルコ。好きだったなー。そして、今もなんだかんだ好きだな、と思う。
気だるい。
悲しい。
生きることの虚しさと、せつなさと、
諦めているのに、諦めているようで、それでも求めている感じの、哀しさ。
恥ずかしながら、好きです。姫野カオルコ。
2015.05.04
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「恋愛なるものを俯瞰するような」ものでなければ関心は向かない、恋の顛末を切々と追うものは苦手、というようなことが筆者あとがきにあって、姫野カヲルコの小説が、多くの女性作家と異なる理由がわかった。女性の感情や欲望をここまで描いているのに、自分にうっとりしない感じ…そこが心地よい。
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姫野さんの「整形美女」がそこそこ面白かったので二冊目。
普段はタイトルと表紙絵、裏表紙にある作品内容で決めるけれど、今回はタイトルと表紙絵で決定。
いいね、この果実が熟れて、朽ちかけている感じ。
美味しそうに艶やかで甘い香りを誘うように放ちながら、中では休むことなく腐敗をつづけるという、見えないところは悪臭に満ち腐り切っているというところ。
こういう上辺と中身が大違いなひと、大好き。人間はこうでなくちゃね。
四篇の短編の書き出しと書き終わりがバトンを渡すように繋がった作品。
全ての物語に「藤沢さん」が出てくるが、全て別の「藤沢さん」。
「藤沢さん」以外の人物は主人公に当たる「わたし」、それ以外は⚪︎⚪︎さんや××さんと名前さえない。
「わたし」もそれぞれ別の「わたし」。
四篇とも「わたし」の恋を描いている。
上流階級とお金持ちの皆さんの物語。
わたし自身は上流階級やお金持ちと呼ばれる家庭では育っていないが、わたしの周囲には多かった。
このひとの家の玄関に我が家の居間がスッポリ入っちゃうとか、お父さんがなんとかの何代目とか、子供心に住むところが違うということがあるのだなと感じた。
働かなくても生きていけるという環境で育つと、様々なことの考え方や価値観が庶民とは違ってくる。そういったことに若い頃は羨望と僻みがあり、興味ないもん関係ないもんと思っていたけれど、年を取るのはいいこともあって、知らない世界はどんなんかしらと素直な好奇心が持てるようになった。
感じ方などによくわからないと感じるところもあったり、意外に自分にも共通するところもあったりで楽しめた。
文章の中に、日頃見かけない言葉が多くあり、辞書片手に読むということも面白かった。
まだまだ知らない言葉があって勉強になる。
上流階級やお金持ちばかり出てくるので、鼻について仕方ないひともいるだろうから、好みが別れる作品だと思う。
その中では庶民である「わたし」の出てくる『三幕アリア』は癒される。
お金や家柄といったものが既に手元にあるひとは、それを手にいれようと頑張る必要がない。
それを幸せと捉えるか不幸と捉えるかはそれぞれではある。
ただ、庶民であるわたしとしては、無いものを手にいれようと頑張ってこそ生きるということじゃないかと思うことにする。
庶民バンザイ。
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テーマは理解できるのですが、姫野カオルコさんの作品の中ではいまいちだと思いました。
なんだかつながりがあるようでないので(ないのかな)、とてもわかりにくかったです。私だけでしょうか?
私が「お金のある人」や「上流階級」ではないからわからなかったのかなー・・。共感できる部分もあんまりなかったし。
この著者の文章なので、読み進めることはできましたが、他の作品ほどの驚きや感銘はまったくなかったです。
姫野さん!得意分野で書いて下さい!是非お願いします!
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したたりそうに熟れて美しい表紙や題名が想像をかきたてる。連作短編集。上流の人ってこんな世界で生きてるんだろうか。お金以外のところに不自由な印象を受けた。
・反行カノン・・・冷静な田鶴子さんが可愛い男子高校生の藤沢さんに恋する話。田鶴子さんは高校生がハマるほどステキな女性なんだろうなあと想像。
・フレンチ・カンカン・・・田鶴子さんの夫の妹、栞さんと藤沢先生。上流に暮らす栞さんの心が空洞のように感じる。
・三幕アリア・・・お手伝いさんの娘、牧子ちゃんと偶然食事を一緒にした藤沢さん。大金持ちでダンディーで最後までステキだった。牧子ちゃんの幼くて一生懸命な思いがせつなかった。
・輪舞・・・田鶴子さんの遠縁でお花の家元の長女、澪さんが色々疲れてバリ島へ。2話に出てくるPさんと、インドネシア人と日本人のハーフの藤沢くんとのあれこれ。何て大人なお付き合い。最後に澪さんは家元を継いで3話の藤沢さんとご結婚!澪さんお幸せに。
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女の人の半分は―――やはり半分だと思うのだけれど―――、自分が女であるというだけで、自分の肉体を、男に「あげる」と感覚できるように成長する。彼女の美醜とは無関係に。あとの半分の女は、そうは感覚しない。感覚できない。
そういうことになっているってことぜんぶに元気をなくしてしまう、という言い方は、わたしが恋愛だとかセックスだとかいうものに対して根本的に抱いている隔たりのかんじだった。
性欲を抱かれる対象であると知らされるのは、なんど経験しても気持ちがいい。
「…たいていの男は自分より低いところにいる女に欲情するんだ」
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独特の回りくどい言い方が上流階級ならではの空気を生み出していたと思います。
高潔なようで乱れている。知らない世界を除いた気分です。