紙の本
現代社会におけるモラル体系を紹介し、社会におけるそれらモラルの優先度を考察した興味深い一冊です!
2020/04/13 11:25
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投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、人間社会における重要な二つのモラル体系を紹介し、社会におけるそのモラルの優先度の選択の仕方を考察した画期的な書です。同書において著者は、「人類には二種類のモラルの体系があり、一つは商取引など他者との協力関係を築くのに必要とされる<市場の倫理>であり、もう一つは集団の秩序を維持するための<統治の倫理>である」と説いています。そして、「この二つの道徳が混同されたとき、国家から企業まで、あらゆる組織に不正が生じる」と主張します。同書では、プラトン、老子をはじめとした古今東西の道徳律をこうした相対立する原理に分類し、いつ、どのような場合に、どちらの立場を優先させるべきなのか、ということを考察した興味深い一冊です。なかなか読み応えがあります。
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自ら考えることができる人の稀な著作
2016/06/18 07:36
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投稿者:タヌ様 - この投稿者のレビュー一覧を見る
この本は複数者の対話編型の著作であり、散漫になりがちなテーマを異なる視点から論じている労作である。実際に、このような組み立てを行うのは相当な困難をともなうものであり、力量なくして不可能なものである。
倫理は哲学とは異なり、人が人の世界で生き抜く道徳律といったもので、真・善・美を定立する哲学とは論じる方向が違い、また扱う素材も具象物であったりする。この点を無視し哲学書みたいな評価は間違いである。当然ながら内容も日常的な米国のテレビなど実例があっても何もおかしくないのである。また読めばわかるが本書はギリシャからの西洋古典哲学を踏まえて、はずれること無く論述がおこなわれている。
本書の白眉は、自ら考えを構想して、市場(商業)と統治という褪せることの無い現実の機能を異なる視点を対峙させて多様な側面を示し、人々はそれぞれのプレイヤーとして意識して、異なった倫理観に立つ必要があることを示しているのである。
大方、このレベルは誰か大御所のパクリや援用でしかなく、独自の視点ではない。アカデミアの人は参考文献に記載された大御所からの引用数や難解な哲学用語が何か裏付けであるかのような捉え方をする人が多いけど、独自性などない。ただの知識過剰でしかなく、良く知っているけど、自分の独自性や創造性が無い人たちでしかないのである。
まさに対極の著作である。
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プラトンの洞察力
2018/08/24 10:43
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
職業別階級制度が統治者活動と商業活動の分離を確保したという歴史及び取引することと占取することという人間の生まれながらの能力を様々な引用を通して、統治者倫理と商業倫理の共生と理解を深めていこうと試みている書。意外とおもしろく読めた。
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面白かった。市場の倫理と統治の倫理の混同が起こるところでモラルが崩壊する。ジェイコブズのイデオロギーがあってどうしても市場の倫理の方が良いように感じられるが。。。
日本における社会倫理崩壊を考える際に一読しておきたい一冊。
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著者はふつうの意味での社会学者でも思想家でもないが、「社会が腐敗する原因」を探るというテーマの著書である。数名による会合の対話体となっている。
著者の指摘の核心にあたるのは、社会には「市場の倫理」と「統治の倫理」なるものと2種類存在し、これらから逸脱したり、互いに混入されたりするとき、「不正直」といった腐敗が生まれるということだ。
この2つの「倫理」は哲学的思考から生み出されたものではなく、米国内のメディア等に流れる言説から拾い出してまとめたもののようだ。そのためか、どちらの「倫理」もちょっと首をかしげたくなる所があり、腑に落ちない。
あくまでもアメリカ国内の言説空間の現実から拾い上げたものなので、それは普通の理想ではないし、絶対性・普遍性を持ち得ないのだ。
ひとつ反論しておくと、たとえば、「市場経済」そのものには倫理は存在せず、ひたすら「利益の徹底的追求」なる至上命令があるのみだ。この「市場経済」の非情な掟は金銭のみを求めるので、かかわっている他者や労働者は冷酷に踏みつぶさなければならない。そこに普通の意味での「倫理」があるわけはない。そこには「人間」じたいが不在なのだから。
けれども著者ジェイン・ジェイコブズはそこは考えず、単にじっさいの商業シーンの人々のあいだで(表向きは)称揚されている倫理「風な」テーゼをリスト化しているだけだ。ということで、彼女の言う「市場の倫理」という概念には何も魅力を感じられなかった。
アメリカ社会における腐敗の現状が挙げられている部分は興味深かった。大枠では、日本もアメリカも、共に大いに腐敗しているが、その腐敗する傾向が微妙にちがっているように思えた。
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原書名:SYSTEMS OF SURVIVAL
第一回会合・アームブラスターからの呼び出し―蔓延する道徳的混乱を憂う
第二回会合・二組の矛盾する道徳律―市場の道徳と統治の道徳
ケート、市場の道徳を論ず―市場倫理の歴史的起源
なぜ二組の道徳律か?―分類の根拠を問う
第三回会合・ジャスパーとケート、統治の道徳を論ず―統治倫理の歴史的起源
取引、占取、その混合の怪物―領土・国家をめぐる取引と統治
型に収まらない場合―医療、法律、農業、芸術
第四回会合・統治者気質・商人気質―物事は視点によって見方が変わる
アームブラスター、道徳のシステム的腐敗を論ず―何が失われたのか
第五回会合・倫理体系に沿った発明・工夫―新たな発見と共生の可能性
ホーテンス、身分固定と倫理選択を対比―二つの道徳体系を区別し、自覚的に選択する
方法の落とし穴―システムを保持し続けることの限界
ホーテンス、倫理選択を擁護―完全なる人間性に至る道
計画とシャンパン―文明のために
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リーマンショック以降、特に各国当局による
金融・商業分野への統制の強まる現在
「政府は自力では自らをすら文明化する力はないと思うのだ。
だから、政府以外に文明化を推進する機関が必要だ。
商業生活における暴力、詐欺、恥ずべき貪欲と戦い、
一方で同時に私的計画・私有財産・人権の尊重を
統治者に承認させる統治・商業の共生こそそれだ。(410ページ)」
マキャベリの教えを企業経営者に薦める書物を出版したのは間違いだった、と。なぜなら、統治の倫理と市場の倫理を混同することになるからだ(284-5頁)。世の社長のみなさん、お気をつけて。
・非暴力で、契約を守り、工夫して、win-winで取引をする"市場の倫理"
(科学、技術、商売は、改竄しては意味が無いので"市場の倫理")
・縄張り/伝統/上下関係を重視し、手段を選ばす、ゼロサムで奪取する"統治の倫理"
・動物は、"統治の倫理"しか持っていない。人間だけが"市場の倫理"を持つ。
・勤勉だと狩り(搾取)の獲物が枯渇するので、"統治の倫理"では余暇が重要。
・市場でのルール違反を取り締まるのに"統治の倫理"は必要
・両者とも自己組織化で(自然に)できた。
・税金を取るのに"市場の倫理"は必要
・両者は正反対の倫理体系。"金銭"を"統治の倫理"に足すと賄賂になって腐敗。
・政府意向で、銀行が融資したり、不経済な原発推進したりすれば"市場"が腐敗(例:旧ソ連、世界銀行)
・国立研究所も、上/補助金に逆らえない"統治の倫理"で御用研究となる。
・軍産連携は、コスト/法律無視の腐敗となる。(ロッキード事件等)
・環境活動は、政府と対抗した段階で"統治の倫理"管轄となる。
・大企業は社員が独立すれば自由に商売できる点で、軍と異なる。(軍がそうしたらクーデターになる)
・英国は、商人が、貴族のまねをして勤勉ではなくなり、「英国病」になった。
・「〜だけの利益を上げよ。方法は任せる」等というのが、"統治の倫理"が"市場の倫理"に介入しない強制の仕方。
・カースト/身分制は、"統治の倫理"と"市場の倫理"の混合を防止する方法として有効だったが、融通が利かないので長期的には存続できない。
・市民がどちらかを自由に選択する方法も、両者が混じって腐敗するのでやはり長期的には存続できない。一旦混じると、それまで良いことだったことが悪行化する。
・"市場の倫理"準拠の商人も、ヴォランティアの理事等になれば"統治の倫理"に準拠しなくてはならない。
・Social Business(マイクロ・クレジット等)は、"市場の倫理"がうまく機能した例。
・芸術/愛は、別の次元のこと。
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「熱狂的な人というのは自己任命の統治者で、自己任命の検閲官だろう」
ここでの熱狂的な人というのはいわゆるプロ市民であり、ツイフェミのこと。本書では歴史の出来事の中から、道徳規範には統治の倫理と市場の倫理という2つの倫理体系があることを発見し、それらを意図的に混同することで社会は腐るとしている。なので、自己任命の統治者とは、市場の倫理に都合よく統治の倫理を持ち込んでいる者と言える。
この2つの倫理体系の混同は初等教育の段階からすでにそうであり、教育では、統治の倫理により集団を維持しながら市場の倫理により他者との協調を教える。
学校教育は軍隊をモデルとしており、集団行動や閉鎖性は「規律」や「排他的であれ」という倫理観である。一方、学校で行われるのは、テストやグループワークでありこれは「競争せよ」や「他人や外国人とも気安く協力せよ」や「創意工夫の発揮」という倫理観である。
2つの倫理観の混同が教育からすでになされているということは、育てるはずの教育において、育て腐らしてるということになる。
2つの倫理体系の内、市場の倫理はふに落ちるけど、統治の倫理に違和感あった。読むと確かに理解はできるけれど、違和感は拭えなかった。それは自分が(統治ではない)市場の中で育ち生きているからだと分かった。
例えば、市場の倫理には「正直たれ」という規範がある。これは不正直が多すぎると健全な商取引が阻害されるためで、とてもふに落ちる。確かにそうだろう。
では、統治の倫理には何があるかというと、「目的のために欺け」という規範がある。ここで私の頭の理解は止まる。目的のためとはいえ、欺いたらだめだろうというは市民からして政治家を評じる時の姿勢である。
この「目的のために欺け」を説明する文章では、スパイ活動、私服警官、囮捜査などが挙げられており、たしかに欺いている、そして、にもかかわらず正当化されている。
こう言った統治の倫理は公教育で教えられることはなく、あくまで集団を維持するための規律として用いられているだけである。それは、公教育が統治機構を維持するために実施されているわけではないからだ。
統治の倫理の起源は軍隊組織の遡り、学校教育も軍隊組織に遡る。では、学校が統治機構を再生産するための組織かと言えばそうでなく、それなりの(一昔前の表現では画一的で均質な)労働力を生産する組織である。この不一致が市場の倫理が歪む原因かもしれない。
統治の倫理の目的は、集団の秩序を維持することであり、公の役割を担う。市場の倫理の目的は、協力関係をきずくことであり、個の役割を担う。
法治国家と市場経済という社会を成立させる両輪がそれぞれの役割をになう。
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著者が15年かけて気づいたという二つの倫理体系「市場の倫理」と「統治の倫理」、その由来や関係の恒常性を多数の事例や引用で紐解くのだが、それがプラトンから明治維新、グラミン銀行からロッキード事件まで、古今東西・縦横無尽といった豊富さ(と、奔放さも感じる)で圧倒されます。最初のいざこざパートを超えれば、そこと繋がるのか…!という面白さの連打。
対話するメンバーそれぞれの立場からくる熱量、絶望や諦観など、生身の感情も特徴的で、ともすれば自分の理解する範疇で「わかったつもり」になりがちな倫理というテーマの中で、多様な考え方・感じ方をふまえた重層的な理解ができる感じも素晴らしいなと思いました。