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キレのいいネタを聞いたり絶妙な偶然の重なりが生んだ間抜けな失敗を目の当たりにしたとき、私たちの胸の内に、愉快な情動が沸き起こってくる。このおかしみ、ユーモアの情動は、知識・信念に不一致を見出したときに生じる。この「不一致」とその条件は、きわめて限定されている[A]。不一致の発見で生じるおかしみ・ユーモアの情動は、一種の報酬だ。エネルギーたっぷりの果糖がもたらす甘さの快感が果糖を含む食べ物を探し求める動機付けになるのと同じように、ユーモアの情動は、知識・信念のバグをつきとめる作業を促す動機付けになっている。これが、進化におけるユーモア情動の適応的な働きだ[B]。人の知性は、こうしたさまざまな「認知的情動(epistemic emotions)」によって制御・動機付けを受けて機能している[C]。
[A] ユーモアの情動が生じる条件:
暗黙のうちに心に入り込んで事実だと受け入れられていた情報が活性化されて実はマチガイだったと判明したとき、おかしみの情動が生じる
[B]
ユーモアの情動の機能:
ユーモア情動は、知識・信念のエラーやバグをつきとめるという厄介仕事に報酬を与えて、これを動機付けている。これは、ヒトのような高次認知をそなえた生物にとって必要不可欠な機能だ。私たちがジョークやコントを愛好しているのは、こうした基本的な機能の拡張・転用。
[C]
ヒトの知性の設計仕様を構想する:
ヒトの知性は、情動・報酬を深く組み込んだ設計になっている。知性にとって、情動は「不都合」な邪魔者どころか、それ抜きに安定して機能し得ない必須の要因となっている
おかしみの愉しみは、データ整合性の確認という具体的な課題をうまくやったときの情動的報酬だ。これは、ぼくらを動機付けて、この先もこの特定の認知活動を続けさせるように(進化によって)設計されている。したがって、おかしみは発見の快感に関連があり、これにともなって生じることがよくある
ユーモアは、メンタルスペース内でなされた失敗・間違いを指し示す。また、ユーモアはそうした間違いとあわせてその改善策をもたらす。ただし、そうした改善策はたんによくある副次的効果でしかない。間違いの同定がユーモアの中核部分だ
ぼくらがユーモアを強く好んでいるのは、ユーモアがくれる情動的報酬の設計によって、メンタルスペースにこっそり入り込んだ間違いを検索する習慣を育てるようにできているからだ、メンタルスペース内にバグを作り出し、一種の心のマスターベーションでバグ取りを愉しむことができる。このマスターベーションの報酬は、オーガズムじゃなくておかしみだ
ユーモア理論
・生物学的理論
・遊戯理論
・解放理論
・優位理論
・不一致解決理論
・驚き理論
不一致は心の中の表象(概念)と現実の対象との間になくてはならない(ショーペンハウエル)
スクリプトどうしの対立こそが、ジョークを可笑しくしている。なぜなら、両方を同時に呼び起こすことができないから(不一致)
コメディの登場人物は、「ほにゃらら」マシーンな傾向がある。クルーゾー警部はかっこつけマシーンだし、オースティン・パワーズはセックス・マシーン(マイク・マイヤーズ)。これは実に見事にベルクソンによるユーモア理論を例証している。こうした登場人物たちを設定した創作者たちは、登場人物の性格で滑稽味の核心部分を選び出し、その部分をマシーンに仕立てあげている。つまり、その部分は融通が効かずその人物の見せる反応を主に決定する要因に仕立てている。すると、その特徴によって登場人物が非適応的なかたちでふるまう様子にユーモアが見て取れるようになる。その場の状況で普通と違う(あるいは予想外の)行動を繰り出すんだけど、そうした行動はそれまでのその登場人物の振る舞いぶりの素描からすればいかにも当然にやりそうなことだったりもする。
ベルクソンの理論は、デフォルメや物理的な状況(バナナの皮で人が滑るさま)や「機械的な」行動などから生じるコメディをうまく予測していくれる
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タイトルの内容に進化心理学、認知科学の視点から迫る本。共著者の一人のダニエル・デネットがTEDで言っていたので手に取った。
一言で言えば「ユーモア(おかしみ)は頭を使って推論エラーを見つけることに対する報酬である」というアイデアに、多角的な説明と検討を加えている本だと感じた。
特に、人間はどのような目的から「ユーモア」を獲得したのかに関する進化的・目的論的な説明はおもしろい。
本文だけで500頁弱と情報量が多いが、自分としては、前半200ページと終章を読めばそれで十分に感じた。
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進化論と認知科学をベースにした重厚な理論の集大成。進化論が加味されていることが面白かった。挟み込まれたジョークも面白く。
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私のようなものにいただきましたありがとうございますありがとうございます。売れるといいですな。
いちおう最後まで読んだけど、読めたといえるかどうか。何回も読む価値があるのはまちがいがない。おそらくこの訳本が数年後に国内の哲学系の雰囲気を変えることになるのだろうと思う。