紙の本
最後の言葉
2017/09/03 15:42
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投稿者:Todoslo - この投稿者のレビュー一覧を見る
1993年ノーベル経済学賞受賞者としての栄光だけでなく、苦悩も伝わってきました。政治と経済への鋭いメッセージが込められていました。
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ダグラス・ノースのこれまでの議論(制度とインセンティブについての考察)に加え、人間がいかに認知するか、という観点について、認知科学などその専門分野にも足を広げ開設した本。本書で取り扱っているような「社会と人間の科学」は、昨今人類がより豊かに暮らすために解明すべき重要なテーマであるが、本書はその解明に向けて果敢に取り組んでいる分野と言える。著者は去年亡くなってしまったが、この分野が更に理論の発展ももちろんのこと実証研究の発展も進んでいけば、その解明に向けて前進すると思う。
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翻訳のせいでダメになった本。なのでこの書評も本の内容ではなく翻訳評になる。複数の翻訳者で訳しているようだが、専門の翻訳者が技術をもってきっちりと訳しきっていればもっとずっとよい本になっただろう。翻訳者は、この原著や読者に対してどのような責任を感じてこの本を訳して、完成としたのだろうか。こんな訳しかできないようであれば、断るべき。非常に残念。テーマは非常に面白く、ダグラス・ノースはノーベル経済学賞も受賞したその筋の重鎮で、読みたい人のひとりでもあったが、直訳以下の翻訳で、これだとまだ原文を読んだ方がマシなのではないかと思う。たくさん例を挙げることができそうだが、たとえば、
「実際、脳科学者と心の科学者たちが一緒になって理解を豊富化しようとするようになったのは、ごく最近のことにすぎない」...「豊富化??」。Amazonでなか見検索をして確かめると、案の定”enrich”だった。普通に「理解を深める」でいいじゃねえか! encalturationを文化化とか訳しているのでもしかしたらと思ったら...。
また、たぶん語順そのままに訳出しているだけなので、おそらく次の文は何を言わんとしているのか翻訳者自体理解していないのではないだろうか。「実際のところ、足場のより広い側面が、制度進化の特定的な文脈を提供しているので、特定的分析においても、足場のより広い側面を統合しなければならないのだが」ー 少なくとも翻訳者が著者の意図を理解し、それを読者に伝えようとする意志や工夫はどこにもない。
アントニオ・ダマシオの著作から引用されている箇所があるので、本書の訳と手元にあった元の翻訳書の二つの訳を比較してみよう。まずは、この本における訳。
「人間を取り巻く条件というドラマは、もっぱら意識から生まれ出るものである。もちろん、意識とそれが明らかにしてくれることは、自己にとっても他者にとっても、よりよい生活を創り出すことを可能にしてくれる。しかし、そのよりよい生活のために私たちが支払う代償は高いものである。それは、リスクや危険、苦痛を知るという代償だけでない。それよりもずっと悪いものである。すなわち喜びとは何かを知り、どのようなときに喜びが欠けていたり、到達不可能であったりするのかを知るという代償である。
人間を取り巻く条件というドラマはこのような仕方で意識から生み出されている。私たちの誰もが合意したことのない契約で獲得された知識に関係しているからである。よりよい生存の費用はその生存そのものに関する無知の喪失である。何が起きているのかに対する感情は、私たちが決して問いかけたことのない質問に対する解答であり、私たちが交渉しようにもできなかったファウスト的契約におけるコインでもある。私たちの代わりに自然がそれを交渉したのである(Damasio 1999, p.316)」
「よりよい生存の費用はその生存そのものに関する無知の喪失である」という表現あたりが文言直訳風でまず気になる。
『無意識の脳、自己意識の脳』(田中三彦訳)は次の通り。
「人間の条件のドラマはひとえに意識に由来している。もちろん、意識と、意識によって明らかになる事実によって、われわれは自己と他の、よりよい生活を���造できるようになるが、そのよりよい生活のためにわれわれが支払う代償は高い。それは単に、リスクと危険と苦という代償ではない。それはリスクと危険と苦を「認識する」代償である。さらにもっと悪いことは、何が快かを認識し、それがいつなくなるか、あるいはそれがいつ達しがたいものになるかを「認識する」代償である。
人間の条件のドラマは意識に由来する。なぜなら、それは誰も取り決めていない商談において得られた認識に関するものなのだからだ。よりよい存在の代償は、まさに存在について無知でなくなることなのだ。事象の感情は、われわれが問いかけていない問いに対する答えであり、それは、われわれが交渉しようにも交渉できないファウスト的取引におけるコインでもある」
訳者の田中さんが殊更に上手いのかどうかわからないが、すでに何冊も翻訳を手掛けているサイエンスライターだ。著者の意図を汲んで、伝えようと意志がどちらから感じられるのか、両方を比較するとわかると思う。また、日本語の翻訳が手に入るにも関わらず、本書の翻訳者がそれを参照していないのではないかと思われることも残念なところだ。さらに言うと、”(Damasio 1999, p.316)”と書くのではなく、もし書くのであれば、”(『無意識の脳、自己意識の脳』(2003年講談社)アントニオ・R・ダマシオ、378頁)”とするべきではなかったか。
ということで、途中で読むのをやめた。
翻訳者を代表して瀧澤氏が本書翻訳の経緯を最後に書いている。ノース氏とも親交があった経済学者の故青木正彦スタンド―ド大名誉教授が監訳者を指名したとのこと。翻訳に当たってはその本人だけでなく、研究所に所属する研究員に部分的に任せたとこと。訳語の調整や校正作業も別の人に頼んだと書かれている。つまりは翻訳は素人である方が時間がない中で自分の配下の人間に仕事を振って、通しの最終確認も監訳者がきちんと時間をとってやられたのかも不明だ。「長時間の作業にもかかわらず、訳文に思わぬ誤りがあるとすれば、それは監訳者のものである。訳文に対して読者諸氏のご叱正をいただければと思う」と書かれている。慣例にしたがって置かれた文章なのかもしれないが、ここはぜひとも海外科学解説書ファンのひとりとして叱正したい。問題は誤訳というものではないよ、ということも指摘したい。
自分も一冊翻訳したことがあるんで少しわかるんだあ(反省もあり)。