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慶応の学部生向け経済史入門のテキストをベースに書かれたものなので、内容的には平易(少し退屈な部分も)。著者は、経済のグローバル化をヒト・モノ・カネの国境を越えた移動を可能にした市場システムとそれを支える国際レジームが必要であるとする。しかし、究極的にグローバルな課題を解決するには、国民国家を超えた世界政府と世界共通通貨が必要ではないだろうか、というあたりの話はちょっと非現実的な夢物語になっているのではないだろうか、と思う。経済的自由主義とグローバリゼーションの親和性は高いとは思うが、ナショナリズムが必ずしも経済的自由主義の実現を阻むように作用するかと言われればそうでないケースも多いだろう。また金本位制のようなシステムが一時期、グローバル経済の必須要件と考えられていたのは事実だとしても、それのみが国際経済秩序を担保するものではなく、それゆえ、たとえばダーティーフロートだからといってすぐさま「カジノ資本主義」的な帰結に至るとは限らないのではないだろうか。
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中国の銀流通の拡大を指させたのが日本銀とスペイン銀の流入で、中国は銀の公益を通じて世界経済に密接にリンクするようになった。
世界がグローバルな1つのダイナミックなシステムとして成立する背景になったのはイギリスにおける産業革命の展開とナポレオン戦争の終結によってヨーロッパに政治的な安定がもたらされてことによる。
19世紀の国際政治、外交におけるイギリスのリーダーシップの背景には圧倒的な経済力と軍事力があった。
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大学講義を受けてる感じ。
経済は難しいですが、世界は経済で動いていること・・・・。結局・・・ヒトはお金で動き、命をかけているんだということが、あらためてわかる。
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この本を通じて、産業革命における知的財産権の貢献はそれほど大きくなく、逆に、植民地経済における金本位制の影響が大きかったことが分かった。
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「歴史の見方」は多種多様で、個人史、地方史、各国史、地域史、世界史などがあれば、政治史、経済史、社会史などテーマ史もあります。また一方でナショナル・ヒストリーで多く見られるような自分たちの正統性を説明するために語られることもあり、またそういったものを排除しようとして世界各地のつながりを重視したグローバル・ヒストリー※もあります。いずれにしても、歴史をどう見るかは人によって様々で、だからこそ面白いのであり、著作を読むごとに新しい発見があります。きっと、論述問題を課す入試の採点者は、受験生達の解答を時には面白く、ときにははっとさせられるような、そんな気持ちで採点しているような気がします。
本書は経済をグローバルな視点で、世界とのつながりを重視しながら語られています。印象としては広く浅く(しかし一般の世界経済史よりもグンと広く)書かれており、特別に目新しい説はなかったとしても、グローバルに世界経済史を語る上で大切なつながりが縦横に書かれています。それを忘れないよう、以下に抜き出させてもらいます。
GDPでみるかぎり、19世紀まで世界経済の中心はアジアであって、ヨーロッパでなかったことはたしかである。アジアがヨーロッパ世界経済の周辺であったのではなく、ヨーロッパがアジア経済の周辺にあったのである。したがって、これまでヨーロッパを中心に描かれてきた世界史はヨーロッパという一地域の歴史にすぎず、とりわけ19世紀までの世界史はアジアを中心に書き直される必要がある。こすいてはじめて、「産業革命」がイギリスでおこり、工業化が欧米諸国でひろくみられる現象になったのか、その世界史的な意義やヨーロッパ諸国による植民地主義の意味を問うことが可能になる。(9頁)
アジア域内貿易は、オランダ東インド会社の活動にとって非常に重要な意味を持っていた。オランダ本国の経済力には限界があったので、アジア貿易の資金を本国からの供給にあおごぐことはむずかしく、オランダ東インド会社はヨーロッパ向けのアジア産品の買付資金として金銀、とくに銀を調達しなければならなかった。グラマンの研究によると、1952/53年度にオランダ東インド会社は金の供給総額31万1700フローリン(ギルダー)のすべてと、銀の供給総額55万3700フローリンのうち71%に相当する39万4600フローリンをアジア域内で調達し、のこりの15万9100フローリンの銀を本国からの供給にあおいだ。日本は、石見大森銀山にみられるように、16世紀以降世界有数の銀産出国で、17世紀前半期には世界の銀生産量の約3分の1を産出しており、オランダ東インド会社がアジアで調達した銀のうち、日本銀阿h13万4900フローリン(34%)をしめた。(31~32頁)
マーク・エルヴィンは、中国ではすでに宋代(960~1279)に産業技術のめざましい発達がみられ、人口増加に十分対応できるたかい技術水準に到達していたので、近代的産業技術の導入が必要なかったと主張し、これを「高水準均衡の罠」(high-level equilibrium trap)とよんでいる。(46頁)
(清朝期)ゾウやトラなどの野生動物は農業開発にともなってすでに中国南西部に追いやられていたが、新作物の導入にともなう山地の開発で森林は伐採され、土壌の流失など環境破壊の結果、18世紀末には洪水の頻発など自然災害が多発した。(52頁)
(インドでイギリス東インド会社は)北西部・中央部の諸州やパンジャーブ地方では、(ザミンダーリー制やライヤットワーリー制ではなく)日本の徳川時代に類似した村請制を基本とする「マハールワーリー制」や「マウザワーリー制」がとられた。(76頁)
産業革命はヨーロッパのアジアへのキャッチアップとしておきたもので、それにつづくヨーロッパの経済成長はアジア優位の世界をヨーロッパ優位に逆転させ、市場経済メカニズムの自立化と農業社会から産業社会への移行を促進し、産業組織や人々の社会生活に画期的な変化をもたらした。同時に産業革命にともなって進展した植民地主義の強化は、モノカルチャー経済の形成を促進し、欧米の先進国と他の地域のいちじるしい経済格差をもたらすことになった。(89頁)
産業革命期の一連の技術革新のなかでとくに重要なのは、蒸気機関の発明と改良による動力エネルギーの転換であった。薪炭など有機燃料から化石燃料への転換と石炭エネルギーの動力としての広範な利用は、人間の経済活動をそれまでの水力や風力など自然エネルギーによる制約から解放して経済活動を活性化させ、新産業の創発や生活水準の上昇を実現しただけではなく、長期的には地球の生態系に大きな環境変化をおよぼす負の効果をもたらした。(89頁)
1733年にジョン・ケイの飛び杼の発明で緯糸を通す杼が自動化されると、織物生産は急増し、綿糸不足が生じたため綿糸価格が高騰した。綿糸供給量の増産を可能にしたのはハーグリーブスのジェニー紡績機とアークライトの水力紡績機で、このふたつの紡績機の長所をかけあわせて丈夫で細い綿糸を生産したのがクロンプトンのミュール紡績機であった(ミュールはロバと馬をかけあわせたラバのこと)。ミュール紡績機の開発によって綿糸生産は飛躍的に増加し、国産技術でインド綿布に対抗することができるようになった。こうして綿糸不足は解消されたのに対して織布工程の機械化は遅れ、85年のカートライトの力織機の発明とそれ以降の力織機の改良によって、ようやく紡績・織布両工程における機械化が達成された。1785年には最初の蒸気機関による紡績工場での生産がはじまり、工場制機械工業による大量生産が可能になった。こうしたイギリスでの綿糸・綿布生産の機械化は、アメリカでホイットニーによる繰綿機の発明をうながし、アメリカ南部における棉花生産の急増と原棉コストの大幅な低下によって、イギリス綿製品の低価格での大量生産が可能になった。(94頁)
イギリスは、1843年の機械輸出禁止法につづいて、46年に穀物法(1815年制定)、49年に航海法(1651年制定)を廃止し、重商主義的な規制や保護関税・差別関税はほぼ撤廃され、自由貿易体制が確立した。こうしてイギリスの自由貿易主義にもとづいて、アジア経済と大西洋経済が再編された。ヨーロッパにおける自由貿易体制は1860年の英仏通商条約(コブデン=シュバリエ条約)以降ヨーロッパに拡大し、約20年間にわたり関税障壁の撤廃を通してベルギー、フランス、ドイツなどヨーロッパ諸国の工業化を促進した。(101頁)
1834年にはドイツ関税同盟が成立していたが、ドイツの経済学者フリー���リヒ・リストは『政治経済学の国民的体系』(1841年)で後進国の保護関税制度の正当性を強調した。ドイツは、ヨーロッパの自由貿易体制に参加したが、71年のドイツ帝国の成立とともにビスマルクが首相に就任すると、79年に「鉄と穀物の同盟」といわれる保護関税法を実施し、またフランスも92年のメリーヌ関税の施行で保護貿易主義に転換した。(114頁)
イギリスは、清朝が条約を遵守せず貿易が不十分なことが輸入停滞の原因になているとみなし、クリミア戦争(1853~56年)が終結して軍事力に余裕ができると、56年に元香港船籍アロー号が清朝官憲によって拿捕された事件を機に、宣教師が殺害されたフランスと協同出兵して広州を占領し、アロー号(第二次アヘン戦争)をひきおこした。(121頁)
外国商社にとって中国国内市場の情報はブラックボックスであったので、かれらは商業や流通のネットワークをもつコンプラドールとよばれる有力な中国商人を雇用した。コンプラドールは「買弁」と称され、従属的なマイナス・イメージがつよいが、かれらは中国国内の流通や商習慣などにかんする経済情報をもち、自己勘定で取引もおこなう信用力のある大規模な独立商人で、外国商社にとってどの商人と提携するかが中国におけるビジネスの成否をきめる重要なポイントであった。(123頁)
1870年代に欧米の主要国が金本位制に移行すると、世界的な銀産出量の増加にくわえて各中央銀行が金準備として金を購入し、同時に保有銀を市場に放出したため国際的な銀価低落がおきた。銀本位制のアジア地域にとって銀価下落は円・両(テール)・ルピーなどの通貨安を意味したので、理論的には欧米の金本位制国への輸出には有利に作用したと想定されるが、アジア地域間の競争もはげしく、その効果については疑問の余地がある。(146頁)
イギリスは1786年にペナンを占領したが、95年にフランス革命の影響をうけてオランダがフランスに併合され、親仏的なバタヴィア共和国(~1806)が成立すると、オラニエ公ウィレム5世はイギリスに亡命し、海外のオランダ植民地はイギリスの統治下に編入されることになった。東南アジアにおけるイギリス権益の拡張に熱心であったイギリス東インド会社書記のスタムフォード・ラッフルズは、インド総督ミントー郷を説得して、1819年にシンガポールをイギリスの保護下におき、シンガポールは自由港として、ヨーロッパ貿易とアジア域内貿易の中継地として急速に発展した。ナポレオン戦争の終了とともに、イギリスの占領地はオランダに返還され(ロンドン協定)、24年の英蘭協約で、マラッカ海峡を境界にしてアジアにおける両国の勢力範囲が確定された。スマトラはオランダの勢力範囲となり、イギリスは26年にペナン、マラッカ、シンガポールをあわせて海峡植民地とし、67年には直轄植民地にした。マレー半島における・・・マラヤの諸王国内の内紛もかさなって政治的混乱が生じた。イギリスは政治介入の方針に転換し、74年のパンコール協約で錫生産地であるペラ王国の行財政を実質的に掌握し、96年にはペラやセランゴールなど四王国を保護州(マラヤ連邦州)に、さらに1914年に残りの王国を統合してマラヤ非連邦州とし、海峡植民地とあわせて英領マラヤが成立した。(152~153頁)
日本の(世界恐���からの)早期回復は、軍需関連産業の拡大と中国への軍事的進出とむすびついたもので、高橋蔵相の低為替放任政策によって円は100円当り25ドルにまで約50%急落し、円安によって綿織物や電球・マッチなどの雑貨のアジア市場向けの輸出が急増した。日本の低価格での輸出攻勢は「為替ダンピング」(「ソーシャル・ダンピング」という用語は国内のメディアが強調したが、海外ではほとんど使用されていない)として非難された。(194~195頁)
インドは、政府主導によるソ連型の重化学工業中心の工業化政策を採用した。インドの経済成長率は、植民地期の年1%から独立後の50~60年代半ばには3~4%に上昇し、80年代以降は5%以上の成長率を実現した。こうした経済成長をささえた基礎には、60年代に品種改良による高収量品種の導入や化学肥料の多投による穀物生産の増加、いわゆる「緑の革命」がインド全域に普及して農業成長と農民所得の上昇が生じ、それが農村市場の拡大をもたらした。(215~216頁)
一つだけ疑問点が
(洋務運動の展開で)長江中流域の武漢を本拠とする張之洞は、漢冶萍公司を設立し、漢陽製鉄所、大冶鉄山、萍郷炭坑からなる重工業中心の一大コンビナートを展開した。
→確かに大冶鉄山を開発したのは張之洞ですが、漢冶萍公司は洋務運動期ではなく1908年に日本からの借款により設立されたものです。建てたのは張之洞かもしれませんが(調べきれなくて断定できない)、張は翌年亡くなります。
※著者はグローバルヒストリーについて以下のように説明している。
現段階でグローバル・ヒストリーに明確な定義があるわけではないが、それとは対照的に、グローバル・ヒストリーでは、最初から世界の多様な国や地域が存在することを前提にして、歴史を地球的規模で鳥瞰的かつ総体的にみるところに大きな特徴がある。したがって、先進国だけでなく、植民地も途上国も受動的ではなく、能動的なアクターとして登場する。また、グローバル・ヒストリーでは、ユーラシア、南北アメリカ、アフリカ、オーストラリアなどの大陸部と、太平洋、大西洋、インド洋などの海域がともに対象になるので、地域的な空間軸がひろいだけではなく、同時に歴史的な時間軸のながいことも特徴である。したがって、テーマも、砂糖、コーヒー、茶、タバコ、銀、綿織物などの世界商品から、疫病や感染症、環境、帝国、特定地域の生活水準や実質賃金の研究など多岐にわたることになる。
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「14世紀以降、『大航海時代』をへて現代にいたるまでの約700年にわたる世界の歴史を、アジアを中心とする歴史的文脈のなかで考察」(p.12)することを目指した経済通史。「西欧中心主義」ではないマルチセンタードな世界経済史叙述を目指したと思われるが、少なくとも19世紀以降については従来の(西欧中心の)帝国主義史とアジア各国別経済史の安易な接合の感がなきにしもあらず、改めて「主語」=中心のない歴史叙述の困難さ、というより不可能性を露呈している。「アジア」といってもインド、中国、東南アジア諸国、日本だけで、韓国・朝鮮や中東諸国や中央アジア諸国は無視されているのも気になる。
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経済史の平易な文献。西洋に偏らずに、地球規模全体から考えている。アジアから始まり、イギリスを中心としたヨーロッパ、その後アメリカを中心とする冷戦期、さらに南北問題、資源格差問題等が要領よくコンパクトにまとまっている。最後に、ナショナリズムにも触れ、やはり、経済は政治と切り離して、特に政策という点で、語ることができないことを再認識した。
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面白いのだが、経済史かただの歴史概説かがよくわからないところ。ヨーロッパがアジア交易に入り出した大航海時代以降の日本の銀の流出についてはよくわかった。
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慶應大学経済学部教授による、14世紀以降の世界の経済史についてまとめたとの。歴史的な地域のつながりを詳しく調べ上げており面白い。経済については、昔から欧州中心で繁栄がもたらされていたように感じていたが、産業革命後の一時的な期間を除き、いつの時代でもアジア中心であったことがよくわかった。
「大航海時代は、ヨーロッパ社会にダイナミズムをあたえ、長期的にはヨーロッパの変容をうながす大きな転機となったが、18世紀末まではアジアのヨーロッパに対する経済的優位はゆらぐことはなかった」p17
「香辛料をはじめとするアジア産品に対するヨーロッパ諸国の需要が非常に大きかったのとは対照的に、アジア域内ではすでに自己完結的で自立した経済圏が成立しており、アジア地域はヨーロッパ諸国と交易する必要も、また域内交易の境界を越えて財貨を入手する必要もなかったのである」p20
「16世紀から18世紀のヨーロッパは、宗教、戦争、経済の3つのキーワードで特徴つけられる」p23
「ヨーロッパにおける市場や契約など商取引に関するルールの規範化は商法として体系化され、ローマ法に起源をもつ成文による大陸法と、判例にもとづくイギリス法にわけられるが、ともに最終的には公権力の裁定にゆだねられる。この市場は、不特定多数の商人が自由に参入できるので競争的にはなるが、不正な参加者は法によって公的に排除され、市場秩序は維持される。それとは対照的に、アジアの場合には、基本的に公権力が民間の経済活動に介入することはなく、市場秩序は地域におうじて伝統的に形成されたルールによって保証される。訴訟は地域内あるいは当事者間で解決される調停の性格が強く、ルールに反する商人は信用を失ってコミュニティーから淘汰されるが、コミュニティーは有力者による談合の場となる傾向も強く、不正の温床となりやすい」p24
「オランダ東インド会社は、永続企業の形態をとり、株式の譲渡もできたので、まさに世界最初の株式会社であった」p29
「17世紀はオランダの黄金時代であった。オランダは、インドにマスリパタムやプリカットに商館を設け、1609年にはジャワ島にバタビアを建設し、ここをアジアの拠点とした。モルッカ諸島では香辛料の栽培も行ったが、海運力をもつオランダが目指したのは、政治支配よりも、むしろ東南アジア地域の制海権の掌握による商業権益の確保であった」p29
「日本は石見大森銀山にみられるように、16世紀以降世界有数の銀産出国で、17世紀前半期には世界の銀生産量の約1/3を産出していた」p32
「奴隷貿易の最盛期の18世紀には550万人の奴隷が輸出され、1820年までに1000万人に達した。18世紀末にはアフリカからの輸出額の90%は奴隷輸出がしめたが、輸送中の奴隷の死亡率はたかく、12%にのぼったという」p39
「明への朝貢回数は、琉球が171回でもっとも多く、ついで安南(ベトナム)が89回、朝鮮が30回といわれている。日本の明への朝貢回数は19回にすぎない」p45
「1609年に薩摩藩は琉球を武力で服従させて実質的に政権を掌握し、琉球は薩摩藩を通じて幕藩体制に組み込まれた。しかし、徳川幕府は、中国と正式の外交関係を確立できなかったので、琉球の中国への朝貢を承認する一方、日本にも服従させる両属体制をみとめ、琉球を通じて中国との間接的関係を維持しようとした。こうして日本は、対馬の宋氏を介した朝鮮交易と薩摩藩による琉球交易を通して、東アジアの朝貢システムに関与することになったのである」p56
「産業革命はヨーロッパのアジアへのキャッチアップとしておきたもので、それにつづくヨーロッパの経済成長はアジア優位の世界をヨーロッパ優位に逆転させ、市場経済メカニズムの自立化と農業社会から産業社会への移行を促進し、産業組織や人々の社会生活に画期的な変化をもたらした」p89
「(19世紀)国際通貨としてのポンドの信用は絶大なもので、貿易はポンドで決済され、ロンドン宛手形は世界的に流通した。またイギリスは世界の船舶総トン数の約35%を保有し、海運による世界的規模での輸送ネットワークが形成され、ロイドなど海上保険のほとんどはロンドン保険市場でひきうけられた」p102
「日露戦争後の日本には「一等国」を維持できるだけの十分な経済力もなく、国家財政の破綻は現実の問題になりつつあった。こうして国際収支の危機に直面していた日本にとって、第一次世界大戦の勃発はまさに「大正新時代ノ天佑」であった」p139
「主要国における世界恐慌からの回復が、結果的に軍需関連産業の発展による経済の軍事化によってしか達成されなかったことは、第一次世界大戦と世界恐慌のもつ重要性を想起させるに十分である」p182
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アジア経済の特徴として、垂直的(または水平的)な国際分業によって発展してきた、ということは開発経済学、アジア経済論等の科目で知っていた。しかし、それが第二次大戦後に独立国となってからではなく、宗主国また同植民地地域に対する原料供給としての一次産品の輸出特化という植民地化される以前から存在していた、ということを知り驚く。
現在のアジア経済は、歴史的なネットワークの上に存在していたのだった。
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慶應経済の講義がベースとなっており、16世紀から現代までをアジア中心の観点から再解釈。新書らしくコンパクトによく整理されて全体的な流れが掴みやすくなっていながら、程よく詳しい説明もありそれなりの読み応えもある。この質量レベルなら大学の教科書としても使われるだろうし、入門書としては最適だろう。
本書によると19世紀までは世界経済の中心はアジアであり、それが産業革命により19~20世紀には欧米中心になったが、21世紀以降は再度アジアが中心になっているという。経済史のみならず政治史的な記述も結構あって近現代における政治と経済の密接な関連性もわかる内容になっている。
印象的なのはエピローグの「リベラリズムとナショナリズムの相剋(国境を超える経済と国境を越えられない政治)」について述べられた部分だが、著者はやはり経済学者だからなのかややグローバリズム志向で楽観的な印象を受ける。一旦は冷戦終結にはなったものの、昨今の中露の動向により民主主義的政治と自由主義的経済が必ずしも「普遍的」ではなくなっている点をどのように考えていくべきかが今後の課題であるように思えた。
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【琉大OPACリンク】
https://opac.lib.u-ryukyu.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB17212070
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内容は題名通りグローバル経済史を概観するということでした。また個人的には勉強になる記述が多数あって参考にはなったのですが、「入門」かと言われるとそこは疑問が大きかったです。あまり深く考えずに読めばさーっと読み進めるのかもしれませんが、私はイベントの前後関係などを考えながら読みたかったので、そういう読者からすると極めて難解な書物でした。たとえばこういう戦争があってある条約が結ばれた、という記述の時に、「〜〜条約が何年に締結された」とだけしか書かれていないケースも多く、私としては条約の名称などはどうでもよくて、むしろその条約の中身は要約するとなんなのか、その後の情勢にどんな影響を与えたのか、ということが知りたかったです。浅く広く書けば「入門書」になるというのはこと歴史に関しては、私は誤りだと思っています。高校の世界史の教科書などが退屈だったことを思い出せば分かるように、事実の羅列を淡々と述べている場合にはイベントの前後関係なども不明瞭になりますよね。そのため私は一冊読み終わるのにかなり時間を要しました。個別のトピックで興味深い点は何箇所もあって勉強にはなったのですが、全体的にかなり苦労しながら読み進めたので、「初心者」の方はそのつもりで購入された方が良いかもしれません。
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まさに著書のタイトルになるように、グローバル経済史の著書であった。
かなり昔の時代から現在に至るまでの各地域の反映の移り変わりが記載されている。
アジアが始めは、隆盛だったが、そこからヨーロッパ、アメリカに移り、また今現在アジアに戻ってきているとの事だった
こういったことをまとめてある著書は資料として大切である。