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『不完全性を乗り越えることができないのは、それが規定性の可能性の条件であり、したがって――逆説的なことにおいて、究極のメタ理論は存在せず、言語の限界の外に位置する立場はないと述べたのだった』―『第一章 反省という神話的存在論』
この本は研究者向けの論文を三本集めたものに、マルクス・ガブリエルの講演の記録を併せた本。「なぜ世界は存在しないのか」というタイトルの一般読者向けの本とは異なり、講演を書き起こした章以外は読者に哲学に関して一般教養以上の知識を要求するもの。元々、マルクス・ガブリエルの話に興味があって手にした本だが、彼の論文である一章を読み進めたところで読了を断念。スラボイ・ジジェクは「ラカンはこう読め」のすかっとした記憶があるものの少し齧ってみてこちらも主張の詳細を理解することを諦める。そんな中、翻訳者による解説を読み、マルクス・ガブリエルの言いたいことが少しだけより腑に落ちた気になって満足する。
世界は存在しないという彼の主張は、存在(現象)ということの本質が物理的なもののみならず、思考や言明という実態の確認しにくいものも含まれているという前提ともいえる定義から出発し、存在は存在自体が出現(現象)する領域を必要とするという帰結、そこから必然的に生じる無限退行、あるいは自己言及による矛盾への落ち込みの事実から、「すべて」を含むような領域は存在しないと主張するもの。
その上で、たとえそんなものが存在しないとしても無限退行の消尽点を見通し究極の地点に向かって諦めずに進むことこそ哲学的行為の(翻って人が生きる意味の)本質であると説いている、と門外漢ながらに理解する。岡目八目とはいうものの、究極的な岡目という立場はないということだろう。但し、そういう立場を想定して(つまりは現前することのない世界というものを、どこか一つの領域を与えて現象化させて)理解しようと試みることの意義は失われるものではないともマルクス・ガブリエルは主張しているようにも思う。何処か一つの領域を、たった一つの究極的な領域であると誤らない限りにおいては。
自然科学に対する敵愾心とも呼べるような言及が節々に見られるが、彼の主張するところを自然科学の領域で(別な言葉で)捉え直すこともまた可能なのかなという思いも去来する。乱暴な意味の重ね合わせ、あるいはアナロジーであると留意しつつ、動的平衡という概念に辿り着きつつある自然科学もマルクス・ガブリエルの主張する消尽点に向かって歩み続けるという社会科学の向かって行く先と並走しているような気がするのだけれど、、、。