紙の本
「では・・・次に」の所は、面白い目の付け所。
2017/05/01 04:19
2人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:オカメ八目 - この投稿者のレビュー一覧を見る
テレビのワイドショーで、キャスターが、よく使う、接続しない「接続詞」で、アメリカじゃぁ「では・・・次に」らしいが、日本では「続きましては・・・」がある。 テレビ見てる方としては『続かないんだよな〜』との突っ込みを、大体必ず、もう自然に入れてたりする。 そのズレが、なぜに起って来るのかというのが、本書に書いてある。 知りたければ読むがいい。 この「では・・・次に」の章は面白く読めるが、他の章は、何か、考えながら書いたみたいで、ごちゃごちゃしてて読み辛い。 それと、情報が十年前で少し古い。 それでも読んで損はない。
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☆信州大学附属図書館の所蔵はこちらです☆
http://www-lib.shinshu-u.ac.jp/opc/recordID/catalog.bib/BB18425598
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途中の章の「無駄の始まり史」みたいなところがよかった。歴史をたどると、どうこけてきたのかわかるので、どう気をつけたらいいのかわかる。
今年、21年あたりで随分語られたデジタルデバイスの問題があるが、いやもう全然、デジタルとかアナログとか関係ないよと思うようになった。この本は全体像がわかる。
あとタイトルがどうかなと思った。まあ原題がそうなのだけど。副題がメディアリテラシーぽいともう少し食いつく人がいる気がするし、そう使うといいかなと思う。
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18世紀のアメリカ人は貧民から上流までみんな読書が好きで、本が爆売れした、という部分になるほどなと合点がいった。独立精神が旺盛で、デモクラシーが発達してて、良くも悪くも議論好きなのは伝統だったのかと思った。
ディケンズなんかまるでスーパーボールのスター選手のように大人気だったそうだ。だから、当時のアメリカ人は、何時間も続くような複雑な議論にも集中力をもって楽しめたし、当然充分な理解力もあった。ゆえに18世紀アメリカは「理性の時代」と呼ばれると。それが情報伝達の技術革新により、だいぶあやしくなってると著者は言う。
だいたい内容は以下のとおり。メモがわりにまとめておく。
まず、情報伝達媒体によって思考形式が変わる、というのが著者の言わんとするところだ。かつて文章(書き言葉)によって大衆に情報伝達がなされた時代は首尾一貫した論理の展開が重視され、物事に対しても明確な説明がなされた。いうなれば、書物のように考え、書物のように話したわけだ。
ところが電信機と写真の発明により、情報伝達に距離と時間の制限がなくなると、自分の生活には関係ない雑多で膨大な情報が日々氾濫するようになり、物事は支離滅裂であるのが自然になった。
テレビはこれに加えて「問題とは即解決できる物」というメッセージをおくる寓話劇=コマーシャルを絶えず挟んだり、ニュース番組という情報の個装エンタメ商品を提供することで、人々を常に感情的に反応するよう慣らした。テレビに親しみ、もはや論理的には思考しなくなった大衆は、世界を脈絡のない断片の情報、エンタメとして、つまりテレビみたいな物としてとらえるようになった。
その結果、本来ならば、時間をかけて議論すべき政治や神聖な場所で営まれるべき宗教、あるいは、頑張って勉強させるべき教育までもが、エンターテイメント化してきた。内容ペラペラかつ支離滅裂で、飽きる前に終わるような娯楽パッケージに。こうなるともうまともな議論はおろか、一連の流れをもつ過去の連なりであるところの歴史すらも望めない。つまり現在は、文化消滅の危機にある。この流れを変えるのは容易じゃないと。
内容のまとめ終わり。
2022年現在、テレビに張り付いてるのは老人ばかりになり、若者は新たな情報伝達技術スマホ・SNSに支配されるようになった。だから、テレビに関するポストマン氏の危惧は過去のものだけれど、技術革新による状況の悪化は、氏の予測どおり、ますます加速している。
まだテレビは見るも聴くものを指示してくれたが、スマホは何もしない。テレビとは比べものにならないほどに膨大で、比べ物にならないくらい無意味な情報を、24時間、リアルタイムかつ惑星規模でもって、ひたすら個人に注ぎ続けるだけだ。
こっちはもう情報の海におぼれつつ、SNSのタイムラインやニュースフィードをチェックするのに精一杯で、立ち止まって考える時間はもちろんない。できることと言えば、ひたすら感情的に反応することのみ。だから炎上は無くならず、答えのない不安定で不快な状態を避けるために徒党を組み、分かりやすく声の大き��人がもてはやされる。そうなると誠実さよりもイメージが優先されるし、真実よりも快楽に価値がでる。21世紀の現代日本人にとっては、ネガテイブ・ケイパビリティなんぞ過去の遺物である。
毎日不快と快感の極みに振り回されて、思考停止状態どころか目を開けたままの夢遊病で、すぐそばで飢える子供たちがいても、孤独死する老人がいても、税金が無駄に高くなっても、自分の生活が無事続いてる間は正直どうでもいい事だ。リアリティも感じられない。
特に、生まれた時からネット環境にいた若者たちにその傾向が著しい。たとえ社会批判を訴える人がいても、言葉ではなく怒りの感情のみを受け取り、「文句をいってる不快な奴」として感情的に処理する。そして投票日を忘れたまま、TikTokやYouTubeでバラエティー番組の芸人ごっこをして、将来に絶望しながら笑っている。2021年のドキュメンタリー映画『パンケーキを毒味する』にあるとおりだ。与党が成人年齢を18歳に引き下げたかったのもよく分かる。彼らには説明する必要がない。ただ人気アニメのセリフを真似たり、パンケーキを食べるパフォーマンスだけで政権を支持してくれる。だが、そんな現在権力を掌握する老人たちすら現実がよく見えてるとはまったく言えないのは、没落しつつある日本経済をみれば明らかだ。
ポストマン氏が「テレビっ子」にオルダス・ハクスリー『素晴らしい新世界』の予兆を見たとすれば、ネットに常時接続され、SNSとエンタメのサブスクづけになってる我々などはソレそのものだろう。多くの人々がアホみたいな陰謀説に引っかかるのも当たり前である。いまは筋が通っているか否かより、どう感じるかが大事であり、金であり、力なのだから。株価の変動は感情そのものだし、イーロン・マスク氏の芸人みたいな、空疎なおどけた振る舞いは好意的に受け止められてる。本書が執筆された1980年代当時よりもずっとそうなってしまった。こうなってしまった以上、個人でどう対処すりゃいいんだろう。
とりあえず自分はSNSだけはやめてみたが、テレビっ子世代の悲しさで、「また」テレビを見るようになってしまった。ネットではもう終わったコンテンツとしてボロクソに貶されがちなテレビだが、久しぶりにみたらけっこう面白かった。本当に笑い話である。
ただ、ニュース番組の無神経さと、コマーシャルにはストレスを感じた。ポストマン氏の言う「では…次に」である。ニュース番組でテレビキャスターが凄惨な虐待死のニュースを報告した直後に、癒される猫の動画で微笑んでいる。と思った10秒後には、今日戦争で何人虐殺されたなどと深刻に報告する。ショッキングな事実に胸を痛めて凹んだこっちの気持ちを踏みにじられたような気分になった。
しかし、それも繰り返されると「そんなものか」と麻痺してくる。実際、テレビニュースはそんなものだ。いちいち1つの事件について考えこんだりしない。365日、日本中、世界中からニュースが流れてくるのだから、どんなに痛ましい虐待死でも、砂つぶより小さな出来事でしかない。そんな風にして、他者の苦しみはリアリティを失い、消費するだけの単なる下品な娯楽と変わらなくなる。
コマーシャルに関しても同じで、はじめのうちは、番組が盛り上がった瞬間に挟まれる広告にイラっと来て、消音などにしても、だんだん慣れてくる。気づけば無言でCMの内容に思いをはせる自分がいた。
そうしたテレビ特有の無神経さや、従順に調教されてしまう自分に違和感を抱いて、ある意味、戒めとして本書を読んでみたわけだが、即効性はもちろんない。情報伝達媒体によって思考形式も変化してきたという「歴史」に納得できて、少しは気付け薬になったものの、個人としてどうすればいいかは分からないまま、相変わらず笑ったり腹を立てたりして、テレビの前に座っている。ソーマを求めるしかすべを知らない、幸福で愚かなレーニナのように。
情報伝達媒体は環境であり、人間は環境に順応して生きているものだから、大衆への情報伝達媒体の新バージョンが出てこない以上、変わりようもないとは言える。
いまの時点では、アーミッシュと結婚するか、禅寺で座禅を組むか、テレビ番組『ぽつんと一軒家』に出てくるような山奥に引きこもるしかないのではという、テレビっ子・ネット世代らしい、極端かつ個人主義的で無力感にあふれた思考しか出てこない。
そもそも、生まれた時からテレビやネットと共に生きてきた人間が、新たに、18世紀のアメリカ人のような思考形式、すなわち理性を持てるのだろうか?しかも、微笑しつづける夢遊病患者に囲まれながら?エンターテイメントを提供してくれない退屈な世界に1分間でも我慢できるのか?いまさらテレビやパソコン、タブレットやスマホのスイッチを切れるのか?デジタルデトックスのリトリートと称して、わざわざ大自然に囲まれる必要がある現代人に?
そして、仮に忍耐づよく理性を獲得し直したところで、今の世の中で意味はあるのだろうか?何を言ってもナンセンスギャグにしかならない「真実が終わった世界」(ミチコカクタニ『真実の終わり』)で、理性に目覚めるべしと踏ん張ったところで、時代おくれの頑固者か、自己啓発カルトに引っかかった可哀想な人にしか見えないのではないか。
それに、18世紀の「理性的」なアメリカ人はネイティブ・アメリカンを虐殺した人たちでもあるし、かつては豊かだったアメリカ大陸の大自然を根こそぎにしたのもまた彼らだ。スタインベックの『アメリカとアメリカ人 −文明論的エッセイ』では、まるで憎んでいるかのように土地から豊富な自然資源を奪い尽くしたアメリカ人の姿が語られている。
事はアメリカ大陸だけの話ではない。産業革命から続く人類の急激な進歩と繁栄は、地球上の生物圏に取り替えしのつかない深刻な悪影響をもたらし続けている。地質学上の区分では人新紀と言うらしいが、これも無関係ではないのではないか。書き言葉思考すなわち、論理や理性は万能ではない。取りこぼす物が多すぎる。だからたぶん、21世紀の今、本の虫になるだけでは、問題は何も解決しない。
なんにせよ、少ない頭を駆使して思考し、限られた時空間のなかで、自分なりに少しずつ行動し続けるしかないのだけれど、正直、途方にくれてる。そりゃ簡単に答えは出てこないのは分かってる。まずは、買えばすべて問題は即座に解決するという、コマーシャルから教えられた教義を、疑うことから始めるか。
だいぶ昔の本だが、現代に通じ「すぎる」内容だった。多くの人々に読んでもらい、ぜひ愕然としてもらいたい。ただ、大学生ですら読書をするのは全体の2割くらいだというから、難しいのだろうな。もったない事だ。
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1985年の出版なのでインターネットも何もない40年近く昔の本である。それが2015年という30年後に翻訳出版された。内容としてはそれほど難しくないのに30年後に翻訳出版されるという理由がある。それはあまりにも米国のなかのことである、つまり米国中心主義の本であるということになる。そのために日本の読者については米国の番組など全く見ることができない具体的なものを説明の媒体にしてもらっても困るという実情がある。
唯一役に立つとしたら、10章の愉しい教育?ということで、テレビを見て授業を行なう素材が「ミミ号の冒険」という番組で、生徒が学んだのは、教育は楽しんで行なうものである、ということだと書いてあることである。日本では番組を直接見ることができなかったし、PCで学習するしかできなかったので、こうした学習状況とは異なるが、結論は似ていよう。