紙の本
南アの白人政権が最後の悪あがきをしていたころのお話
2021/04/13 22:37
2人中、2人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
この物語に出てくる北部の戦争というのは、南アが軍事介入したにもかかわらずアンゴラ、モザンビーク、ローデシア(現ジンバブエ)、ナミビアといった諸国の白人政権が次々に崩壊した戦争のことをさす、主人公マイケルKがどんな肌の色を持った人なのか、そのことが当時の南アではとても意味を持っていた、は直接的には書かれていない。それがわかるのは訳者のくぼたのぞみ氏によると「CM」という記述だけだという、C=カラードM=男性、カラードというのは混血やアジア系を指す。1980年代のアパルトヘイトが風前の灯となっていた南アの状況を理解できていないとこの小説で作者が語ろうとしていたことの数%も理解できないだろうと思って私はこの本を読む前に南アの歴史について予習した、それにしてもあの時代にこの小説を発表した作者の勇気に敬服する
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本書が書かれた80年代の南アといえば、アパルトヘイト政策に対する非難による国際的な孤立と内戦という、国民にとっては大変厳しい時代だったのだろうと想像する。本書にも随所に戦争が色濃く表現されているけれども、主人公が直接戦争に関わっているという訳ではない。主人公は兵士でなく通常の市民だが、そこに描かれているのは主人公の闘いであり、主人公が求めているのはごく普通の自由なのだ。しかしどうしても自由を得ることができない主人公は衰弱していく。それでも、死ぬ自由さえ得ることができないのだ。このような主人公の姿が気高く、美しく感じられるのは何故なのだろうか。
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図書館で。
都市部で戦闘が起ころうがどこかで食料を作り、供給する人が居なくてはおかしい、というマイケルの考え方は非常に正しい。正しいけれども戦時下においてはきっと正しいと思われないんだろうな…
彼は色々と悲惨な目に合うけれどもその時々に彼を何とか助けようとする人にも出会う。ただ、彼にとっては彼を捕まえた人も助けようとする人も実は同じようなものなのかもしれない、なんて考えてしまいました。でもだったら山の中で野垂れ死にできるかと言えば町に戻ってくる辺り、人間ってのは業が深い生き物だなぁなんて思いました。
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針の穴を通るような、自由への希求。
軽度の知的障害と口唇裂を持つ主人公のマイケル・Kは、足の不自由な母親を故郷に帰そうと乳母車を組み立て、旅をし、そのうちに母が死に、ひとり戦争中の町に取り残される。戦争中とはいっても戦火の真っ只中ではなく、収容所やキャンプが陣地のように張り巡らされた銃後の世界だ。Kはその数多のキャンプのわずかな隙間に本当の居場所を見出す。隠れながら畑を耕し、種を撒き……しかし警察も福祉も彼を放ってはおかない。そういう仕組みになっている。
第1章では、彼の視点からすべてが描かれるため、何度も何度も自分の試みが権力によって頓挫させられ、フェンスの中のキャンプに押し込められ、とカフカ的な不条理に満ちている。しかし、それだけでは終わらせない。Kの姿に哲学的な光を当てねば気が済まないという執念が垣間見える第2章の存在が、この小説を際立たせている。2章ではインテリである医師の視点から、病院に収容されたKの姿が語られる。Kは病院で与えられたものに口をつけない。しかしそれはハンストではなくて、ただ「自分の食べ物ではない」からという。ここで医師が悩みに悩み抜き、彼はそこからKの生き方に答のようなものを見出す。病院を脱走したKに、ついていけばよかったとさえ思う。ここが読んでいて実に頭に閃光が走るところで、K視点のぼやけた世界の不条理が、一気に明るみに出る。
短い第3章は、またぼんやりしたK視点の世界に戻る。1、2章の陰鬱な重さから解放されたように、多少きわどいところがあるが、明るさがある。砂浜の情景は印象的だ。重要なのは、病院食を受け付けなかったKが、行きずりの男からの食事を受けとって食べている点だ。Kはただ弱って死んでいくわけではなくて、その先があるのだという希望が示される。
3つの章を通して描かれるのは、Kが無意識に、しかし切実に追いすがる自由への希求だ。Kが口にするものとしないものとの差。Kが言葉を発するときと黙り込んでしまうときの違い。その僅かな隙間、戦争中の町を埋めつくすキャンプとキャンプの間にある僅かな間隙のような場所に、彼の自由が確かに存在する。
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これがクッツェー初読みで、南アフリカの作家ってチュツオーラみたいな感じかね、と思ったら全く違った。正統派の端正な文学。
主人公のマイケルは、いろんなものから支配を受ける。耐えられなくなると、何もかも放り出して原野に逃げていく。第三者視点で見ると、もっと上手くやれるだろう・他に逃げ方があるだろうと思う。しかし、彼に愚行を犯す権利はないのか。一方的に冷静な正しさを押し付けることは、まるで西洋国家が植民地に対して押し付けた様々な政治制度を想起させる。支配する側は自分にとって都合の良い秩序を押し付けているだけなのかも。そんなことを思った。
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身体的にも、家庭的にも、生きている地域としても恵まれてはいない主人公が、ごくあたりまえに自由な生活を目指す。難民キャンプでは毎日労働に出ていくのが当たり前とされているが、自分は働きたい時だけ働く、と。脱走。主人公の頭の中は特段変人とは思えず共感できるのだが、自由に暮らすために孤独を極めていく。
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アフリカ出身の作家による小説を読む機会は少ないかもしれません。遠い国の話で背景が良く分からず、感情移入がしづらいこともあるでしょう。
だからこの本を読む前に、作家が南アフリカ出身で、1983年に発表されたこと。その頃は、まだアパルトヘイト制度が確固としたものであった、というような背景を把握してから臨んだ方が良い、という考え方もあるでしょう。
しかし、遠い国の文学作品が読まれるのは、主題に普遍性があるからだと思います。この作品を手にとって感じるいくつかの突起のようなものには、自由の希求、母親、生まれた土地への思い、といったものが含まれています。
自由については、こんなセリフが印象に残りました。
「きみがたったいま目指している畑(ガーデン)はどこにもない場所・・・・君が属するたったひとつの場所の別名なんだろ・・・・そこへ至る道は君だけが知っているんだ」
あとがきで知りましたが、クッツエーも自宅で段々畑を作っていたようです。
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これほど読むのが苦しい本は久しぶりだった。それでもこの苦しさはいったい何なんだ。という思いが高まり続けて、高まったまま読み終わった。
しかし最後まで読んでも全然、釈然としなくてまだ悶々としてしまう。
ひとつだけはっきりしているのは、私は、小説を読むということを、あるいは生きるということそのものについて、狭く捉えすぎていたのではないか、前提を取り違えていたのではないか、と思い始めさせられたということ。
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道に 迷ったり
雑念で 自分を見失いそうになったとき
きっと 自分を洗い出してくれる 一冊
極限ハングリーに自由に生きてみること
農場での溢れるような行動力
よわっちい現代人の私は見習う点 多々でした
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救いの手を拒み性を拒み土に生きる一人の男。読了後はただひたすらに悲しくて苦しくて、でも出会えて良かった読み切って良かったと心から思える小説の一つ。
舞台は人種差別時代の南アフリカ。暴力、戦争、貧困、略奪等あらゆる悲劇が当然として存在する環境で、道中母を亡くしてから、饑餓状態に陥るまで大地に縋る男・K の生き様が描かれている。救いようのない話運びは勿論、心象描写を極端に削ぎ落とした特徴的な三人称独白体が作品全体に凄味を与えている。
正直とんでもなく読み難いしなかなか先へ進めない。が、終始一貫して周囲の人間の援助を沈黙で拒み続け、大地に頑なにしがみつく彼の姿は、暴力が大部分を占める絶望的な社会情勢からの一種の「解放」のようにさえ見えてくる。言わばあらゆる不条理を超越する自由のようなものを与えてくれる。
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学生の時に購入して最初の方だけ読んで放置していました。大人になってから久しぶりに開いたところ、一気に読んでしまいました。難しいところもありましたが、引き込まれる本です。当時の南アについてきちんと調べた上で、もう一度読みたいです。