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今年(2016)のGW頃に、この本と似たようなタイトルの文庫本を読んでいますが、少しタイトルも異なるし、竹村氏の歴史観(地形・気候に左右される)が好きなので、本屋さんの店頭で見つけて手に取りました。
もともと地理が好きで、理系に進みましたが、社会の選択科目は勿論、地理です。社会人になって、暗記が不要な「大人の歴史」が学べるようになって、歴史も急に好きになりました。
歴史上の事件が起きた時の、地形とその時の気候がとても気になりますね。特に、地形は現在では、埋め立てられたりすることも多く、現在に私達が地図帳で確認できる地形とは異なることが多い事に、竹村氏の本を通して気づかされました。
それを踏まえて歴史を振り返ってみると、さらに面白味が増してきます。その様な見方を教えてくれた竹村氏には感謝するとともに、これからの著作にも期待したいです。
以下は気になったポイントです。
・人々の暮らしの積み重ねが歴史となるのだが、その日々の暮らしが地形により制約を受ける以上、歴史もまた、地形抜きに考えることはできない。(p5)
・ピラミッドは、洪水のたびに周辺に土砂が堆積して、いつしかピラミッドの列が堤防へと変化した。小型ピラミッドに様々な形状があること、西岸にのみに存在すること、多くが土砂に埋まっていることが、これで説明できる(p24)
・日本の国土からすれば、7000万人くらいが適正人口とする学者もいる。(p30)
・小牧山がある濃尾平野は、古代に東海湖と呼ばれた巨大湖があったところに土砂が堆積されて形成された低地である。その中央に位置する小牧山は、周辺を見下ろす独立丘陵である(p35)
・長浜城(羽柴秀吉)、坂本城(明智光秀)、大溝城(織田信澄)はいずれも平城であり、交通の要衝にあり、城内に港を擁していた。信長勢力が完全に琵琶湖の制海権を手中にしていた(p47)
・今川義元の本拠である、駿府は東の都といえるほど繁栄を謳歌し、経済的・文化的にも一流の都市に成長していた。駿府とは、駿河の国府のこと(p61)
・政策提案は駿府の家康が行い、江戸の秀忠と幕閣はその実行をするという立場であった(p72)
・家康は、今川時代に駿府館の詰め城として使われていた賎機山城と、駿府の東約8キロにある久能山城を整備している。(p74)
・家康が駿府の地を選んだのは、その地形による防御力を認識したから、天下人の拠点にふさわしい要塞都市であった(p77)
・海面が今より5メートルも高かった縄文時代には関東の沿岸部の多くは海の下にあった(p89)
・家康が独立する前、松平家の勢力はまだ弱く、川筋で優位を保っていたのは吉良家であった。後に吉良家も徳川家に臣従する立場となったが、家康は吉良家を名門として重んじ「高家」という制度を作って、その筆頭に取り立てた。高家は朝廷と幕府の仲介役を受け持ち、大名や旗本に礼節を教えて幕府の権威を高める役目をした(p105)
・神田の高台を削り、日比谷入り江を埋め立てて城下町を造った。江戸湾に流れ込んでいた利根川を東の銚子へ流れ込むようにした。これで江戸を洪水から守り、関東の湿地帯を乾燥させて水田化が実現した(p112)
・溜池は明治維新後も水を提供し続けたが、周辺環境の変化により水質の悪化を招いた。明治31年(1898)に多摩川の水は、新宿西口の淀橋浄水場に送り込まれるようになり、埋め立てられ「溜池山王」となった(p114)
・人口増加による関西の森林崩壊を知っていた家康は、関東の他に中部の木曽川に尾張徳川家、紀州紀の川に紀州徳川家、北関東那珂川に水戸徳川家の「御三家」を置いて、川沿いおよび山林を押さえている(p118)
・邪馬台国の卑弥呼は、魏より「親魏倭王」に任じられ、さらには金印が与えらえている。この時代の魏では、王・公・侯・伯・子・男・県候・郷候・関内候の9等の爵位が制定されていた(p130)
・弘安の役において元軍の博多湾襲来は6月上旬、2か月間上陸を阻まれた上で、大暴風雨が来た(p138)
・草原では古今無比の強さを誇ったモンゴル帝国も、水・海の存在ゆえに彼らを翻弄した民族は日本以外にも、ベトナム・樺太アイヌ民族がある(p140)
・長篠の戦で勝敗を決定づけたのは、長篠城を包囲する武田軍の後方部隊を叩くべく、織田・徳川連合軍が火力に特化した別動隊を迂回させて送り込んだことにある。退路を断たれる可能性が出たことで武田軍全体が動揺し、一門衆の後退を生み、総崩れとなった。被害のほとんどは、撤退時の追撃によるもので、勝頼が無謀な突撃を繰り返した結果ではない(p159)
・小牧長久手の戦いにおいて、秀吉(20か国)と、織田・徳川連合(8か国)は大きな差があったが、家康は外縁の諸大名と連絡を取ることで、秀吉包囲網を形成し、十分に勝算のある状況を作っている(p176)
・家康に与えられた、関八州とは、常陸と安房は含まず、武蔵・相模・上野・下野・上総・下総・伊豆を加えた、7か国250万石である。北条家残党、古くからの名門豪族がひしめく関東は統治が難しいとされていた(p180)
・なぜ奈良が日本最初の都として栄えたか、それはシルクロードという世界の交流軸の終着駅であった。流量の多い淀川ではなく、穏やかな大和川を利用していた(p231)
・日本の都が、奈良・京都・大阪から大きく離れたことはなかったが、唯一の例外が、7世紀半ばの近江・大津への遷都(667)である。中大兄皇子(皇太子)の発案で、遷都の翌年に天智天皇となった。これは、白村江の戦い(663)に敗北し、唐・新羅連合軍が攻めてくる可能性があったため、壬申の乱により飛鳥に戻された(p233)
・駿河湾に上陸後、陸路を歩いたのは深坂峠越えの20キロと、最後の3キロであり、渡来人は京に住み着いた。京都は、日本列島の地形に基づいた交流軸の上にあり、自然な形で人を招き、必然的に「千年の都」となった(p247)
2017年1月2日作成