電子書籍
世界へ導く
2022/10/01 14:26
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
演技経験のない4人の女性を抜擢した、濱口竜介監督の慧眼に感服します。ワークショップを撮影に取り入れるなど、これまでの形式に囚われない映画術も勉強になります。
紙の本
『ハッピーアワー』
2016/04/24 00:15
1人中、0人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:TK197309 - この投稿者のレビュー一覧を見る
神戸を舞台とした5時間にも渡る大作を再び劇場で観る機会に恵まれたんで、
2回目は観る前に読んで鑑賞しようと本書購入に至りました。
まあ要は観てから読んだ訳です。
私は映画好きではありますが自身が演技する訳でも映画作りに携わったりする訳でもなく何ら創造的なことは行ってません。
そんな自分でも理解は出なくとも、ああ、あの映画はこういう方法で撮られたんだと腑に落ちるところは大いにありました。
そこは意義深かったのかな、と感じてます。
しかし正直言うとそんなことより
映画になってないサブテキストが思いの外面白くて・・・
音楽好きや、映画・文学好きな人には堪らない感じになってますよ。
このサブテキスト読んで体験した
自分の頭ん中で役者を演じさせるんじゃなく
映画の中の役者が私ん頭ん中で自然と演じてくれるって感じ
(=自然と自分の頭ん中で映画になっちゃう感じ)
はちょっとこれまで味わったことのないものでした。
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(01)
映画「ハッピーアワー」は2016年2月に鑑賞している。その約1.5年後に読んだ本書にも泣けた。サブテキストには脚本にない恋愛のシーンが収められているが、本編が破局的であったために、よりそれら恋愛のはじまりにあった魂の初動が感動的であった。
という点で、既にキャラに感情移入をしているが、演者がどのようにこの映画のキャラを造形し、リアルな身体を与えて、身と心を託し、そのことで観客や読者の感情移入を誘い込むかについて、脚本を担った一人であり監督でもあった著者が、その工夫(*02)や試行を、惜しみなく明らかにしてくれている。
(02)
「はらわた」とは何なのか、映画のテーマにも関わる問題でもある。演技の肝でもある。嘘を本当として演ずること、カメラは無思慮にその嘘と本当を腑分けしてしまうこと、誠実に本気でもあることがカメラの前で本当を生み出すこと、といったコツというよりキモが「はらわた」でもあった。
映画鑑賞時には、その逆説的なトレンディドラマ性に撃たれたと感想した。バブル期、職業俳優、恋愛のトレンド、ファッションと労働、何か全てが浮き足立っていて、それはそれで表象としては面白かったのだけれど、これら90年代を盛期とする表象のアンチテーゼとして、トレンディなテレビドラマの20年後の映画を観た。
映画「ハッピーアワー」(*03)に現れた破局と誕生の物語は、やはり肚の座った、肚を割った脚本と演技に支えられていた事を本書により痛感することができる。
(03)
映画は5時間超であるが、活字慣れした眼であれば、それよりは短縮して、本書に収められた脚本を読み通すことができるだろう。映画は必見であるが、その精髄を掴むために本書を利用することも可能ではあるだろう。
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「ハッピーアワー」が必見であることは言うまでもないことだが、この本では濱口組が類い希な脚本の書き手であることを証明する。
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生きることと演じることが「違わない」(この言葉の美しさ!)状況を作り出し、出演者のほとんどが演技経験のないこの世で最も美しい映画を作り上げた濱口竜介の制作過程とそのシナリオを収めた貴重な書物。台詞を自らのはらわたから発された言葉に近づけるための途方もない工夫の数々は、フィクションという手法を通じて演者の人格をドキュメントするという作り手の誰もたどり着いたことのない試みに収斂されている。濱口竜介監督から受け取る「自信家」とも「謙虚さ」とも違う確信に満ちた他者への信頼感が一語ごとに託されている。台詞だろうがアドリブだろうが、演技だろうが人生だろうが、「はらわた」で反応している瞬間というのは美しく、そんな時空を映画作りを通じて子どものような無邪気さと化学者のような執拗さで追求する著者の誠実さが曖昧ではない言葉の隅々に行き届いている。
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ドライブマイカーの鑑賞を機に、改めて濱口演出のおさらいをしたくなったので。
脚本を書く際、執筆者は演者のからだの「いえなさ」に直面する。それは「彼女は私ではない。しかし彼女は私でしかない」というパラドクスに起因する。
このパラドクスを乗り越えるには、演者が彼自身の最も深い「恥」に出会わなくてはならない。
その恥というのは、社会の目によってではなく、自分自身の吟味によって見出されなくてはならない。「恥」は「媚び」であってはならないのだ。
濱口が実践する「本読み」でニュアンスや抑揚を排除する理由は、紋切り型の感情表現を避けるためである。紋切り型の感情表現は、すなわち社会の目に影響を受けた「媚び」なのであって、演者固有の「恥」とは言えない。
演者はそのからだにテキストを刻み込むことで、
①テキストがそれ自体の厚みを有して演者から飛び出してくる
②演者自身のからだに宿るニュアンスが、撮影に於いて初めて達成される
これによりパラドクスを乗り越えることができるのだ。
演技指導の一つの方法論として、余りに参考になった。しかし影響されすぎないように他の監督も当たってみたい。
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演技に関する話だが、役者とのコミュニケーション論にもなっている。
「良い演技をするには、とにかく相手の声をよく”聞く”必要がある」
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『ハッピーアワー』のサブテキストが読みたくて。役者の理解のために書かれた脚本がこんなにもおもしろいなんて本当にぜいたくだ。「ベイルート」や「旧グッゲンハイム邸」などディテールが楽しくて、濱口監督のサブカルオタクぶりが伺える。
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前半の方法論は濱口竜介が大事にしているのだろうなと思っていた部分が改めて濱口竜介の口から語られるのでうれしい。サブテキストが結構がっつりな物語で驚いた、これを背景にしているんだと思うとあの映画を見る目がまた変わる、というか深まる。あとaikoが出てきてほんとうにうれしかった、濱口竜介は学生時代にaikoとスピッツばかり聴いていた、とどこかのインタビューで言っていた。
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ようやく「ハッピーアワー」観られて、この本も読めた。映画の裏設定「サブテキスト」 で4人の出会いのシーンが読めるなんて最高。
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ハッピーアワーの補助テキストとして最高の資料 本当に読んでよかったし面白かった。
おそらく単体で読んでも面白いが、ハッピーアワー後の世界に来てしまっているのでハッピーアワー前の世界で読んだ人がどう感じるかはわからない
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カメラはすべてを映し出す。映画製作上の制約(時間やコスト)によるOKテイクはどうもぎこちない(らしい)。演者の言いづらさによる「間」すら捉えてしまう。
言い換えれば、制作態度や制作準備、それまでの生活や演者・スタッフの関係性をすべて投影する。フィクションのなかに圧倒的なリアルがそこにある。そのリアルの中において、演者は何をするのか。
ただ演技をするのではない何かがそこにあるからこそ、映画を撮り続けているのではないか。カメラの前で演技するとは何なのか。
この本において提出される濱口の解は、「カメラの前で演技をするというその条件下において、恥というべきその人らしさ(社会規範や関係性を取っ払った先にある自分の価値基準というべきもの)が表出して記録される。その記録は将来無限の人たちに届け続けるという希望だから」だとする。ただ、将来無限のひとたちに自分の一挙手一投足を隈なく届けられてしまうのは恐ろしいものでもある。その恐怖に打ち勝つために「聞く」ことが求められる。
「聞く」こととは演者同士やスタッフ・演者間の信頼関係と言っていいだろう。「社会規範には準じない行動をとっていいものか、この人達がいるなら、やってみようか」といった風に。それを構築するためのWSであり、サブテキストであり、本読みなのである。
では、カメラで撮影すればいいのであれば、ドキュメンタリーという手法もあるのでは。
そこはキャラクターを演じるからこそ到達できる恥があるとする。
キャラを演じるために演者は台本を覚える、まず演者自身によって台本は吟味される。自分にとってそれを言えるのか。ただ、言えなさをすべて無くすことは不可能だ、映画のメッセージ/ゴールがあるからだ。そのギャップにこそ恥がある。限りなく演者のからだに沿って作られた台本だが、最終的には演者から離脱する部分が生じる。限りなく自身に沿って組まれた台本とそこまで辿ってきた演技によって、その分岐点で演者自分(キャラクターではなくその人自身)でも想定していなかったような「そうせざるを得なかった」行動を取ってしまう。そしてそれこそ最深部の恥であり、その人本来の魅力である。その導出のためのフィクションなのだと。
限りなく自分でありながら、他人であるそのキャラクターがいるからこそ、恥を導出できる。
誰にも言えないこと、言わないことは誰にでも存在する。だが、時間をかけて作られた関係性をもった友人にこそ、ポロっと話してしまうこともある。そこで表出してしまった恥も受け手からしたら、魅力的に映っているだろうか。
友人だけにではなく、演技という装置を通じれば、もう少し自分の恥も差し出すことができるのだろうか。