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投稿者:igashy - この投稿者のレビュー一覧を見る
自分はこの主人公擬似父子+母親ダメだった。
「恥辱」や「遅い男」と共通点を感じた。中心は年齢を重ねた男性、まだ性的欲求を持っている。
周囲の女性にはとりあえず粉をかけ、弱い立場に対しては当然のように性交できると思っている。
若者と女性のグループの中にいるときは、義務も、さらにいうなら資格も権利も能力もないのにリーダー的に振舞おうとする。でも問答や議論になると結局は逃げ出す。子供との会話にもごまかしが。
そして子供にイエスに並ぶほどの魅力を感じられなかった。おそらく私の読みが浅いのだろう。私は舞台の地の住人のごとく批判の対象なのだと思う。
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タイトルだけ読めば、聖書に材を得た子ども向けの物語か、と勘ちがいしてしまいそうだが、いやいやとんでもない。イエスなんかこれっぽっちも出てこない。近未来の世界を舞台にしたディストピア小説の型を借りたこれは、人間と、人間が生きる社会について真正面から真剣に考えるための手がかりを与えてくれる、一種の思弁小説である。
と書くと、いかにも真面目そうで、とっつきにくいと受けとられてしまいそうだが、この小説は、とても面白い。興味深い、という意味でも面白いのだけれど、読んでいる途中で、くすっと笑えたり、にんまりしたり、という意味でフツーに面白いのだ。それでいて、語られていることは、けっこう哲学的。人はどう生きるべきか、歴史には学ぶ意味があるのかないのか、と大上段に振りかぶる。
「人はパンのみにて生くる者にあらず」という言葉も出てくる。食べ物のような物質的なことばかりに執着するのでなく、精神的なことにも心を傾ける必要がある、というような意味だ。ところが、過去を捨て、新しい言葉を覚える訓練をして、やっと新世界に来てみれば、食べることができるのは、毎日食パンと水ばかりじゃないか、と主人公が文句をたれる、その文脈でさっきの言葉が引用されるのだ。つまり、人はパンばかり食べていては生きている気がしない。たまには血の滴るようなステーキが食べたい、それでこそ人間というものだと言っているわけだ。この皮肉。
主人公の名はシモン。この名前はノビージャに来る前にいたキャンプ地でつけられた。おそらく前に住んでいたところに住んでいられなくなって、申請してノビージャに迎えられた。ここに来るために乗った船で、ダビードという少年と連れになる。ダビードはノビージャで母と会うはずだったが、首から下げていた書類の入った袋を海に落としてしまう。シモンは、少年の母親探しを手伝うことにした。
ノビージャに到着した二人は、住む所と職を探す。アナという係の女性によって当座の部屋を得るが、そこにいたるまでの官僚主義的なやりとりに対するシモンの苛立ちがビンビン伝わってくる。悪意があるのではない。少しずつ分かってくるが、ノビージャの住人たちは善意の人々であり、当座の金に困っているシモンに、港の荷役の主任アルバロはすぐに金を貸してくれる。人夫たちも何かと声をかけてくる。
それでいて、話をしているとどこか噛み合わない。まず毎日が食パンと水でもいっこうに気にしていない。性欲に対しても、その気になれば処理できる場所はあるらしいが、シモンのように親しくなった女性とそうなりたいと思う気はないようだ。女性の方も同じで、アナははっきりその行為やそれに使用する器官は美しくない、と口にするし、エレナはシモンの欲求をはねつけないが、自分はちっとも良くないようだ。
小説は、ダビードの母探しとシモンの感じるノビージャに対する違和感を軸として進んでいく。「幼子時代」とあるように、このあと「学校時代」が続くようで、これ一冊でストーリーは完結しない。シモンとダビードの母(となった)イネスは、学習不適応を理由に矯正施設送りにされそうなダビードを連れて町を離れることにする。「幼子時代」は車に乗って旅に出た一行が、ヒッチハイクの若者ファンを仲間に入れたところで幕を下ろしている。
過去の暮らしと断絶し、まったくの新世界での珍奇な見聞を語る、という設定はスウィフトの『ガリバー旅行記』を思わせる。そういう意味でこれは寓意小説の趣を持つ。シモンにとってはノビージャの人々の考え方は普通ではない。ノビージャの人々にとってはシモンの価値観が理解できない。これは、ロシア・フォルマリズムでいうところの「異化体験」である。互いに理解しがたいシモンとノビージャ人が出会うことで、どちらもが、今まで当たり前と思っていたことを括弧にくくってもう一度考え直すという作業をし始めるのだ。それは、きっと世界を更新することにつながるにちがいない。
シモンは、男と女がいて、どちらかが、あるいは双方が好感を持ったらセックスに至るのは当然のことだ、と考える人物である。また、食事に関しても腹を満たすだけでなく別の欲求をも満たしたいと考える。毎日何度も梯子を上り下りして荷下ろしをするより、クレーンを使って仕事をすれば、その空いた時間をもっと価値あることに使える、と考える。どこにでもいるごくごく普通の男性のように見える。
しかし、シモンがそれを力説しても、ノビージャの人々は、それに合意することはない。食べ物だってないわけではない。あるところにはあるようだが、アルバロはたいして欲しいとも思わない。クレーンの導入についてもその効果については懐疑的である。そもそも力仕事を蔑視するようなシモンに対して批判的である。力仕事をした後はよく眠れるではないか、という批判はある意味正しい。
ノビージャの社会は、ソフトでクリーンな管理社会である。住む所や衣服は貸与されるし、やる気があれば就業後、哲学を学ぶことも、美術コースで人物クロッキーを習うこともできる。そこでは、食べ物も無料で食べられる。セックスに対する欲望の処理のためには慰安所めいた施設まである。ただ、ダビードが担任教師に反抗的態度をとり続けると、施設行きを進められることからわかるように、管理に対する不服従は許さないという規律はある。
今ある秩序に対して必要以上に変化を求めたり、不服を言い募ったりしない限り、最低限の生活は保証するというのが、ノビージャの不文律らしい。エレナもアナも賢く優しく親切で男性から見れば魅力的な女性である。しかし、性に関しては非常に反応温度が低い。シモンでなくとも、洗脳教育にも似た教育を受けた人たちを前にしたときに感じる独特の不可侵領域の存在を感じるのだ。因みに「ノビージャ」というのはスペイン語で「若い雌牛」の意味を持つ。さらに言えば「未経産牛」。何やら意味深ではないか。
人間の数が増えればまず食糧が必要になる。何らかの理由で食糧自給が難しくなった国にあっては、性に対しての欲求が肉食系から草食系に変化することで人口調整はたやすくなり、必要な人口は難民の移住でまかなうことができる。形而下的な欲求は最低限満たし、形而上的欲求はかなりの程度満足感を与えておく。ノビージャという社会の管理者はそう考えているのではないか。
他人の子の代父となり、母親を見つけてやって共に旅に出る。処女のまま母にな���イネス、母となる女性との情交なしに父となるシモン。他人には理解できない言葉を自分の言葉として語るダビード。しかもダビードは、近づく人々を自分の同行者にしたがる性向がある。この小説が聖家族をモチーフにしたものであることが分かってくる。
非才のため、多くの隠された手がかりを見逃している。なんでもそうだが、よく知っていなければ値打ちを見定めることは難しい。これはそういう書物である。ただ、それでも面白さは分かる。続篇を読めばもっとわかってくることもあるだろう。ノビージャについての視界も開かれてくるにちがいない。是非とも続きが読みたくなる。
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非常に面白くて、あっと言う間に読了。この本、読むタイミングで感じ方が変わる本だと思います。寓話的小説ですが、イーヨー的なやりとりが多く、でもテンポよく、読みやすかったです。クッツェー、もう少し読んでみようかな?
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世界の二重性(現実と夢、理想と建前、合法と違法・・・・)は最近のブームなのか。松山巌『ちちんぷいぷい』もそうだったし。まあ、今の現実社会がダブル・スタンダードだからな。
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朝日新聞に読後のロス状態から未だ回復できていないとまで書いてあったので早速購入したのだが…
読み始めから違和感を覚える。イネスとの出会いや子育てなと、どう考えてもあり得ないだろう?!と思い続けながら次への展開を期待するも、そのまま終了。ダビードなど、中国語で言う所の“小皇帝”状態。
確かに途中途中で、妙に達観した、それ程年寄りでもないのに年寄りを演じるシモンの考え方や性への衝動に考えを同じくするところもあるけれど、最後にはその様なわかったことを言う彼に対しても腹立たしく感じてくる。
イエスの幼少期にあって、ナザレの住民が感じていた違和感を、現代の私達に対して同じレベルで感じられる様に考えて創作しているとしたら、ある意味では作者の目的は果たされているだろう。
しかしながら、神という絶対者を感じさせない人の集合体の中では、突飛な思い付きの連続としか思えない。
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クッツェーである。クッツェーといえば私にとっては『恥辱』だ。いえ、読んだわけではなく(すみません…)、書評を書いていた、とある書籍販売の小冊子で、料理本やダイエット本ばかりが売れるなか、小説としては驚異的に売れたので記憶に残ったのである。
その『恥辱』をすっとばして『イエスの幼子時代』に挑む。人間としてのイエスを描くといえば、国家を巻き込む大論争を起こした、同じくノーベル賞作家サラマーゴの『イエスによる福音書』が思い出されるではないか、と、思いきや。
苦もなくすらすらと読める。
読める、だがしかし。
タイトルからして、出てくる5歳の身元不明の男児がおそらくイエスであろう。ここではダビードという名前だけれど。この子がまた、小賢しいことを言ったかと思えば、わがままだし、「なんでなんで」くんだし、でもやっぱり可愛いし、要するに普通の子なのである。途中で「おお、ここで水をワインに変えるのか」「よもやこの死人を生き還らせるのでは」みたいな期待することも最初はあったが、それもない。たまに、ふと「光」を感じることは、もちろんあるのだが。
身寄りのなさげなこのダビードの面倒を成り行きから見ることになったのは、初老の男、シモンである。二人は、どこぞからみんなで乗って来た船で乗り合わせたのだ。
たどり着いたのはなぜかスペイン語が公用語の地で、みんながそこそこ幸せで、だれも皮肉も意地悪も言わない、福祉で生活の面倒を全部見てもらえる(とはいえひどい水準だが)、いわば「楽園」なのである。
そして登場人物は、だれもその過去はさっぱりわからない。というか、自分たちでも覚えていない、気にしない。シモン以外は。
過去にいた世界は消滅したのだろうか?ということは、乗って来た船はいわばノアの箱舟なの?
…よくわからない。
「なんでなんで」くんの質問にいらっと来つつも、ちゃあんと答えてあげるシモンに感心し、すいすいと軽妙な文章を読み進めながら…髪の毛を一本、だれかに引っ張られているような気持ちの悪さ、痛さが抜けないのだ。
そういえば、例の『恥辱』、評の冒頭が「不愉快な小説です」という衝撃的な文章だった。
『イエスの幼子時代』もまた、愉快でありながらたいへん不愉快な小説であり、そこが魅力の摩訶不思議な小説なのであった。
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我々日本人には、もしや・・イエスとはこんな小僧だったのかも・・・と思わせられますが、国によっては冒涜にならないかしらん。
Jesusと言い切ってるわけですから・・・・。
もう読み進めていくには、くだらなくて・・・と思いきや、どんでん返しもなく、奇跡もなく、ただ、くだらないガキんちょにいらいらしながら読み終えた。
不思議な満足感が残ったのは不思議なくらい。
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最初は判り易いディストピアものだと思っていた(私は無上春樹の「世界の終わり」と重なった)が、中盤以降の展開にチトがっかり。もちろんハッキリとさせないことで深みを増してもいるが、なぜ移住しなければならなかったのか、新世界の仕組みがどうなっているかなどはもう少し詳述しても良かったような気はする。
また、イネスとの出会い方が唐突過ぎるし、アナ、ダガ、エウヘニオとの関係がいまいち判然としないが、これらは聖書など西洋の歴史知識と教養があれば明瞭なのかもしれないし、続編のお楽しみということかもしれない。
とは言うものの、文中の引用、寓話、哲学談義などは稚拙な私でも知的好奇心をくすぐられたりして、さすがノーベル賞作家だとも思った。
続編の日本語版が非常に楽しみ。
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イネスは母というより人形を手に入れた少女みたい、というのはいい得て妙だが、唐突にテニスコートで頼み込まれ、次の日に家に来た時点で少なくとも情のある人だと思うし、ここまでしているのは偉いと思う。完璧な母親でなくてもこういう大人たちに孤児は救われるのだと思う。その後立派になるかどうかは本人にもかかっている。
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『「この国に来てなにがいちばん驚いたかわかるか?」だんだん無遠慮な口調になっている。このへんで止めるのが賢明なのに、止まらない。「まるで生気がないことだ。会う人会う人、みんな実にきちんとしていて親切で、善意にあふれている』
クッツェーを読むのは三冊目だが、読むたびに似たような感情に縛られるように思う。それを極端に単純化して言うなら、人間に対する嫌悪感ということになる。つまりは、この作家の観察力が優れていて、尚かつ目を背けたくなるようなことまでオブラート包むことなく言葉にしているということなのだろうけれど。人間の嫌らしさを、もっとどろどろとしたものとして描く作家もいるけれど、そういう作品からは感じない底意地の悪さ、醜悪さが全ての登場人物から陽炎のように立ち昇っているのを感じてしまう。
『とはいえ、善意の中身はいまだに漠然としているんだ。はたして善意だけで人間は満足できるんだろうか?人間の本質には、もっと形あるものを求める性があるんじゃないか?」エレナはそろりそろりと手を引き抜く。「あなたは善意以上のものを求めているのかもしれませんが、それは善意よりよいものでしょうか?』
この小説が一神教の世界を寓話的に著しているのだという読み方を、辛うじて最後まで保ちながら読み終えた。しかしその擬えに作家が何を託そうとしているのかは怖いくらいに理解不能だ。題名が指し示すモチーフをそのまま読む程ナイーヴではないが、作家が宗教全般に不信感を抱いているのか、あるいは新たなメシア像を描き出そうとしているのか、はたまたこの宗教的な枠組みの中でキリスト教的価値観を持った人々向けにレトリックなゲームを仕掛けているだけなのか、そういう意図が見えて来ない。
あるいはそういう全ての疑問に対する答えなど最初から用意されておらず、問い掛けのみが作家の意図なのか。このムカムカとした感情のはけ口も、活字を通して作家に向けられるべきものではなく、より本質的な問題の原因へと向かうべきなのか。いずれにしてもクッツェーを読むたび釈然としない思いが残る。
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レビューはこちらに書きました。
https://www.yoiyoru.org/entry/2018/07/17/000000
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ツタヤ代官山でのトークショー&サイン会と同時購入
本書自体はちょっとロードムービー風な面もあり、面白いのだが最後が
ちょっと唐突。
でも鴻巣さんの解説を読んで理解
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ノビージャ…不気味な街。かなりあからさまに寓話。鴻巣女史は解説でディストピア呼ばわりしている。このうすらぼんやりした平穏が戴けない…と思うのは、平和日本生まれの特権に過ぎなくて、むしろ南ア生まれの作者ならではの「憧憬」を感じ取るべきなのか?
「みんな最初は移民」な世界と架空の国…という設定は、一歩間違うとSFに傾きそうだが、あるある感たっぷりの雑な移民手続きとか公用語が(英語とかロシア語とかじゃなくて)スペイン語とかで、ギリギリ地に足着いてる感じ。
私が続編も一緒に借りてきたから思うだけかもしれないが、このラスト、どうしたって「続く」でしょう!
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訳者曰く、ディストピア小説。それは、この街がというよりも「家族」がだろうか。
街は確かに生気はない。けれど、「煉獄」と評される場所から逃げてきた人々の街であることを考えると、相手を思いやり、あるべきルールに従い生きることは理想かもしれないと思う。福祉も充実しているし、学ぶことも自由。
だけど、何かが足りない。
その足りないものを、漠然と追い求めるシモンは、枠の外で自由に踊っているように見えるものに惹かれるのか、、、
3人は曖昧で、言葉にも態度にも一貫性はなくて、ずるずると狭間の道に自分たちからはまり込んで行くように見えた。自由を求めて世界が狭まっていくような。
まだ続きがあるようなので、感想はその都度変わるそうな、そんな本。
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タイトルから想像出来るように、登場人物達が、新訳聖書を意識しているように思う。
幼い子を取り巻く大人たち、それぞれが個性的だ。幼子の姿は、とてもリアリティがあり楽しい。
続編も、ぜひ読みたい。