紙の本
もっとも恐れるもの
2015/11/03 04:05
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
擬人化された動物たちによる9つの物語が語られる。決してメルヘンチックなものではなく、むしろ著者独特の毒やユーモアたっぷりだ。言葉を奪われた動物たちに著者が思いをめぐらす場面が印象的だった。小説家にとって言葉を奪われることは、何よりも怖いことなのだろう。
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「わたしの希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものがあら現れることだ」——「動物」たちの叫びを著者独自の視点でえがく、最新小説!
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読むものに対して、何かを気づくことを期待している文章がある。高橋源一郎の「小説」はそのような類の文章だ。『銀河鉄道の彼方に』は確かにそのような文章だったし、『恋する原発』もそうだ。少なくとも自分にとっては。気づくこととなる何かは、おそらく読まれるまで何であるのかわからないような何かだ。また、わたしの何かと他の誰かの何かはきっと違う。コトバは世に放たれ、その行先となった場所において幸せな瞬間が訪れることを待つ。そういった佇まいで、そのコトバはそこにあるように見える。
本書は、擬人化された動物を主人公にした連作短編集である。
高橋源一郎という作家は、コトバについて殊更に敏感だ。明治期に小説のためのコトバが「誕生」したことについて並々ならぬ関心を注いでいることはその作品群からもよく知られている。そういったコトバへの敏感さ、コトバに違和を感じることを求めるこの作家が、擬人化された動物という表現形式を採用したということは、本来コトバを持たない「動物」にコトバを話させることにより、コトバの不自然さと不思議さを読むものに強く意識させることを意図したものなのだろうか。わたしは、そこにある、不自然さと違和感から、何を気づくべきなのだろうか。ひとつひとつ真心を持って読んでいく。真心さえあれば、好き勝手に何かを気づいたっていいはずだ。
「動物の謝肉祭」
全体のプロローグとも言える。動物が劇中にて人間を演じるというもの。
初出は、2006年。近年の高橋さんの著作活動に大きな影響を与えた息子の急性脳炎(2009年)や東日本大震災(2011年)といった出来事よりも前に書かれた作品である。この連作における「動物」のモチーフは、それらの出来事による断層を通して一貫したものであったことを示している。それは、おそらくはコトバであろう。コトバとの親密さと疎遠さと。
「家庭の事情」
この短編は、登場動物の代わりに普通の登場人物にしても成立する。成立するが、それを想像するとまったく面白くない話になる。子どもや不妊や夫のことで登場動物たちは悩むが、その内容はどこかで聞いたような内容だ。登場する主体を動物にして文章を綴ることで、その悩みは相対化され重さをはぎ取られてしまう。高橋さん自身が四度の離婚と五度の結婚を通して五人の子どもをもうけていて、まったく典型的でない人生を送っていることも前提として読むと面白いかもしれない。
「そして、いつの日にか」
ヒトがいなくなって、犬がコトバも含めてその世界の継承を行う話。明治の文豪をモチーフにした記述もあり、小説とそのコトバの誕生についてのオマージュとも言える。
「宇宙戦争」
宇宙戦争が始まったという話。宇宙人は犬やウサギとそっくりというものなのだが、これは日常の不安定さと軽さを感じさせようというものなのだろうか。
「変身」
もちろんカフカの『変身』がモチーフになっている。オオアリクイがある日目を覚ますと人間になっていたという話だ。ビクーニャやヒトコブラクダも人間になる。彼らの議論はエンタメ性がある。最後の落ちはなんと言ったらよいのだろう。永劫回帰でもいいのかな。
「文章教室1」
「文章教室」というタイトルが付くにあたり、この連作のテーマがコトバにあることがますます明らかになったと言っていい。動物園の動物たちが書いた詩歌を解説するのだが、それらは「シ」(詩)や「ウタ」(歌)とカタカナで書かれていることだ。そこでは「燃え盛るものの発することば」について語られる。それは非常に貴重で、失われやすい。
「文章教室2」
象の鼻がこれほどまでに気高きものであるとは知らなかった。実篤の不思議なコトバなどユーモアにあふれた短編になっている。この短編の最後は五億年生き続けるベニクラゲで終わる。30分の生しかないユスリカをその前に持ってくることで生と死についての境の「定義」について罠を仕掛けている。そうこの問いが最後の「動物記」にもつながっているのだ。
「文章教室3」
動物相手の文章教室の元教師としての独白。彼は、コトバを特定の誰かに対して書かれた「巧妙に書かれた暗号」として捉えたという。そして彼は「辞書の編纂」を支えるという。この文章教室の教師の素性は明かされない。「人間どもに奪われたことばを奪い返し続けるでしょう」と書くからには人間ではないことだけは確かなようだが。そして、この文章に書かれた「暗号」を自分は真心をもって読むことで明らかにすることができるのだろうか。
「動物記」
最後に置かれたこの作品は、それまでと違い作者(と思しき者)の死にまつわる回想を中心につづられる。これはフィクションなのだろうか、ノンフィクションなのだろうか。もしくは、そのどちらでもないのだろうか。そして、ここに来て初めて、コトバのための連作と思っていたものが、生と死についての連作であることに気づく。自分にとってはそういう仕掛けになっていた。そこにはコトバにできない、コトバを超えたものがあるようにも思えるが、それもまたその瞬間にコトバに回収されいくようでもある。
擬人化された動物を描くことで、ヒトの生と死の意義について考えることを気づかせようとしていたのだろうか。
「わたしが動物の世話をできないのは、彼らがなにを考えているのかわからないからなのかもしれない。動物の世話ができる人間は、彼らの考えや、なにを感じているのかがわかるのだろうか。わかったような気がするのだろうか。わからなくとも気にならないのだろうか。」
そして、この作品の主人公は、最期のときには、ひとりで死んでいきたいと書く。
「周りに、人間は要らない。もう十分に人間には会った。そして、誰ひとり理解できなかったような気がするのである。... わたしの希望は、意識がとぎれる前に、一匹の動物が、なにか獣のような生きものが現れることだ。」
動物の世話ができない「わたし」、ひとりで死にたいと言う「わたし」は高橋さん自身なのだろうか。それともこの連作の最後を締める短編小説の登場人物なのだろうか。どちらでもあるのかもしれないし、どちらでもないのかもしれない。
高橋源一郎の小説は、起承転結があり、前半に謎が提示され、終盤に回収されていくといった一般的な物語的構造はない。しかし、この連作では、最後の「動物記」によって、その前の短編で提示されていたことが改めて別の意味をもって「回���」されていき、そして改めて宙吊りにされているように思われる。期待された何かを気づくことができたのだろうか。
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“ほらね!ほらね!ほらね! わたしのいった通りだろ!……”
ここ含む二行を見つけて 私はこの本を買うことにした。
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"分かっているんじゃないか?何もかも?"
身の回りの動物を見ていると、特にその目を
偶然見た時に、そう思うことがある。
人間は色々の言葉を操り、何もかも分かったような気になる不思議な生き物。しかも、言葉を発して争い事が絶えることはない。なんなんだろ?その状況って。
でも、動物は人間のような言葉を使わずとも通じ合っている。そう見える。真実のみが見えるように。
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寿命があって、その中でことばを持って生活し表現しているのは人間だけだと考えず、動物・虫にも、それぞれの寿命と生活様式からなる表現があるはず。それを人間のことばに置き換えてみた、というファンタジーの要素もあり、そんな設定はわたしには考えつかない!というワンダーの要素もありとても面白く読みました。文章教室3では、ことばを話しだすころから中3までは、生きものにはみんなことばがある、いいたいことがある、という想定で文章を書くことができる能力があるようです。残念ながら年齢を重ねると磨かれるどころか消え失せる能力のようですが。でも、源一郎さんにはそういった表現者たちを発見する能力がありました。
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「文章教室」が最高に面白かった。
動物の詠うウタってのが、可笑しくて切なくて深い。
で、センセイの私情混じった解説がまたいい!
で、最後の方に次々と紹介される人間の子どもたちの詩とそれに対するセンセイのコメントの流れ!センセイが取り乱しててこっち(読者)はその流れに飲み込まれてもう涙出そうです。
そして最後の「動物記」へ続くわけで、こっちはおそらく高橋先生の吐露なんでしょうか、こんなに動物側のお話書いてるのに自分は動物に対しこんな感情であった、こんなことをしてきたってのを正直に語られている。ウサギの件は読んでてつらい。そしてそのウサギへの自分の視線をそのまま自分の最期に向けてほしいと。
ただ動物に看取られたいってのとワケが違うんだ。どんだけ研ぎすませたらこんな感情になるのさ高橋先生。
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動物が言葉を話せたら、何を話してるんだろう?
それを記したのが、この本なのかも。
それにしても変わった内容だったな。
この世界は人間だけのものじゃないってことを、改めて突きつけられた感じがする。
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『動物の謝肉祭』
森閑した森が舞台。森やから森閑は当たり前や。
スポットライトが照射され、まず現れたのは水戸黄門御一行、に扮した動物たち。続いて、うっかり八兵衛のいたちさん、狂走族の動物たち(森に住んでる)、動物園の動物たち、キリンとサルのカップルが登場。それぞれTVショーや健康診断、幼稚園に入れようか問題、痴話喧嘩を繰り広げる。終わり方雑でびっくり面白かった。
『家庭の事情』
不妊に悩むパンダさん。夫のキャバクラ狂いに悩むチーターさん。子育てに非協力的な夫をもつカンガルーさん。日本のそこら中に落ちている問題に、動物たちが真剣に悩んでいる。
『そして、いつの日にか』
人間が滅亡した後、言葉を持ち、人間の文明を継承したのは犬だった。クタバッテシメイというペンネームで浮雲を発表した柴犬のタツノスケくんは、最期を迎えようとしていた(怒られんで)。「言葉の中に、すべては、保存されます。だから、わたしは、言葉を作ろうと思ったのです。だが、そもそも、言葉のない世界に住んでいたわたしたちにとって、言葉を身につけることは……苦痛でした。」
『宇宙戦争』
着信音「運命」が鳴る。何度も。出ると、「宇宙戦争がはじまったよ」と言う。そして、知らぬ間に巻き込まれつつある。秘密戦隊の隊員だという者がいて、しょくぱんまんやQ-13号に姿を変える。カオスだー。
『変身』
ある朝、不安な夢から目を覚ますと、オオアリクイは、自分が檻の中で、不格好な人間に変わっているのに気がついた。
ある朝、不安な夢から目を覚ますと、ビクーニャは(以下同)
ある朝、不安な夢から目を覚ますと、ヒトコブラクダは(以下同)
元オオアリクイと、元ビクーニャと、元ヒトコブラクダの人間が一同に会す。それぞれの種族の優れた点を主張する。
『文章教室1』
「刑務所」(動物園)の動物たちにタンカ(短歌)を教える。
−「えっシロクマなのに黄色っぽいじゃん、変なの」っていわれて猛烈にヘコむ
−「寒いね」と話しかければ「南極より寒いね冷房効きすぎ」と答える友のいるあたたかさ
−つよく生きろというの檻の中でもつよく 生きていないようなおとなたちが
動物園の動物の中にも、今昔や時代性がある。
『文章教室2』
次は短歌ではなくまとまった「文章」の批評です。
アフリカゾウの鼻についてのエッセイ、寿命が1時間のユスリカの遺書、5億年も生きるベニクラゲの文章。それぞれの死生観がおもしろい。
『文章教室3』
文章教室の先生がある「陰謀」に巻き込まれちゃった。「巧妙に書かれた暗号」を読み解きます。こどもたちは知っている。あらゆる生きものがことばを持っていることを。
『動物記』
最後の一作は私小説のような、エッセイのようなもの。動物との思い出、生と死の境目の話。動物との関わりは浅くない人生を歩まれているようだけど、なにかを育てるには向いていないと自分を評している。
私は猫と暮らしている。毎日遊んで一緒に寝ているけれど、彼らの考えていることはとんとわからない。���お腹すいた」ぐらいかな、明確にわかるの。人間と動物の違いはと聞かれれば、やっぱり言葉を持っているか否かと答えるだろう。猫には否定、苦悩、死などの抽象概念がない。
じゃあ言葉を持てば人間と猫も変わりない生物になるのか、と言われればそれもわからないけれど。本著では、出てくる動物の殆どが言葉を持ち、巧みに操る。そして、人間のような悩みを持つ。
ファンタジーといえばそうだし、ツッコミどころも満載だったけど、一笑できないなにかがあった。
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『スケさんやカクさんや風車の弥七さんや疾風のお絹さんが、身を粉にして働いて、お膳立てをすべて作ってから、最後に出てきて、ワンフレーズいうだけですよ〜
せめて、印籠ぐらい、自分で持てよ〜』
『「もう二度と、あんなことはしない」と夫は約束した。チーターさんは「あんなこと」とは「キャバクラで遊ぶこと」だと当然思った。それに対して夫の考える「あんなこと」とは、「キャバクラ遊びを妻に見つかること」だった。』
『世界を保存するために、もっとも必要なものは…言葉なのです。』
『この次、電話をかけてくるなら、アンジョリーナ・ジョリーみたいな声の女がいい、と俺は思った。待てよ。アンジョリーナ・ジョリーって、どんな声だ?』
「あんたたちが攻めてるわけ?」
「正確にいうと、銀河連邦が、天体1262121を攻めるのよ」
「理由は?」
「決まってるでしょ。環境汚染、汚職、不倫、甘いものの食べすぎ、美容整形、派遣社員への差別、ニート、鯨の絶滅、こんなものを放っておいて、宇宙全体に広がったら、宇宙そのものの破滅よ」
『「寒いね」と話しかければ「南極より寒いね冷房効きすぎ」と答える友のいるあたたかさ』
『みなさん、どうか耳をかたむけてください。わたしのことばにではなく、みなさんの、内側にあって、燃え盛るものの発することばに。』
「君も美しい、僕も美しい僕も美しい、君も美しい美しいものだらけの世界」
『だいたい、それを決めるのは、わたしではない。わたしは死んでゆく身にすぎず、わたしの死に方を決めるのは、おそらく、残った人間の仕事なのだから。』
『最後の場所は、それほど暑くも寒くもない、木陰が望ましい。家族は不要だ。周りに、人間は要らない。もう十分に人間には会った。そして、誰ひとり理解できなかったような気がするのである。』
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著者による「ぼくらの民主主義なんだぜ」が、娘の学校の夏休み課題図書(?)リストにあった。他の本は一冊も読んだこともないものばかり。「この本持ってるぜ」と選ばせようとしたが、ダメだった。
「ぼくらの〜」は作家としての意見だが、こちらは作家の作品だ。むしろこちらの「動物記」を高校生に読んでもらいたい。
意見を聞いてあれこれいうぐらい、政治家にだって出来る。作品を読む力をつけるほうがいい。だが、僕にはその力がなかった、かもしれない、と思わせる本だった。
言葉を持たないはずの動物を擬人化することで、著者はシニカルに人間を見直そうとした、のかもしれないが、そういう作品ばっかりでもない。動物が言葉を獲得したが、やっぱりいらなかったとか、森羅万象という人が発明した言葉には、ゴキブリも入っているのかな、とか。
そして表題の「動物記」は、著者の動物との原体験、っぽいのだが、妻が飼育を放棄したため虐待同然に放置して飼っていたウサギが死に、肩の荷をおろし、母がなくなった時に同じ感情をおぼえる。
そして自身が死ぬときには、何か獣のようなものに見つめられ、最期を迎えたいという。どうせその獣が何を考えているかはわからない。その視線は、自分が動物をみているそれと同じである、と。
そうなのだろうか。動物という言葉が出てはくるが、結局のところ、人同士だってあんまり変わらないのかもしれない。いや、そこは抗いたい気もする。高校生の感想や如何に(課題図書じゃないけど)。