電子書籍
本のタイトルに「はじめての」とはあるものの、なかなか深い
2017/10/14 23:27
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:アルファ - この投稿者のレビュー一覧を見る
著者の五木氏がお話された、3つの講義を文章にした本です。
特に印象に残ったのは、第2講にある、以下のようなお話。
仏教の戒律には「不殺生戒」というものがある一方、人間は他の生き物を殺さねば生きていけない存在であるという「原罪」を背負った存在であるということ、この矛盾が書かれた箇所です。
当時はそんな戒律に耐えうる者は全く現れず、それ以外でも時代背景として、天災も人災も絶えない、荒みきった「末法の世」だった。だからこそ、法然上人、親鸞聖人による「南無阿弥陀仏」(「南無」は、まさに「この身をお任せします」という感じの意味ですね)の心を最重要とする浄土仏教は広く受け入れられてきたということが良く分かりました。
そして、第3講に書かれている、阿弥陀仏を「自分自身の母親に例える」という考え方も面白かったです。
確かに、浄土真宗は仏教の中では比較的一神教に近い教えのようですし、今も当時も間違いなく多神教国家である日本では馴染まないと考えられます。
それについて、五木氏は「母親」は世の中にはたくさんいるけど、「自分自身の母親」はたった一人しかいないのと同じように、
「さまざまな神仏の存在を認める」けど、「自分自身は阿弥陀仏に帰依する」ことを明確にする、という解釈をされていました。
投稿元:
レビューを見る
五木寛之氏の親鸞についての講義録。
氏の親鸞についての著作は、多々目にすることが
ありますが、この本も、他に劣らず面白い本であったと
思います。
氏が以前の書籍等で語っていることも含めて
親鸞の人となりというか、歴史というか、などが
うまく伝わってくるような内容だったと思います。
特に、最後の質疑応答の部分がなかなか面白いと思います。
例えば、親鸞の言っていることも、年齢によって、
内容が変わっていて、それぞれが厳密にいうと
矛盾するところがあるようで、そこに完全なる整合性を
求めることは無意味であるととらえているところとか。
浄土真宗とキリスト教の一神教的な考え方の同一性や違い
についてなど。
投稿元:
レビューを見る
「人間・親鸞をめぐる雑話」というタイトルで、三回にわたっておこなわれた著者の講演をまとめた本です。
網野善彦の研究以来広く知られるようになった中世のアジールに生きる人びとに目を向け、体制の外で生きる彼らの間で親鸞の教えが受け入れられていったという、著者らしい解釈がやさしく語られています。
著者の親鸞解釈には、宗教的な次元をヒューマニズムに平板化してしまっているきらいがあり、個人的には納得できないところがあるのですが、それでも小説の『親鸞』三部作には人間としての親鸞の魅力が十分に描き出されていておもしろく読めました。本書には、小説のように物語の力によって読者を引っ張っていくような魅力はありませんが、著者自身の親鸞理解がコンパクトに語られていて、小説の『親鸞』を読むうえで参考になるのではないかと思います。
投稿元:
レビューを見る
2019年11月19日読了。
⚫️法然は吉水というところに草庵を構えて、人々と問答を始めます。
知恵第一という名声をいまだ背負いつつ、一介の念仏僧として
人々に念仏を説くその説法はあまりに革命的だったため、
聞く者に大きな衝撃を与えました。
修行も必要ない、善行も必要ない、戒律を守る必要もない。
ただ念仏のみ。これさえ唱えれば必ず浄土に迎えられるというのですから
誰もが驚くのは当然でした。
「善行も積まず、修行もせず、戒律を守らずに悪を重ねようとも
南無阿弥陀仏と念仏さえ高声に唱えれば、誰もが地獄へ行かずに
極楽浄土へと救われる 」
⚫️法螺を吹くとは、今からお説法が始まるよ、という合図であり
本来、立派なことをいうのが「法螺を吹く」の意味でした。
⚫️親鸞は京都で90歳の生涯を終えました。
生涯を終える時の言葉として有名なのは
「それがし閉眼せば賀茂川に入れて魚に与ふべし」という言葉。
自分が死んだら、遺体は葬式などせずに鴨川の水に流して魚の餌にせよ
というのです。
⚫️P77
親鸞といえばすぐに「悪人正機」と言われるように、法然が出てくる前から
仏教の中にずっと流れていた悪人正機説をさらに突き詰めて、深めていったと
されています。しかも親鸞は悩みの天才と言いますか、悩みに悩み抜いて
それも常人にはできないほど大きく悩む。そして親鸞は自分は悪人であると
自覚し、それでも救われるというのです。
罪の意識をきちんと持ちなさい、自分が罪人であるとしっかり自覚しなさい、
といのは宗教の第一歩ですが、それと同じように、真宗では、己の中の悪を
しっかりと自覚せよと言います。
⚫️P84
私たちは悪人正機の悪人という言葉に対して、少し認識を変えたほうが
いいのかもしれません。すべて人間は仕方なく背負っているものがある。
悲しいけれども、それをしなければ生きていけない、そのことを当たり前と
考えずに存在悪として受け止める。
だから親鸞のいう悪人とは、人はすべて悪人であるという意味での悪人であり
いい人と悪人がいるという意味ではない。人間は全部同じ条件を背後にせおって
そして、悪人として日々生きているのだ、そのことを自覚せよ、と。
⚫️仏教の戒律はたくさんありますが、在家の俗人には主に五戒という形で
伝えられています。
「殺すな、盗むな、淫するな、嘘をつくな、酒を飲むな」
⚫️P109
(秀吉の時代) 商人や職人は昔の寺内町の系譜を引く、念仏者の系統の人たちです。
現在、大阪の御堂というと、北御堂(津村御坊)、南御堂(難波御坊)という
二つの本願寺があり、それぞれ本願寺派と大谷派に分かれています。
その御堂の鐘が朝な夕なに響くところ、御堂の甍(いらか)が見えるところに
自分たちの店を持ちたい、というのがそうした人たちの夢であり
願望でもありました。
⚫️P117
この日本列島で、日本人の中に本当の念仏が根を張ったのは
15世紀の蓮如の時代です。蓮如というのは不思議な人で、賛否両論
毀誉褒貶のすごく多い人でいろいろ悪口もいわれますが、やっぱり大変な
才能があったと私は思います。
⚫️P121
親鸞が開祖キリストだとすれば、蓮如は伝道者パウロだったと言う
言い方も出来るでしょう。
「歎異抄」は俗に蓮如がこれを禁書として、清沢満之がそれを発見して
世間に広めたといわれますが、それはちょっと違うように思いますね。
今に伝わる「歎異抄」は蓮如の筆になるもの、蓮如が書写したものが
原点になっています。おそらく蓮如の手が入って編集されているのだろうと
思います。ですから、「歎異抄」を作り出したのは唯円かもしれないが
それを世に送ったのは蓮如なのです。
終わりのほうに「宿善の機」無き者に対しては左右なく簡単に見せるな
とあります。つまり、いい加減な気持ちで読んでいる人には見せるな
ということなのですが貴重な古文書にはだいたいそう書いてあります。
⚫️清沢満之
⚫️狷介(けんかい)…
⚫️私淑(ししゅく)…
⚫️遺弟同朋(ゆいていどうほう)…
⚫️八宗兼学(はっしゅうけんがく) ※ありとあらゆる仏典に通じた大知識人
⚫️P167
矛盾しているものが人間の生きた思想であり、生きた姿というものです。
ブッダの言葉して伝えられている中にも様々に論理的に矛盾したところもあれば、
あれ?と思うところも少なくありません。
〜
ですから、親鸞の思想を固定化してとらえ、あたかも憲法のように考えるのは
間違いだと私は考えています。
いわんや、人間の思想をどこかで切り取って絶対普遍の思想とするとなると
もう至難の業です。
⚫️P174
キリスト教と歎異抄の根本のところでの共通点。
投稿元:
レビューを見る
講座の内容を書籍化しているもので、すべて「ですます」の話し言葉で書かれてある。とても分かりやすく読みやすい。
有名な「悪人正機」など、思想そのものの解説などは、本書においてはほとんどない。あくまで著者が考える親鸞像を語るものだ。
お題は「人間・親鸞をめぐる雑話」であり、著者は何度も、自分はこう思います、こうではないかと推測しています、という風に言っている。つまり、親鸞について本当のことなんて分からない、いくつかの書物をもとに想像するほかない、というスタンス。
そのスタンスに共通するものとして、諸行無常、がある。親鸞その人だって、どんどん変わっていったし、矛盾もあるのだと。変わらない根本の思想はあるが、それでも「親鸞ならこう答える」といった断定は不可能であり、それをすると生きた思想ではなくなってしまう、と。
まったくもってその通りで、論理的で、普通のことだと思う。
でも、宗教と聞くとついつい「正解」がある気がしてしまうので、こういう語りを聞く(読む)と、まぁたしかにそうだよなと納得してしまった。
肝心の親鸞についてだが、著者はできる限り多角的に観察しながら、なおかつ自分はこうだと思う、と言う。その態度自体が、親鸞的、あるいは法然的だと感じた。
親鸞も法然も、「他の神仏を軽んずるな。だが私には阿弥陀如来だけだ」というふうな、配慮された言い方をする。この感覚は現代の我々にとても馴染む気がする。
あと、仏教と音楽の関連がおもしろかった。念仏を聴く集まりの描写は、もうそのまんま音楽フェスとかレイブみたいな感じだ。
インドとか中国とか日本とかいろいろあれど、どこも音楽的な伝え方を大事にしていた。念仏は音楽そのものだ。
親鸞は晩年、和讃をたくさん書いた。五七調の歌だ。日本においてはそれが演歌にまで影響を与えているし、憲法も五七調あるいは七五調がある。その地域に住む人たちにとって、"馴染む"からだ。
ちなみにインドでは八、八、八、八、というリズムが馴染むそうだ。