投稿元:
レビューを見る
自分には短歌の鑑賞眼がないなあとよく思う(他のものについてならあるのか?という痛い問いは置いとくとして)。何故というに、私がいいなと思うのは、どう見てもセンチメンタルな歌ばっかりだからだ。散文なんかだと、感傷的な気分がダダ漏れになっているものは忌み嫌っているくせに、短歌だとすぐにぐっとくる。泣いちゃったりする。そもそも短歌というのが、そういう湿った叙情によく合う性質を持っているのだろうが、それにしても、我ながらこの「女学生趣味」はちょっとどうかと思う。
本書の「はじめに」には、日々の暮らしの中で大切なことを大切な人に日常の言葉で伝えるのは絶望的に難しいが、歌でなら伝えられると書かれている。「歌を表現の手段として持つということは、そのようなどうにも伝えにくい、心のもっとも深いところに発する感情を、定型と文語という基本の枠組みに乗せて、表現させてくれるものなのである」と。
そうであるならば、やっぱり私はつくづく、ロマンティックでセンチメンタルなものが好きなんだろうなあ。この歳になってそうなんだから、こりゃもう仕方がなかろう。
ここでは「近代秀歌」以降の百人の歌人が紹介されている。正直言って、解説を読んで「ふーん」で終わってしまう歌も結構あったのだが(不勉強で面目ない)、女性歌人を中心に心ひかれるものも多かった。馬場あき子さん、栗木京子さん、中条ふみこさん、道浦母都子さん、そして、美智子皇后。やはり私は、どうしてもその実人生と重ね合わせること抜きに歌を読むことはできない。三十一文字の向こうに垣間見える「その人のありよう」が胸を打つ。著者は、過剰に内容や背景に寄りかかった「<意味読み>をしない」と読者を戒められているが、うーん、それはとても難しい。
心に残った歌をいくつか。
「退屈をかくも素直に愛しゐし日々は還らず さよなら京都」 栗木京子
「てのひらに君のせましし桑の実のその一粒に重みのありて」 美智子皇后
「かきくらし雪ふりしきり降りしづみ我は眞實を生きたかりけり」 高安国世
「階段を二段跳びして上がりゆく待ち合わせのなき北大路駅」 梅内美華子
「死の側より照明(てら)せばことにかがやきてひたくれなゐの生ならずやも」 齋藤 史
「一分ときめてぬか俯す黙禱の「終わり」といへばみな終わるなり」 竹山 広
「夜半さめて見れば夜半さえしらじらと桜散りおりとどまらざらん」 馬場あき子
投稿元:
レビューを見る
少し前からまじめに作歌を再開した私だが、その前はアララギ派ばかり、言ってみれば古い短歌ばっかりに接していた。
作歌を再開して、今の短歌を読みだして、良い作品が豊富にあることに驚いた。短歌詠みなんてもっと小さな集団になってしまっていると思い込んでいたのだ。
短歌とは変容しつつも、生きる人の最も近くにあって、仕事、家事、事件、恋愛、病そして死、最も直接的に訴えることができる文芸なのだとよくわかった。
投稿元:
レビューを見る
近代秀歌と違い、本書は一人一首、全部で百首紹介されている。昭和初期~三十年代頃生まれの歌人が多い。31文字に閉じ込められた感情はシンプルで強く、共感できる歌が多かった。感情の土台は今も昔も変わらず、これからも変わらないんだろうと思う。
投稿元:
レビューを見る
永井陽子女史の「父を見送り母を見送りこの世にはだあれもゐないながき夏至の日」も河野裕子女史の「手をのべてあなたとあなたに触れたきに息が足りないこの世の息が」も美しくとても悲しい歌です。思わず涙しました。そして、著者永田和宏氏の『あとがき』の日付八月一二日は妻の河野裕子女史の亡くなった日であります。永田氏の妻と歌に対する愛情がひしひしと伝わってきました。
投稿元:
レビューを見る
現代秀歌だから当然評価が定まっていなくて、でも著名な歌人は一通り入っていて、まあ、重宝だが、近代秀歌のような取換え難さはない。そこが読みやすさでもしんどさでもあるが
投稿元:
レビューを見る
近代秀歌の続編.
永田さんの解説は前の本にも増して素晴らしい.
「第一章 恋・愛 第二章 青春 第三章 新しい表現を求めて」と普段の私から縁遠い分野の歌が同時代性をもって強く心に残る.
だが,それ以降の章では,短歌の現代的な広がりが解説を通して感じられるものの,共感の度合いは正直なところ強くなく,印象に残る歌はあまり多くなかった.ここらが私の現代性の限界.
最後の「おわりに」は痛切.
投稿元:
レビューを見る
歌うは「訴う」に通じる。
和歌に親しみの無い自分は、よくわからないまま読み進めた。それでも、その背景を知ったり、解説を聞くとわかった気になり、感動も覚えた。
和歌アレルギーを廃し、これからはしっかりと目にとめていこう。
投稿元:
レビューを見る
おいとまをいただきますと戸をしめて出てゆくやうにはゆかぬなり生は 斎藤史
秋分の日の電車にて床にさす光もともに運ばれて行く 佐藤佐太郎
夕光のなかにまぶしく花みちてしだれ桜は輝を垂る 〃
岩国の一膳飯屋の扇風機まわりておるかわれは行かぬを 岡部桂一郎
ひじやうなる白痴の我は自轉車屋にかうもり傘を修繕にやる 前川佐美雄
この向きにて 初におかれしみどり兒の日もかくのごと子は物言はざりし 五島美代子
たちまちに涙あふれて夜の市の玩具売場を脱れ来にけり 木俣修
p231 「この世に何を失はうともこれだけはと抱きしめてゐた珠は、一瞬にしてわが掌の中に砕け去つた。どんな苦悩に逢はうとも、この悲しみにだけはあひたくないと、念念の間に祈りおそれてゐたことに、つひに私は直面させられ、しかも、この不幸については、誰に訴へ歎くすべもない自責に、さいなまれつづけてゐる」(五島美代子『母の歌集』あとがき)
投稿元:
レビューを見る
現代の歌人たちが身を削るようにして生み出した作品を残していきたい、という思いを込めた本である。この本によって多くの魅力的な短歌と歌人に出会うことができた。そして、感動的なのは「おわりに」で書かれた著者・永田和宏と妻・河野裕子の物語である。歌はこれほどに思いを伝えることができるのだ。
投稿元:
レビューを見る
名著だ。今まで現代短歌は難解なものだと思っていたが、この本を読むとこんがらがっていた毛糸がするすると解けるようにその解釈も分かるし、その良さもびんびんと分かるのだ。現代の様々なことにどう短歌が関わって来るのかということもよく分かる。著者の解説は上手い!
「現代の共有財産として遺された歌の数々にふれてほしい」「日常会話の端々で、あるいはある場所や風景に出会った折に、私たちが受け継いできた歌が、ふと人々の意識と唇の端にのぼる」-こういう気持ちで著者はこの本を書いたそうだ。そう、事象に対する新しい見方、感じ方を示してくれるのが現代短歌なのだ。100人の歌人が紹介されている。
投稿元:
レビューを見る
『近代秀歌』の姉妹篇で昭和20年から現在までを扱う。
自分が生きている時代だからというのもあるのだけれど、
近代秀歌に比べると時代も価値観も多種多様に感じる。
改めて短歌というものの懐の広さを感じた。
そして最後の河野裕子さんの話は泣けた。
投稿元:
レビューを見る
「現代」であるが読めない(漢字,どこで切るのか,等)。情けなさを味わえる世界である。一方で,自分の心情を三十一文字に表せる技能への憧れる。現代だけに戦争が大きな位置づけにある。もちろん災害も。生老病死,愛別離苦,怨憎会苦,求不得苦,五蘊盛苦,歌には四苦八苦が読み込まれることが多いと思うけど,個人的には自然を詠む句が好きだ。まぁその自然の表現に詠み手の心が表れてくるのが面白い。自然を読んでいるものなら何でもいいという訳にはならないから。
投稿元:
レビューを見る
自分でも言うが、同世代のアンソロジーをつくるのは難しいのではないか。『近代秀歌』は評価が定まりつつあるなかからえらんだわけだしその方針に従うべきでは。本著は、永田和宏の好みを出ない。永田の選は時代の濾過を経て残るか決まる訳だが、百人一首形式における定家の選は定家あってのものである。古今・新古今においても、寄り集まってえらんだわけだし、集合知というのは、時代の変りに人数で篩うという意味があるのではないかと思うわけだ。
選の方針にしても『近代秀歌』にならって、人口に膾炙した歌をえらぶべきではないか。例えば、俵万智なら「サラダ記念日」の歌をえらぶとか。
個人的な好みとして、現代短歌はわかりにくく好き出ないと思った。相聞・挽歌・青春を除けば、端正な近代短歌のが好みである。そう言う意味で佐藤佐太郎などはよい。
ここから各人好きな方面に手を伸ばすと言う意味での入口としては一定の価値がある。
投稿元:
レビューを見る
私には難しいかなと思って読み進めましたが、私にもこの本が大変な名著であることはわかりました。
姉妹編の『近代秀歌』も読んでみたいと思いました。
私も今、自分の健康面をしみじみ考えていたので、第10章の「病と死」、著者の永田和宏さんの奥様の河野裕子さんのことを綴られた「おわりに」が心に響きました。
<一日が過ぎれば一日減っていくきみとの時間 もうすぐ夏至だ> 永田和宏
この歌を永田さんは奥様の前で発表すべきか迷ったそうですが、発表されたそうです。
あとは、作歌する時の心構え(ヒント)として
第3章「新しい表現を求めて」
当たり前のことを当たり前に詠む。
<茂吉像は眼鏡も青銅(ブロンズ)こめかみに溶接されて日溜りのなか> 吉川宏志
<次々に走り過ぎ行く自動車の運転する人みな前を向く> 奥村晃作
よく考えてみれば、ただ当たり前のことを当たり前に詠んでいるだけなのですね。
第5章「日常」より
<大根を探しにゆけば大根は夜の電柱にたてかけてあり> 花山多佳子
歌ではなにか深遠な思いや深い感動を詠まなければならないと思っている人々からは顰蹙を買いそうな歌である。なんてつまらないことを歌にしているのだと叱られそうでもある。しかし、こういうおもしろい歌を許すのも現代短歌である。現実の生活のなかにはこんな滑稽なシーンは数えきれないほどある。(中略)
そんな笑いがあるからこそ続いている現実の世界なのかもしれないのだ。そのようなことに少しでも思いが向かうとするならば、この一首の存在価値はとても大きい。
私は、この本の自分の作歌に役立ちそうなところだけ抜き書きしましたが、この本の内容はもっと深いところにあります。
著者の永田和宏さんはこの本と姉妹編の『近代秀歌』を日本人の常識として読んで欲しいとおっしゃられています。私はこの本は随分前から積んでいましたが(2021年からです)、短歌を始めたので読みました。日本人の常識とされるものがやっと今読むことができて非常によかったと思います。
投稿元:
レビューを見る
なべてものの生まるるときのなまぐささに月はのぼりくる麦畑のうへ
(真鍋美恵子)
前衛短歌運動を端緒とし、「今後100年読まれ続けて欲しい」現代短歌100首以上が、テーマごとに紹介されています。1人の歌人の紹介に割かれているページは見開き1ページほどなので、さくさく読めますしどこからでも読めます。テンポがよいです。
日常の中でふと短歌を思い浮かべる瞬間。「そういえばこんな歌を詠んだ人がいたっけなぁ」──その瞬間ほど、歌人にとって幸せな瞬間はない、と永田さんは述べます。とても共感しましたし、まさしく短歌という表現の素敵な要素が凝縮されたような1冊でした。1回読んだだけで軽々しく理解した気になってはいけない。本書は何度も何度も読むべきですし、その価値があります。