紙の本
かつて、関東のみならず、日本中にあったはずの、山岳信仰の世界。 その痕跡、あるいは今生きる姿を辿っていく。
2022/09/13 15:55
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投稿者:L療法 - この投稿者のレビュー一覧を見る
同名の映画をもとにしたルポルタージュ、旅の記録。
かつて、関東のみならず、日本中にあったはずの、山岳信仰の世界。
その痕跡、あるいは今生きる姿を辿っていく。
私は今も地元に暮らしているが、私の地元はそのような伝統のないところで、余所者の集まりのような場所であった。
そもそも戦後に合併してできたようなところで、地名の歴史も何もあったもんじゃない。
私は共同体が苦手で、約束事に理由もわからず従うなどごめんなのだが、この本はその約束事を、意味がわからなくなった絵札から辿り、紡ぎ直し、語り直していく。
これは継承作業であり、保全なのだろう。
「何が変わったしまったのか」すらわからなくなることへの抗い。
解説によれば、宗教や信仰という言葉は、明治なって力を奮い始めたものであるらしい。
今日、「里山」と均一化される場所にも、土地土地で呼び名があり、役割が知られていた。
自然の流れに変わっていくものもあれば、政治や、社会の変容で変わっていくものもある。
この本は一つの普遍的な記録です。
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一枚の護符から広がる、素朴な人々の信仰の世界や、日々の営み。
私達がなくしてきたものを、丁寧に探し求めていった作者の姿勢に、大変共感しました❗️
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今の私たちが失ってしまったものは、想像以上に大きく深いのかもしれない。
そして一度手放してしまったそれは、二度と私たちの元には戻らないのだ
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秩父、多摩に伝わるオオカミの護符を追いながら、それがふるさとの再発見につながっている。
ハセツネという山岳耐久レースのために、高尾、五日市、秩父の山を走っていると山の中に村人たちが大事にしているであろう神社や道祖神にであう。同じぐらい朽ちた村落や神社にも出会うのだが、確かにそこには人々の生活があったと思わされる。そこにあった物語を彷彿とさせる作品である。もちろん、ぼくの家にもオオカミの護符は貼ってある。
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つい先日、東京の国立科学博物館に行ってきたばかりだ。
そこには、世界各地の動植物のはく製も展示されていて、その一つに、ニホンオオカミがいる。
骨格は確かにオオカミらしい。
けれど、目がひどく優しくて、とてもじゃないが獰猛さは感じられなかった。
はく製であって、本当の、生きたオオカミではないのだけれど。
その面立ちは、やはり生きているときに見ても、人を害するものには思えないだろう。
その後に読んだ話だからだろうか、御嶽のあたりでオイヌさまが百姓の守り神とされてきたという事実に、すとんと納得がいった。
死してなお、あんなやわらかな面差しを持つ存在が、カミでなくて何だというのか。
そんな気持ちがした。
だが、だからといって自然と手を合わせられるかと言えば、それは難しい。
武蔵御嶽から遠く離れた場所に暮らす私にとって、彼らは馴染みのカミにはなりえない。
だが、この話を読んでいて、ふと思い出したものがあった。
それは、近くのスーパーに向かう途中、ひっそりと埋もれるようにあったお地蔵さまに手を合わせていた祖母の姿。
それから、犬の散歩の途中、坂道の先にあった古い墓か祠の前で必ず合掌していた祖父の姿だ。
それぞれ相手は違っていたけれど、二人とも、自然と頭を下げていたこと(そして、時には促されて見よう見まねで拝んでいた自分)を覚えている。
きっと、二人にとってはそれが、それぞれの「オイヌさま」のような存在だったのだろう。
じゃあ、今、この私にとってのそれは何なのだろう。
マンションの一室に住み、普段はせいぜい車窓越しに海を見る程度しか自然と触れ合わない私に、おのずと手を合わせてしまう相手はいるのだろうか。
神社や祠の前を通る時に何となく遠慮してしまう程度には信仰心のある私でも、すぐには思いつかない。
そう考えるほどに、近代日本の自然離れの罪深さを感じずにはいられない。
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●:引用。→:感想
●神官が厳かに「オーー」と発声する警蹕とともに「大口真神社」の扉が開かれる。警蹕とは声を発することによって神が通る道を清め、邪気を祓うものとされている。→以前に宮廷行事か、皇室行事に関連して読んだ記憶があるのだが、書名が思い出せない。
●さらに余談を続ければ、関東の山々の世界は侠客博徒を多く輩出した土地柄でもあるという。(略)幕末から明治初期にかけて、「武州一揆」や「秩父事件」「群馬事件」「加波山事件」といった自由民権運動と絡んだ農民反乱が関東の地にも相次いだ。これには百姓をはじめ、侠客博徒にいたるまでさまざまな職業、階層の人々が深くかかわっていたということだ。 →昨夏、小海線で旅をした時、線路沿いに秩父事件に関係した石碑を見た。その時は何で信州に秩父事件の石碑がと思った。後日調べてみて、秩父困民党が警察・軍隊に追われて?信州までやってきたことを知った。その時は気がつかなかったが、本書を読んで秩父と信州は峠、十石峠をはさんで隣会わせであったことを思い出した。中学から大学まで自転車で旅をしていた頃は、当たり前の知識であったのに、そこから遠ざかり、いつの間にか忘れてしまっていた。「ヤクザと日本」、「アウトローの近代史」参照。
●ある日、テレビに映し出される悲惨な光景の中で、お百姓さんであろう一人の女性の姿と言葉に私は釘付けになった。「他人の作った街じゃダメなんだべね・・・」。瓦礫の山と化した故郷を目のあたりにして発せられた言葉である。津波に呑まれ、あるいは放射性物質に侵された故郷に、なお強く、その紐帯をつなぎ止めようとする人々の顔を見たとき、かつての土橋のお百姓の風貌と重なり合った。→「震災学入門」
●オオカミの護符(山岳宗教)→「東京「消えた山」発掘散歩」参照
●御師、直会[ナオライ]→「江戸の旅文化」参照
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この本のことは平山夢明・京極夏彦がやっていたラジオの中で紹介されて知りました。普段の読書傾向から通常ならば目にすることのなかった本なれど、読んで良かったと思う。
埼玉生まれで東京の端に住む私にとって、この本で紹介される秩父や奥多摩の山々は馴染み深いにもかかわらず、そこにある信仰やお百姓についてまるで無知だったことに気づかされた。山や土地の恵みを受けて暮らし、それに感謝し土地に根付いて生きてきた人たちの声に触れることのできるとても貴重な本だと思う。簡単に里山やら山岳信仰やらでまとめて表現してしまうけれど、その土地ごとの言葉や習慣・信仰がこんなに豊かで異なっていたとは。その豊かさの一端に触れることができて良かった。
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「首都圏」という言葉は明らかに都心に向けて凝縮していくが「武蔵国」はむしろ山に向かって柔らかに開けていく音がする。
神奈川県川崎市土橋。
偶然にもわたしの住んでいる場所の近所で、興味を引かれた。ファンタジーではなく、地道な聴き込みと記録による硬派な作品である。
越してきた頃から、このあたりの神社仏閣のみならず道祖神にいたるまで、よく手入れが行き届いており、なんと生活に神仏の息づいた土地なんだろうと感心していました。
その背景であるオオカミの護符を巡る旅は、遠く遥かな御嶽山そして関東一円のオオカミ信仰を浮かび上がらせます。
生まれ故郷の調布のお百姓さんが太占の骨を読みとくくだりは完全に予想外で同郷の方の話はうれしく誇らしく、また新しいぼんやりとした故郷に新しい色をくれました。
ださいと見下してきた日本の農民の文化。
その深い深い智慧にため息が出るような1冊です。
御嶽山へお詣りに行こうと思っています♪
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軽い切り口でするする読めるけれど私が求めたのとはちょっと違ったかな。
ですが足を使い古老に教えを乞う姿が尊いなと思う。近代化し失われてゆく人の住む土地とか信仰の何かを問いかけているような本でした。
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大学時代学んだフィールドワークが生かされたらこんなふうになるんだろうなと思いました。
心にじんわりとくる書籍でした。
戌年の2018年は、おいぬさまを祀る神社、お山を巡ってみようかなと思います。
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関東圏に多く広まっているイヌの姿を描いた護符。
作者の家にも貼られていた。
身近な題材であるその護符を調べていくうちに、オオカミを祀る神社とそれを支える講という仕組み、そして山岳信仰へと調査は進む。
本書に描かれるエリアが非常に身近なものであることから、とても興味深かった。
観光客気分で向かえるところではなさそうだが、ぜひ現地に赴き、直にその痕跡に触れて見たい。
そんな気にしてくれた。
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「オオカミ」が気になって読み始めたのだけれど、おいぬさまの護符をきっかけに、農民の土着の信仰を守ってきた人たちのお話でした。れはそれでとても興味深く、これにかぎらず古い民俗的な風習がどんどん失われていく今がせつないです。
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新興住宅地の元農家の家で育った著者は、あるとき古い土蔵の扉に貼り付けてある、なにやら黒い犬らしき獣が妙に気になった。いったいこれはなんだろか。そこから歴史らしきものがないと思われていた町の過去を遡る旅が始まる。
富士講みたいな山岳信仰であることは早い段階からわかる。黒い獣の正体は狼だろうことは表紙を見ればわかる。民俗学的に珍しい事例がでてくるわけでもない。でもこのような講がいまでも細々ではあるが、しかもたまプラーザがあるようなちょっとハイソな新興住宅地で機能していることは意外だった。
著者は丹念に取材を重ねていく。毎年代表を選んで、御嶽山に参詣するのが講の主な活動だが、昔は参詣するのが若い男衆にとっては、なにより楽しみだったらしい。なぜなら山のそばには温泉が湧き、そこには温泉街があるわけで…
野暮なのでこれ以上は言わないが、こんな本音と建前がわかるのも、著者がお年寄りの方々の生きた声を取材できたからだろう。
信仰と生活が不可分だった時代、自然への畏敬の念を持ちながら窮屈になることなく、大らかに生きていた農村の暮らしがわかって面白かった。
で、なんでまた再読したかというと、最近テレビでこの護符がチラッと映ってたのを見かけたことと、神奈川県立歴史博物館の内部に再現されてる農家の柱に貼ってあったのを見かけたこときっかけ。当然ながらテレビも展示もこの護符の解説なんかしてない。
些細なことだから誰も気にしないし、無理もないが突き詰めると面白いのに。先月は六本木のフジフィルムギャラリーで秩父のオオカミ信仰の写真展示もあったし、ジャック・ロンドンのオオカミ小説を読んだし、角幡唯介の「極夜行」ではオオカミ食べるしで、その度にこの本を思い出してたので、もう一回読んでみようと。意外と内容を覚えていないもんで、いろいろ発見があった。
たぶんだけど、オオカミは警戒心が強いから、家畜は襲っても、よっぽど逼迫しないと人を襲わなかったと思う。だから農家にとってはありがたい存在だったんじゃないかあ。鹿や猪の被害に苦しんでいる農家がオオカミを神の遣いとして、崇めるのも肯ける。あと武蔵野を囲む関東圏の山にこの信仰が根付いたのは、峻険な土地が多いため、たぶん熊がいなかったんじゃないかと思う。食物連鎖の頂点がこの地域ではオオカミだった。熊の分布を調べたわけじゃないから確信はないけど。誰か知ってたら教えて下さい。
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川崎市宮前区土橋をスタート地点とし最終的に秩父の三峯神社にまでオオカミの護符に導かれた著者の旅の記録。この旅の記録は自らの意思で歩んだというよりも導かれたという言葉が相応しい。
川崎市多摩区の出身ということもあり、とても身近に感じたことからグイグイ書物に引き込まれてしまった。
読後感は穏やか。
自分の出生地や産んでくれた両親、親戚一堂など今まで蔑ろにしていた自分を反省するのに十分な内容だ。この土地に対し何かできること(稼ぎでなく仕事)はないだろうかと考えさせてくれる良書である。
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川崎市の土橋。ここで生まれた筆者の自宅の古い土蔵の扉に貼られていた「一枚の護符」。この護符の由来を追い求める旅が、武蔵國とそれをとりまく関東の山々に暮らす人々の生活、風習、そして歴史を知ることにつながっていく。
次は著者による「諏訪式」の方も読んでみたい。