投稿元:
レビューを見る
職業としての小説家 村上春樹著 「個人的なこと」と公共性結ぶ
2015/11/8付日本経済新聞 朝刊
本に出合う読者がまず目にするのは題名だ。読者にとっての想像の出発点であり、読み進める羅針盤ともなる。では本書の題名は? それが示すのは村上春樹にとって「小説家であること」が「職業」である(ありうる)ということだ。
「職業としての○○」なる題名でも、空所を埋めるのが例えば「大学教授」なら、経営努力や文科省に追い立てられ、学生の顧客扱いを求められ、学究の徒たる自分を見失うことへの批判の書だろうし、「遠洋漁業」(まだそこにロマンはあるのだろうか)、「商社マン」(『課長 島耕作』的な)等々、空所を補うものは無数にある。埋めて馴染(なじ)まぬものもあって、「職業としての詩人」はほぼ語義矛盾、幻の存在についての本になる(長年、日本で詩人が職業なのは谷川俊太郎だけと言われてきた)。詩人はあくまで存在であり宿痾(しゅくあ)であって、だからこそ徹頭徹尾芸術としてあるはずだ。
では「小説家」はどうか。かつてエンターテインメントの作家たちは「大衆にも理解できるからこそ売れるのだ」と、職業として成立することを半ば蔑みの理由とされた。「文学的」作家たちは、鴎外や漱石のように定職を持つ者はともかく、職業として成立するか怪しい点にこそ芸術であり前衛である根拠があると自負していた。その意味では、世界的ベストセラーを持つ村上春樹は「小説家であること」で暮らしつつもその芸術性を自他共に認める、数少ない「職業としての小説家」だと言える。
結果、本書は題名から想像される「小説家一般」についてより、村上春樹個人のことをもっぱら書いている。「小説を書くとはどんな作業か」「賞をどう思うか」「オリジナリティーとは」等の問いと、「『たとえば』を繰り返す作業」「ショールームのようなもの」「時間の検証に耐えること」といった回答には、どこまでも「個人的な意見ですが」という注意書きがつきまとう。
その意味で、著者自身も後記で書く通り、本書は「一般論があまり好きではない」著者の、ごく個人的な記録に見える。にもかかわらず、あえて一般化された題名をつけ、その上で改めて「個人的なことだ」とわざわざ謙遜する――そのような、公共性と私的領域のあられない結びつけこそが「村上春樹的なもの」なのだ(それが彼の読まれる理由でもある)。だからこそ、読後に私たちは「職業としての村上春樹」をやり続けている著者に、嘆息と共に感心せずにはいられないのだ。
(スイッチ・パブリッシング・1800円)
むらかみ・はるき 49年京都市生まれ。作家、翻訳家。
《評》早稲田大学准教授
市川 真人
投稿元:
レビューを見る
若いころから読んできた作家のさまざまな側面を知ることができて興味深い。個人的には、まだまだ十分ではなかったと作家が言う、初期の作品に思い入れがあります。
投稿元:
レビューを見る
自身による、村上春樹作家論……かな?
「ああ、そうそう、さすがハルキさん、わかってるー」
「うっ、そうか、イタイとこ突かれた……」
「うんうんなるほどね、参考になるよ」
などなど、全編とっても素直にスルッと読めました。
やっぱさー、ハルキさんの文章って隅から隅までしっくりくるんだよね、どり的には。ちょっとスカした感じも含めて。
アレですよ「何事も言い方次第」ってことね。
おかげさまで元気出ました。文章書きでお金を頂いている者のハシクレとして。
投稿元:
レビューを見る
村上春樹という人物がよくわかります。本人の言葉で、今まで何を考え、何をどう書いてきたのかが綴られています。
これだけ自分のあり方を考えつつ小説を書いてきた方って他にいるのでしょうか。登場人物に名前が付いた時に読者として驚きましたけれど、著者自身の中にそうしなければならない必然性があったことなど、様々な段階での考えが腑に落ちます。
投稿元:
レビューを見る
村上春樹さんのパーソナルな面がわかる自伝。小説家という職業について知るというよりも、生き方についてた改めて考える書という側面が自分にとっては強い。相変わらず流れるように頭に入ってくる。「走ることについて語るときに僕の語ること」はランナーについてのバイブルだが、こちらは生き方全般についてのバイブルになり得る。
投稿元:
レビューを見る
小説家としての自身を講演風に綴る。
表現として小説を書くことは効率が悪いと。ふむふむ。
それでも書かざるを得ない人が小説家なのだろうなあ。
投稿元:
レビューを見る
やっぱり何かを成し遂げてる人って、苦労してるんだなあ。
そういう事実は、若い僕にとっては非常に励まされる。
投稿元:
レビューを見る
村上春樹さんが書いた小説家とは何か?というエッセイ本。自分が趣味で書きためていた文章を、翻訳家の柴田さんの雑誌に連載として渡したものをベースとして、加筆修正した内容となってる。
ただ全体的にどこかで読んだ内容の文章を再構築した感じがあり、村上春樹のエッセイを全部読んでいるような人(要はオイラのような人)にとっては、若干食い足りない内容ではあるのも事実。
あと、小説家という特殊な職業の内容を垣間見えるのも面白いので、村上ファンでなくても楽しめる内容かな、とは思う。
投稿元:
レビューを見る
自伝的エッセイというか、何か意思表明みたいな感じ。
贔屓目無しにここまでの日本人作家は近年いないと思う、まぁ妙な性への拘りみたいなところは???ではあるけれども、それも含めて村上春樹の世界なんでしょう。とにかく自分のできる最善の策を生活面の細部から打って身を投げるという行為はやはり敬意を表するに値します。まさに健全な肉体に健全かつ不健全な精神が宿るってやつです。この本はどこかで読んだ内容ばかりといえばそれまでですが、一つに纏まっているところに十二分の価値があります。
さておき当方はそんなにこの作家のファンという訳ではないですが、この作家を正当に評価できない・しない人達の論調は何処かズレているような気はしますな。自分の感性を信じることは極めて重要ではありますが、それを超えて世界が注視する状況を正視できないのはやはり何かを掛け違えていると真摯に襟を正す必要はあるんだろうなと。まぁ愚者の戯言ではあります。
投稿元:
レビューを見る
内容自体はかなり正直にぶっちゃけている。熱心な読者が読むことを想定されていると思われ、現在のハルキスト的状況についても、述べられているのだが、そういった中身を有する本であるにもかかわらず、メディアは出版業界をめぐる事件の一つとして紀伊国屋の買切りを報じており、中身に触れてから報道しとるんかいな、という思いが。
投稿元:
レビューを見る
2015年83冊目。
村上春樹さん自身が言う「トンカチ仕事」という言葉がとてもしっくりくる、それくらいストイックで地道な作家。
「その光景はどこから生まれるの?」と、一見して「閃き」の作家にも思えるかもしれないけれど、実はとにかく規則を大事にし、身体を鍛え、多くのものを地道に溜め込み、じっくりと長い時間をかけて(危険も犯しながら)深い場所を探っている。
作品ごとに挑戦項目を決めて、創作を通じて自らを高め続ける姿勢は、彼の作品がそんなに好きでない人にも響くと思う。
もう一つすごいのは、「総体の受容」と「解釈なき提示」ができること。
「総体的な物語」と「治癒」の関係は密接にあると感じていて、“whole”は“heal”“holy”“health”と語源が同じということにも表れている。
その癒しは「この言葉に救われた」というような断片的である以上に、もっと深くて捉えどころのない、やはり「総体」的なものだと思う。
物語全体を一緒にくぐり抜けることによって得られるもの。(もちろん断片的に力になるシーンもあるのだろうけど)
この本は村上春樹さんの作品をあまり読んだことがない人にも読みやすいもの。
作品を多く読んでいて更に深く創作哲学に触れたい場合は、インタビュー集である『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』がオススメ。
投稿元:
レビューを見る
こんなにストイックに、そして深い根っこの部分で繋がって心を揺さぶり続ける作家にこの先出会えるのだろうか?
こんな素晴らしい作家と同時代に生き、出会えたことを幸せに思う。
村上春樹の小説家としてのあり方そのものが、自分のやりたいように好きにやっていいんだ!という生き方のヒントと励ましを与えてくれる。
まずは十全に生きること。
そのためには魂の入れ物である肉体を確立させること。
投稿元:
レビューを見る
15/09/11。
11/29読了。時間かかり過ぎだが、一気に読むより、じっくり読めた。極めて上質のエッセイ。今日は少し寒いけれど日向ぼっこで洗濯物に囲まれて読み終えた。幸せ。
投稿元:
レビューを見る
村上春樹が自らの職業である「小説家」について、読者に語りかけるような文体で解説したもの。といっても、小説家一般のことではなく、あくまでも個人的体験としての小説家についての解説である。
本書は、紀伊国屋が販社を通さずに初版の九割を出版社から直接買い取ったことでも話題となった。それはどうでもよい。発売数日後でもAmazonで普通に買えるし。
村上さんは、括弧書きで小説家の「資格」という言葉を使う。もちろん小説家になるのに資格試験を受ける必要はない。村上さん自身も、小説とは間口の広いもので、そのためか小説家はこの世界に入ってくる人に対して寛大だという。それでは、小説家の「資格」とは何か。それは、村上さん自身がそう語るように小説を書くことが楽しいことでないといけないということなのかもしれない。書くことは、音楽を演奏するのと似た感覚だという。それを村上さんは「自由でナチュラルな感覚」と呼ぶ。
小説家の「資格」とともにこの本で書かれているのが、帯でも「自伝的エッセイ」と銘打たれているように小説家となったきっかけやどのように小説を書いているのかなど小説家の「実践」についてつづられている。自身、非常に個人的であると言うだけあって、一般的な小説家とは違っているのかもしれないが、小説家としての実践についてとても自覚的で興味深い。
もちろん、過去にも何度も紹介されて有名な小説家になることを決めた神宮球場のエピソードにも詳しく触れられている。「「自分は何かしらの特別な力によって、小説を書くチャンスを与えられたのだ」という率直な認識」(p.53)という言葉が印象深い。
村上さん自身があとがきでも書いているように、本書の内容にはどこかで読んだことがあるような内容も多い。具体的には、『走ることについて語るときに僕の語ること』や『夢を見るために毎朝僕は目覚めるのです』などで似たようなことが語られている。人称や固有名などの文体や小説技法のこと、海外での出版売り込みのこと、長編小説は午前中にきっちり十枚程度書き上げること、などがそうである。そういったことが端正にまとめられているが、新しい情報は少なかったかな、というのが正直な印象だ。
その中でも「第十回 誰のために書くのか」の章にある「著者と読者の間のナチュラルな、自然発生的な「信頼の感覚」」というのは実感がある。村上さんの書くものに対するある種の信頼があり、それが本書も含めて村上さんの書籍は出版されれば読者として常に読むという行為につながっている。村上さんは、小説を書くことは、スロー(低速)で効率の悪い作業だという。言いたいことを表現するのであれば、もっと手短に直接的に言うことが可能だと。それはもちろん読む側にとっても同じだ。また、村上さんが言うような信頼関係を取り結ぶのにも時間がかかる。それでも小説という形を取るのであれば、それは強制ではなく、「ナチュラル」にしか発生しない。そうか、「ナチュラル」であることがテーマであるのかもしれない。
----
紀伊国屋による買い付けはどのような影響を与えたのだろうか。もし仮に買い取りが前提のために地域の本屋さんまで本が行き届���ず、結果、在庫があったAmazonから購入するといった行動を読者がすることもあったのかもしれないと思うと、もしかしたら地域の本屋さんでなくネットで本を買うという習慣が作られるきっかけを作ったということになった人もいるのではないだろうか。
投稿元:
レビューを見る
小説家という生き方を貫く姿勢が素晴らしい。尊敬する。自分も前向きに一つ一つ目標を乗り越えていけるようにがんばろうと思わせてくれる。