紙の本
マキューアンらしい技巧
2023/05/28 14:35
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投稿者:ichikawan - この投稿者のレビュー一覧を見る
一つ間違うと社会派ではあるが通俗的な小説になりかねないテーマを、マキューアンは彼らしい物語に仕立てている。その傑作群と比べると少し落ちるのは否めないが、またマキューアンらしい技巧は味わえる。
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裁判の「その後」にこそ人生がある
2023/05/19 16:50
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投稿者:オオバロニア - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教上の理由から輸血を拒む17歳の少年と、輸血の是非を判断する立場のベテラン女性裁判官の話。医療・宗教・法律の観点から装飾の少ない文章で淡々と展開される法廷劇と、同時並行で展開される裁判官のプライベートな問題をめぐる苦悩のバランスが絶妙で面白い。
あえて判決のシーンはさらっと描き、物語はむしろ少年と裁判官の「その前」「その後」に焦点を当てられるところも素晴らしくて、その裁判を経て続く2人の人生に何をもたらしたのかを知った読後感は凄い、としか言いようがない。人生における選択に100点の解答がないことを改めて気付かせてくれる小説。
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重いテーマをしっかりと描き切った作品。
2016/03/26 19:57
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投稿者:紗螺 - この投稿者のレビュー一覧を見る
宗教上の理由から輸血を拒む少年とその親に対して、その宗教をある意味「否定」した判決をくだす裁判官。結論を出すまでの葛藤の描き方と結論そのものは納得のいくものだった。
その後、少年の生き方が変わり、しかしそこに裁判官が誤った関与をすることによって彼は…という展開は予想外、かつかなり衝撃的だった。
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「公私混同」という言葉がある。公の仕事に、私的な事情を持ち込むことを指す。ふつうは望ましくないことと考えられている。ふりかえって今の我が国の政治家の言動をみていると、私的心情や私利を隠しもせずに前に立てていっこうに恥じるところもないようだ。政治家相手に倫理規範を問うのがはじめからまちがいなのかもしれない。しかし、法律家だったら話はちがってくる。裁判官が審理に際し、私情をはさむことなぞあってはならないことだ。だから、我々は時々テレビ画面で見る黒い法服を着た人たちの家庭事情なぞ想像したりしない。黒い法服自体が一私人としての彼らの個性を覆い隠し、裁判官という公の存在しか見えなくさせているシステムの一部なのだ。
フィオーナ・メイは五十九歳。高等法院家事部で裁判長を務めている。夫は地質学が専門の大学教授で、ロンドン市内の恵まれた地区に住んでいる。離婚による親権争いなど今も複数の裁判を抱えている。六月の雨の日曜日だった。フィオーナは夫から突然、他の女と性交渉を持つことを認めた上で結婚生活を続けたいと持ちかけられ、怒りを抑えられなかった。そんな時、助手から緊急手術が必要な十七歳の少年が輸血を認めないので、病院側が裁判所に訴えてきたという連絡が入る。少年も両親もエホバの証人の信者だった。
エホバの証人という宗派では、他人の血を体内に入れることは聖書が禁じていると主張し、輸血でトラブルが起きることは知っていた。今回の場合、白血病細胞を標的とする薬が免疫システムや赤血球、白血球を作る能力を衰えさせるため、至急血液製剤を輸血しなければ、患者である少年は軽くても視力が奪われ、最悪の場合死に至る。フィオーナは関係者を集め話を聞きいた上で、自分の目で少年を見て話を聞いてから、最終判決を下すと言いおき、病院に向かう。少年の年齢が自分の判断で輸血を拒否できる十八歳まであと少しというところがみそだ。輸血拒否が親や長老による強要なのか、少年の判断力はどこまで発達しているのか、という見極めが何より重要である。
この緊急事態が進行していく間で、夫婦の危機も事態は深刻さを増してゆく。フィオーナは夫の申し入れを拒絶する。そりゃそうだろう。実に虫のいい話ではないか。そもそも六十歳にもなってたかだか何週間かセックスしなかったから、他の女でエクスタシーを感じたいなどと言い出す男の気持ちが分からない。「公私混同」の話を出したのは、ここのところで、フィオーナは内心は動揺を受けながらも、裁判に関わる間は冷静にことを処してゆく。読者は、「私」である時のフィオーナの夫への怒り、自分の美貌の衰えに対する自覚、相手の若い女への嫉妬、といった負の感情の奔流を知っている。それだけに「公」の場でのフィオーナの感情に溺れない態度に感心もすれば、その辛さを慮りもする。抑制の効いたマキューアンの筆は、窓外や室内の光景を客観的に眺め渡してゆくだけだが、どこまでも冷静さを装った視線が、かえって心の中の葛藤を窺わせて深い印象を残す。
少年に会ったフィオーナは、詩を朗誦する少年の現在の心境を知り、少年の弾くヴァイオリンの伴奏に合わせて「サリーの庭」を歌って聞かせる。フィオー��の判決により、少年は輸血を受けることとなり、命は助かる。しかし、それは「エホバの証人」という宗教への離反を意味するわけで、少年が得た新しい命と人生にとってはまったく新たな問題が生じることとなる。同じ家の中で、互いの間に距離を置く、夫との冷たい戦争状態は続くが、法曹界における優秀なピアニストでもあるフィオーナは、コンサートその他に引っ張りだこで、その練習もしなくてはならず、恒例の巡回裁判のため英国各地を旅しなければならない。いかにも英国小説らしく、田舎の館の構造から、あまり美味しくなさそうな料理の献立、バッハの「パルティータ」に始まるクラシック音楽の解説と、悠揚迫らぬ展開で小説は続いてゆく。
しかし、実はフィオーナの知らないうちに悲劇は進行していた。小説の主題は、一人の女性裁判官の行動や心理を通して、神ならぬ身の人間が、あくまでも「私」心を交えずに、どこまで公正な判断を通して裁判という「公」の仕事を全うすることができるか、ということを真正面から、真摯に問いかける。人間というものは、自分を勘定にいれず事態に処しているつもりでも、どこかで私事のために判断に影響を受けることは否めないのではないか。普通の仕事なら、そんなことは当然である。誰もそれを責めはしない。しかし、法の守り手である裁判官その人ならどうだろう。自分の判断に自身がもてるだろうか。それまでフィオーナに寄り添って事態の進み具合を見てきた読者は、結末に至り、フィオーナとともに疑心暗鬼に襲われる。あの判断は、あの処理は、あれで本当に正しかったのか。心のなかに、夫との不和による寂しさの代償を求める気持ちはなかったといえるのか。取り返しのつかない事態を前にしての慟哭は胸に迫る。
本格的な小説だ。決しておもしろいとはいえない。読後に残るのも悔いに満ちた苦い悲哀の味である。それでも、この小説を読んでよかった。そう思えるのは、人生も終わりに近づいてきた女性が、ただ一人愛してきた男性から最後通牒を突きつけられ動揺する姿に、人間として感動させられるからである。決して美しいとか見事だとかいうのではない。じたばたするその態度は醜かったり哀れだったりする。しかも、よくよく考えれば彼女がその仕打ちを受けねばならなかったのは、彼女のそれまでの仕事の完璧さによってである。自分のせいではないのに、罰を与えられる。これはもう語の真の意味で悲劇としかいえない。その神々しいまでの悲劇性故に、つまらぬ凡愚の輩である評者などは、静かに頭を垂れるしかない。
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私生活に問題を抱える初老にさしかかりそうな女性裁判官と宗教的理由で輸血を拒否するあと3ヶ月で成人と認められる瀕死の少年。
宗教的・倫理的問題ももちろん語られるのだけど、それ以上にこの2人の物語であることにジーンとする。
裁判のケースとしてくくることは可能なのかもしれないけれど、その後ろにはそんな風にまとめることのできない人の数だけ、星の数だけの物語が存在する、ということを小説で表明している。
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宗教上の理由で輸血を拒むの少年のお話、というので読んでみたんですが、どちらかというとメロドラマ風な?
そんなわけで私の期待とは少し違ったけれど、法で人を裁くということのシビアさや、裁判官として人を裁くことの重みが、ひしひしと伝わってきた点は面白かった。
読みながら、(もうすでにすっかり忘れてたけど)裁判員制度やだなーって思った。職業として自分で選んだわけでもないのになぜそんな事せにゃならん。法で人を裁くことと国民感覚に隔たりがあるのは当たり前。裁判自体が非日常なんだから。そこに国民感覚を入れることがそもそも不自然な気がする。
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主人公の女性裁判官。
もう一度ときめきたいと言い出した老夫とのプライベートな面倒に巻き込まれたタイミングで、エホバの証人信者の輸血ケースで信仰と生命の問題に直面させられる。
そう、人生に於いて、コトは常に順序良くやって来てくれる訳ではない。だから日々の些事を疎かにする事なく、一つずつとちゃんと向き合って、丁寧に対処しなくちゃいけないんだ。
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今興味のある作家のひとりであるイアン・マキューアン。
普段だと購入派のわたしは出費を抑えるために文庫を待って購入するのだが、マキューアンの作品の多くが文庫化されていないようで、文庫化された「贖罪」は何故か現在入手が出来ない。そこで今回は奮発して、文庫を待たずに購入してみた。
すごいわたし。贅沢本読みさん。
女性裁判官フィオーナは、裁判官として様々な問題に向き合うと共に夫との夫婦関係の問題も抱えている。
そんなフィオーナの元に、信仰のために輸血拒否をする少年アダムについての審理が持ち込まれる。成年に僅かに月数の足りないアダムは、知的で思慮にも満ちている。この審理のためにアダムと会うことにしたフィオーナは、アダムと話し自分の考えをまとめる。
この作品に興味を持ったのは、やはり信仰と生死の問題という内容に惹かれてだった。
わたしはこの少年の信仰である‘ エホバの証人’ について個人的には知識はない。以前別の書籍の感想の際に述べたように、キリスト教とエホバの証人とを混同されたかたに気持ち悪がられて辟易したという程度で、だからといってエホバの証人について知ろうと思ったこともない。
ただ、信仰とは生きる支えでありより良く生きるための拠り所と考えるわたしにとって、信仰のために命を失っては本末転倒ではないだろうかと思ってしまう。勿論、個人の信仰に他人が軽々に口を出すべきではないので、こういう考えを家族以外に伝えることは基本ないのだが。
実際に日本でも‘ エホバの証人’ の患者が子供への輸血を拒否するという事件はあったように記憶している。その結果どうなったのかなど記憶にはないのだけれど。
こういう問題は医療や法曹の世界に関わるひとにとっては、非常に大きな問題となってくるだろう。信仰は個人的な問題であるため、一概にこれが正解と言えるものではないだけに大変難しいことだろう。
この作品でフィオーナが出した答えは一体どういうものだったのか、興味のあるかたは是非ご自分で読まれるといいと思う。
本作では他にシャム双生児の結合部離断術に関する問題もフィオーナは扱っている。
このことも以前、ベトちゃんドクちゃんという腰の部分で結合された少年のどちらかの機能が低下したかで離断するしないという報道があったと記憶している。
ベトちゃんドクちゃんの映像に衝撃を受けたと共に、ひとりの命のためにひとりの命が失われるということの是非に速やかに答えを出さなくてはならないという難しい決断に自分なりに頭を悩ませ考えたりした。
この問題も考え方は様々で、元々はひとりとして考えるというものもあるだろうし、心臓など一部臓器は共有しているものの頭部が別れていることからふたりは別の個性を持つひとつの身体という考えもあるだろう。
わたしとしては、明らかにどちらか一方の機能が低下し、それを補うためにもう一方がより負担をし結果命をも失うというのは余りにも惨いとも思える。だからといって、さっさと離断してしまえと言い切れる程後悔なく自信を持って言えるかというとそうでもなく。
この問題でもフィオーナの出した答えに興味があるかたはご自���の目で確認をされると良いだろう。
ひとつだけ言えること、裁判官って大変だ。
裁判官だってひとりの人間であって、神ではない。法律に基づいて決めるだろうけれど、信仰や命についてこうするべきだなどと言い切れるものではないだろう。
わたしには務まらない仕事だなと、敬意をこめて思う。
フィオーナの家庭での私人としての顔と裁判官としての公人の顔、このふたつの側面からフィオーナの心情を描いていく。
夫との問題だけでなく、裁判で関わったアダムとの問題も抱えて悩み惑うフィオーナ。
フィオーナがどういった結論を出していたのなら良かったのか。
いつものように無駄のない美しいマキューアンの文章で、生きるとは何か、信仰とは何か、また、人間の成長や成熟が描かれ最初から最後まで読者ひとりひとりに考えさせる深い一冊。
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未成年 イアン・マキューアン著 人生の機微映す小説の醍醐味
2016/1/17付日本経済新聞 朝刊
人生にとって、フィクションとは何か。イアン・マキューアンという熟練の小説家による『未成年』において、その問いは新しい息吹を与えられた。引き締まった文体による法廷劇と家庭のドラマを通じて、ひとりの女性の心の揺れを取り上げつつも、巧みな比喩や、音楽の描写を織り交ぜて人生の機微を描き出す優雅な筆致は、小説の醍醐味を存分に堪能させてくれる。
高等法院家事部で勤務する裁判官フィオーナ・メイは、六十歳を前にしたある日、夫から年下の愛人を作りたいと打ち明けられる。夫の性生活を受け入れてともに暮らしていくべきか、彼と別れるべきか。人生の岐路は思いがけなく訪れる。
物語のもうひとつの中心となるのは、白血病を発症しながらも宗教的な理由から輸血を拒む十七歳の少年という法廷の事案である。一方で、自己決定を行える年齢の十八歳にはわずかに満たず、他方で成熟した知的能力を見せる少年は、成人とみなすべきなのか、そうでないのか。法的にも曖昧な状況の中で、少年の容体は刻一刻と悪化していき、フィオーナはここでも決断を迫られる。
本作で描かれる裁判官の世界は、法廷とその周囲で完結している。意見の応酬も判決も、法廷の外に持ち出されることはなく、判決文は裁判官仲間での論評の的となる。法曹界とその外には、明確な境界線が引かれている。
しかし、白血病の少年に関しては、決断を下すためにフィオーナは病院に出向いて少年と面会する。こうして境界線を越えたことで、彼女は自らの裁定が生んだ現実の結果を突きつけられることになる。私生活での選択と、法廷での裁定は、こうして彼女の目の前で交錯する。
現実はしばしば多様であり、両義的である。そこに、生命の価値や、個人の尊厳といった基準を用い、法廷は裁定を下す。決定という行為は現実に対する介入であり、ときには真実を裏切る。少年をめぐる法廷劇は、法の世界が必然的に含み込むフィクションの要素を明らかにする。
一方で、小説というフィクションは、何らかの決定を下すことはない。決断を迫られ、苦悩し、そして前進していくひとりの女性に対し、小説は価値判断を下すのではなく、そのドラマを包み込むようにして見つめている。ひとりの人間を裁くのではなく、共感をもって見守るという、物語の持つ強さを、『未成年』という小説は改めて教えてくれる。
原題=THE CHILDREN ACT
(村松潔訳、新潮社・1900円)
▼著者は48年生まれの英国の作家。著書に『贖罪』(全米批評家協会賞)、『甘美なる作戦』など。11年エルサレム賞。
《評》同志社大学准教授
藤井 光
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イアン・マキューアンは何作か読んでいるのだけれど、私にとってはどうもとらえどころがない。決定打がないというのか、こういう人、こういう作品、と形容することが出来ない。
なのに、出るとつい手にとってしまう。
まず、有能な女性裁判官と大学教授の夫という設定がいい。60前の2人は、まあ世間的に言って初老に入りかけていると言っていいだろう。その夫から「フィオーナ、わたしたちが最後に寝たのはいつだったと思う?」「わたしは59だ。これが最後のチャンスなんだ」と言われる。「死ぬ前に一度情熱的な関係を持ちたい」と若い女に走る初老の夫に、読んでいる私はつい吹いてしまった。しかも夫は妻と別れるつもりはなく、若い女との関係を認めてくれと言うのだから、まあ虫がいいよね。
大学教授という社会的地位がある夫が60前に望むのがそれかい、というのと、いくら有能だろうと社会的な地位があろうと結婚して何十年たとうと、夫婦の関係というのはつまるところこういう下世話で赤裸々なところから離れられないのかな、というのと。
そこに、輸血を拒否する18歳前の少年が登場してくる。先の夫婦の関係があるからこそ、この少年の純さ、少年とのシーンが納得もされ、生きてもくる。
ちょうど書評があった。↓
http://book.asahi.com/reviews/reviewer/2016021400015.html
私は「意思と生命とどちらを尊重すべきか」というテーマとして読まなかった。
月日は人を成熟させないんだな、というのが最も大きな感想だ。60歳前だろうが18歳前だろうが、ただ経験量の違いがあるだけで、本質的な違いはない。それは大した違いとは言えない。それがよくわかった。
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仕事と家庭での葛藤が人間らしさを感じさせる。ただ、少年が関わるところは興味深く、結末も考えさせるところがあったが、家庭のいざこざは少しどうでもいい感じもした。特に夫関連の話はなくてもいいような気がする。主人公と少年だけでもっと盛り上げて欲しかった。
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宗教上の理由から輸血を拒否する少年と、生活上の危機にある女性裁判官。二つの物語が平行して進行してゆく。すっきりした文章で裁判のシーンもわかりやすい。未来を手にしたはずの少年、ラストが胸にしみる。
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どんどんページをめくらせる面白さと、深く考え込まずにはいられない重い問いかけをあわせ持つ、さすがマキューアン、という一冊。
宗教を(とりわけカルトを)批判するのはたやすい。しかし、宗教的迷妄から自由になったとして、それに代わりうる確かなものを私たちは持てるのか。誰しも何かの価値を信じて生きているわけで、そうである以上、独善性からは逃れられない。生きているかぎり、「正しさ」や「意味」を追求することはやめられないだろうが、真摯に考えれば考えるほど、それは苦しい行いになる。
主人公の女性裁判官が関わる裁判の事例が、それぞれに興味深い。正義とは何か、きわめて具体的に考えさせられる。中心となるのは、エホバの証人の信者による輸血の拒否の問題だが、判決に至る思考の過程が丹念に描かれていて、納得の判決となる。だがしかし、それがどんなに精緻な論理で貫かれていても、信者の少年の魂を救うことはできないのだった。この皮肉で冷厳な事実が胸に突き刺さる。
主人公は仕事に忙殺される一方で、夫との問題を抱えているのだが、ここにもマキューアンらしいひねりがある。主人公は裁判官としてはきわめて優秀なのに、身勝手な夫の言い分に動揺する姿は若い娘さんのよう。(夫は、多忙な彼女が「7週間と1日」ベッドを共にしていない事を責め、堂々と浮気を認めさせようとする。なんともまあ…。)このあたりの描写が円熟の筆だなあと思う。
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裁判官としての葛藤はもちろんのこと,それ以上に素晴らしいのは夫婦間の危機の中での心理描写だ.また宗教と法律と医療のそれぞれの信念のぶつかり合い,考えさせられるところが多かった.
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人間が人間を裁くということ。人間の弱さと可能性はあらかじめ定められた宗教や法律を超える時がある。裁く人間と全知の神に翻弄される人間。