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※抜き書き
私は私という者が気に入らない。することなすこと後悔のたねならぬはなく、軽率で、内容がなく、しかも薄志弱行で、姑息で、因果で、何一つとりえがない。
>この後は、美しい娘たちへのかわいらしさと、あまり美しくはないが働き者の娘の美徳が、どちらも自分には備わっていないという嘆きに移る。
作者は明治27年生まれで、この遍路は大正7年。
単純計算で作者24歳。
※抜き書き
さて愛知の人の言うには、伊予と讃岐は人の心温かなれど、土佐は然らず云々。
>雨に閉じこめられた遍路さん達が、口々に話し合う。
ここまで無事だったことを自慢する人、明日の米がないと嘆く人、今までの土地の話等。
だいたいこの辺は現代と変わりない。
※抜き書き
遍路には修行しないで廻る人と、修行だけで廻る人との二種がある。
>修行と法楽、二種類の遍路のことがある。
修行とは、無理矢理ふつう語に訳せば物乞いだが、遍路語で言えばお接待をいただくとなるだろう。
日常生活の中ではまず行わないことで、ありがたいが気恥ずかしいものだった。
私が廻ったとき、いただいたものを断らない事も修行と何かで聞いて覚えていたのだろう、そのとき同行していた方がそれはあまり好きではないからと、野菜のお接待をお断りしていた時、何ともいえない気持
ちになった事を覚えている。
あるいは私自身の姿をその人に見たのか。
やくざな遍路の話も出てくる。
毛利の子孫というふれこみで、本業は医者といい、米国から持ち帰ったという秘薬を患者に与え、お代は
いらないと言いつつ、最後にはでは、せっかくだからともらっていく。
なんで毛利の子孫がアメリカかと思うのだが・・・詐欺ってそういうものだしなあ。
同じ事はもう少し後に、「四国霊場奉納経」からの引用という事ででてくる。
※抜き書き
斉しく遍路と呼ぶも其心術行為を剖判すれば大凡四類有、甲なる者は信心、乙なる者は信心兼遊覧、丙なる者は乞食、丁なる者は営業なり。
>営業というのは詐欺とか、犯罪の事か。
現在の遍路でも同じ事が行われていると聞く。
雨月物語、土佐日記、源平合戦、保元物語、播磨風土記、涙草、この作者は実に絢爛に古典をちりばめてくる。
※抜き書き
男子間の友情はまことに濃やかで、ある場合にはそれが最も高価な恋愛の境地か、少なくともその境地を代行している域ではないかとさえ思わせられるものがある。
男子は長い年月にわたって、霊魂の伴侶たりうる女性を求め得なかったらしい。両者の間には知識の不一致があり、世界観のそご(漢字)がある。さればか、夫を理解せよという言葉が明治以後婦道の一として
教えられているが、この言葉ほど浅はかなものはない。
むしろそうした義務的な理解よりは、従来の盲従、盲信をもってはるかに私は価値高しとしよう。けれども、それはある過渡期のやむを得ない事態であって、大概の男子はその妻に対して、一種さびしい、満た
され得ない諦めに終始しているのではあるま���か。
私達若い女性は、無口なのがよいようだ。そしてつつましくあって、しかもこっそり学問をしよう。女は三界に家なしというから、その家なき境涯にいつでも甘んじ得られ、その上子供までも引き受けて行ける
だけの覚悟が必要だろう。子供ともども捨てられる妻は世間にはよくあることであるから。
>今、特に結婚が義務でもない現在を彼女はどう思うだろう。
彼女は自分の意志ではないいいなづけを持つ身だった。
結婚も、出産も女の義務として社会的に圧力をかつてほど受けない状態にあっても、男と女が歩み寄るこ
とがない現在を、どう見るだろう。
※抜き書き
いまはどうか知らぬけれど、私が行った時は、寺背のところに女人禁制の標札が建ててあった。
~和歌略~
しかし、こうした掟は、他の国から渡来したものだろう。わが上代にはないことで、この石鎚山にしても、石土彦神、石土姫神を祭るという以上、すでに女神のいますところに、私達女性が行けないとあっては
、神も心もとなく思われるであろう。
~和歌略~
高野山も久しく女人禁制であったけれど、いまは解かれたというが、あのお山の神は丹生津姫命に座す。
>言われてみればその通りで、かつての信仰ではむしろ女が巫女として尊ばれていた時代さえあった。
命を生み出すことに畏敬を払う原始的な宗教から、整然とした組織に忠誠を誓う近代的な宗教に変換する時点で、何らかの価値観が大きく変換したのではないかと思う。
※抜き書き
祈りの旅に終始した私の四国遍路には、形にして、これと指示し得るような収穫はない。たとえば、私はもとのままの娘で、発端の大津街道で感じた自己悲嘆は、ほとんどあのまま据え置きになっている。
けれども、私がいまこの旅を終わって一つ感じていることは、私に与えられたおじいさんを始め、多くの人々の情である。
自身が貧弱であるから情をかけられるのではなく、むしろ人の中に、大きな情や愛があるのではないかと作者は結ぶ。