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信康切腹事件、麒麟がくる内でも信長非道のひとつ
最近は信康とその仲間達(岡崎グループ)はホンマに
謀叛めいた動きがあったとも言われる
1579(天正7年)
8.3家康は信康と争論
8.4信康大浜へ退かされる
8.8家康、信長家臣堀秀政へ4日の件伝えている
8.9信康更に遠江堀江城へ追いやる
8.10家康岡崎城で地域領主集め信康と断交を誓わせる
8.29築山殿「日頃ノ悪逆」理由で遠江国富塚で殺害
9.15信康遠江二俣城へ移され自害
五徳(信康の妻で信長の娘)との不仲
6.5家康が信康・五徳の仲直りを図りに浜松から岡崎へ
今川家から距離を置き始めた家康、その頃駿府にいた
築山殿と信康は命も危ぶまれたが人質交換で岡崎へ
1567五徳と婚姻
1568信玄と連携し今川攻め
1570岡崎を信康(築山殿も)、浜松を家康の体制
1575以降、武田氏の徳川侵攻で家中には敵対疑問視も
大岡弥四郎事件(大賀弥四郎事件:徳川中心史観)
勝頼と通謀し岡崎城へ引き入れようとした徳川家内紛
長篠の戦いも起きるので大岡とは一連の調略?
その後も厳戒態勢を強いられていた岡崎は緊張続く中
1578所領への帰還を赦す・・・反発が強くなった?
信康自害後に相模北条氏と同盟を結び武田攻撃強化
やはり信康は武田と通じていたか?