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沼野充義対談講義集「それでも世界は文学でできている」読んだ http://www.kobunsha.com/shelf/book/isbn/9784334978150 … 文学の括りから飛び出して表現が言語へ依存していることについて更に踏み込んだ内容になっている。シリーズで一番おもしろかった。谷川俊太郎は負けず嫌いな性格なんだなあ(つづく
作品と普遍価値との話が興味深い。広く受け入れられる要因に普遍的であることは確かに必要かもしれないけれど、作品価値とは無関係では。3冊目は全体的に人生が青春で止まっている作家とか表現の文体と翻訳とか、わたしのツボが多くて喜んで読んだ。宮沢賢治礼賛インフレも適正化されて満足(おわり
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文学の意義、可能性、使命について。
あとがきに見られる、沼野さんはいささかナイーブ過ぎる気がした。
・詩は上から目線。小説は下から目線。
・何回も読んでその世界に浸るのはもちろん歓びだが、それとは別に要約しなければつかめないものがある。そのように要約は一つの読み方、批評的な読み方なのだ。
・日本はタブーが多い。タブーがある社会ではユーモアが限られる。
・やっぱり伝えるためには距離を感じさせる必要がある。「過去は一種の外国だ。そこでは様子ややり方もみんな違う」
・シンボルスカ:分からないということにつかまっている。ホイットマン:beginning is studies.自分がずっと入口に立っている、わからないことに向き合っている。
・ブロツキイ:政治というものは常に過去形である、政治の言葉も過去である、それに対して文学の詩の言葉はつねに未来である。。。ビナード:今は、その政治の言葉、権力の言葉もない。今の政治の言葉は広告の言葉、全部賞味期限がある。
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谷川俊太郎さんの回は、とても刺激的で面白く読みました。よい詩は翻訳しても本当にそのよさが伝わるものなのか。大きな問題ですよね。
とてもわかりやすく面白い本なので時々読み返して読書のモチベーションを上げたいと思いました。
世界の文学作品をもっと読みたいと思います。
小節家・詩人編
①いまあらためて考えるー「文学」とは何なのか
加賀乙彦×沼野充義
大河小説に表出された、「私」と「日本」の戦後社会
〇戦後作家の小説はいわゆる私小説ではない。十九世紀後半のロシアの小説が世界で一番素晴らしいと思う。
〇『源氏物語』は世界で最初にできた大河小説。
〇比喩的に言うと西欧近代の大きな小説は大河のように流れ『源氏物語』をはじめとする日本の中世の小説は小さなさざ波が繰り返されるばかりで全体の行き先がよくわからないところがある。
〇読書というのは医師として科学的に言うと認知症を避ける有効な運動になっている。
➁詩の翻訳は可能か
谷川俊太郎×田原×沼野充義
中国の視点で見る谷川俊太郎の詩
〇谷川俊太郎の詩は多くの中国読者が求める社会性があまり多くないのによく読まれている。
〇日本で(ひょっとして世界でも)詩だけで食べていけるのは谷川俊太郎だけかもしれない。
〇中国で詩がこれだけ支持されているのは李白だけ。
〇中原中也は中国になったら全然よくなかった。
〇詩の翻訳は、詩人および詩によって翻訳ができるかできないかが一編一編違う。
〇言語の壁を超えて外国語でも高く評価される作品と、言語の壁を越えにくい作品とがある。
〇ほんとうにいいものは必ずどこかで伝わるはずだということがある。
③私を「世界文学」に連れてって
辻原登×沼野充義
パスティーシュ的小説私論
〇ドストエフスキーは青春期によく効く毒である。
〇千年前の日本の文学と今の日本文学は違うものとして考えた方がいい。現代の日本人は外国人より『源氏物語』をよく理解できるなどという考えは実は成り立たない。
〇翻訳を通じて何かが付け加えられて行く形で外国文学が読まれていくことは、世界文学の重要なプロセスの一つ。
〇小説に限らず、われわれのいものの考え方自体が先人のパスティーシュをしているわけで、言語というのは必ず外から入ってくるものだし、基本は自分の中から出てくるものではない。
〇小説は、とくにわれわれの人生と関わりの深い芸術ジャンルである。
〇小説というのはこれで何が言いたかったんだと要旨に還元できるようなものではない。
文学における異言語の味編
④驚くべき日本語、素晴らしきロシア語
ー視線は地平を超えてー
ロジヤー・パルバース×沼野充義
わたしがアメリカ人をやめた理由
〇日本語は曖昧で非論理的だと結論づける人が多い。が使い方の問題でありゼンゼン曖昧ではない。
〇翻訳できないものがないというのは主に単語やセンテンスについての話であり、問題なのはリズム、音そのもの。
〇ロシア語は方言があまりないが、英語には逆に標準語がない。
⑤「言語を疑う、言葉でたたかう」
アーク・ビナード×沼野充義
詩人としての私の日本語
〇とりかえしのつかない時間、過去、それも一種の外国である。越えられない境界がそこにもあって、そこを何とか超えようとするのが文学的表現だという感じがする。だからこそ文学と言うものには、必然的に越境的な行為が伴うのだと思います。
〇L・P・ハートレイというイギリスの小説家の言葉「過去は一種の外国だ。そこでは様子もやり方もみんな違う」
〇翻訳をするときに一番危険なのは自分が知っていると思うこと。
〇文学は十年前だろうと、百年前だろうとニューズ。それがいつ伝わっても伝える価値がある。そういうニューズを常に伝えるのが文学である。