紙の本
たかが笑いと侮るなかれ
2016/10/21 20:12
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投稿者:とめ - この投稿者のレビュー一覧を見る
中心的イメージから幾多の多様なイメージへと可笑しさは停滞することなく変化していく。笑いをここまで難しく考えなければならない対象だったのかと思ってしまう書。
紙の本
フランスの哲学者ベルクソンの「笑い」についての論考が三篇収録されています!
2020/04/17 11:23
1人中、1人の方がこのレビューが役に立ったと投票しています。
投稿者:ちこ - この投稿者のレビュー一覧を見る
本書は、フランスの哲学者であるアンリ・ベルクソンの「笑い」についての貴重な三篇の論考を収録したものです。ベルクソンは、生きた現実の直観的把握を目指すその哲学的態度から、ジンメルなどの「生の哲学」と言われる潮流に組み入れられることが多いのですが、「反主知主義」や「実証主義を批判」などと紹介されることもあります。また、彼の著作の中には、『自由と時間』や『物質と記憶』といった有名なもの以外にも、同書の『笑い』といったユニークなものも見られます。同書では彼は「<笑う>という行為によって、身体や言語の強張りから生まれる<可笑しみ>を社会へと引き入れようとする運動の中に人間の生命の柔軟性が見える」と説いています。同書に収められた三篇は、「可笑しさ一般について―形の可笑しさと動きの可笑しさ 可笑しさの伝播力」、「状況の可笑しさと言葉の可笑しさ」、「性格の可笑しさ」です。なかなか興味深い論考ですので、ぜひ、多くの方に読んでいただきたいと思います!
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彼らは本来生命が持つべき「柔軟性」を欠くからこそ可笑しなものと感じられる。この強張りが人間の感覚や知性を襲う場合、その人間は「放心」した人となり、この人物が周囲の者に笑いを呼ぶ。放心した人は、生活に必要な注意力が弛緩し、精神が強張ってしまったせいで失態を犯す。さらにこの強張りが性格へと固着いたのが、喜劇で描かれる人物である。
あとがきの(1)「笑い」要約より
上記は確かに、笑いの一つの形態だと思う。
が、本当に、強張りを、一種冷徹な知性で判断した場合にのみ、笑いがあるのか?と考えると、もっと笑いはバリエーションがあると思う。笑うことに苦みがあることはよく分かるし、笑いは悪意、攻撃性ももっているが、人の弱さを認めること、明るく前向きに肯定する面も持っていると思う。
また、あかちゃんや動物など、自分よりも弱いものを見たときの笑いなど、滑稽な中に親しみを感じているために生じるものは、知性の~というニュアンスとは違うのではないか?
またダジャレなどの言葉遊びや、風刺など、凝り固まった頭を開放して、新たな視点を示してくれた時、鬱屈した状態を切り開いてくれた時に感じるおかしみなどもあると思った。
これは、文中で「緊張の中の弛緩」と笑いの効果として説明されていたものと同質だと思うが、強張りを笑っているわけではないと思う。
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ちょっと硬い直訳気味の訳で、かえって意味は取りやすかった。ただ、今までベルクソンは仏文学者によって訳されていたためか、流れるような語り口調と気の利いた言い回しに感心することが多かったのが、この本ではその印象が薄い。読んで楽しむというよりは、もうちょっと学術的な目的寄りな感が強い。今までの翻訳が仏文学とするならば、とても哲学的・学問的なベルクソンとも言えようか。
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『笑い』 アンリ・ベルクソン
笑いとは何か。可笑しさとは何かについて、徹底的に論じた本。
最近、お笑いをよく見ていることや、『JOKER』(2019年、トッド・フィリップス監督作品)で象徴的に描かれる笑いと、その不気味さについて解明するべく、本書を手に取った。
可笑しさとは、自動性、機械性、強張り、硬直への懲罰である。という一節が印象的であった。ある種の「反-社会性」に対する抑制効果として笑いは存在する。
ベルクソンによれば、可笑しさを人が感じる上で、必要な事項は上記の一種の「柔軟性の欠如」である。機械的な労働を強いられた結果、突起物を見るとなんでもスパナで回してしまうその自動性・機械性(『モダン・タイムズ』)。天が落ちてくるのではないかという一つの心配事に固執するその強張り、思考の硬直性。(『杞憂』)。合コンで気持ち悪いと思われないか心配するあまり、全てのことが気になってしまう心配性(ブラックマヨネーズの漫才)などなど、いわば社会に反する態度(=自動性、機械性、強張り等)に人々は可笑しさを覚える。
その前提にある、社会とは何かという考え方であるが、生活と社会はわれわれ各々に要請するのは、現在の状況の様々な輪郭を見分ける恒常的に覚醒した注意であり、また現在の状況への適合することを可能ならしめる身体と精神のある柔軟性である。この緊張と柔軟性こそが生命を駆動させる相互補完的な二つの力なのだ。生物科学の権威である福岡伸一氏の言葉を借りれば、社会は相補的でかつ相反する二つの要素の動的な均衡状態により継続している。(生物も「動的平衡」によって生命を維持している)。生命とは、社会とはそのような動的な存在であり、繰り返されることのない、唯一無二の時間である。生命の一回性、時間の不可逆性が認められるからこそ、静的な強張りや、同じ状況の繰り返し(カブセ)が「可笑しさ」の対象となりうるのである。
状況に対する可笑しさについても原則は同じである。反復、逆転、諸系列の交叉は動的平衡により維持される社会に相反するものである。生命の一回性に反する反復や、そのまま状況をひっくり返すという一種の機械性が、別々のシステムやルールを運用している人々の交叉(出会い、そして、相手に対して、自分たちのルールを適用して理解しようとするその機械的な判断に起因する誤解―アンジャッシュのコント的な面白さ―)が可笑しさを生み出す。そして、何度も言う通り、その可笑しさの原因は、動的な社会の中で異質さを発揮するその自動性・機械性・居着きなのである。
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「笑い」と言っても様々な「笑い」があるが、本書が扱うのは「滑稽」や「おかしみ」に当たるもので、どちらかと言えば思わず笑ってしまう「笑い」である。「哄笑」「嘲笑」「不敵な笑み」「微笑」「媚笑」「歓喜の笑み」といった意志的、情緒的色彩の強い「笑い」には関心は払われない。だから本書は「笑い」の一般理論というより、ベルクソン哲学の芸術論への応用と言ったほうがよい。原著の副題もEssai sur la signification du comique (an essay on the meaning of the comic,喜劇の意味についての試論)となっており、悲劇との対比において喜劇が論じられ、その限りにおいて「笑い」が考察される。
ベルクソンによれば、「笑い」とは「しなやか」であるはずの生の表面を覆う「自動的」なものや「機械的」なものへの反射的なリアクションである。習慣、癖、反復、惰性、形式、類型、常識、等はいずれも自由な精神の働きを妨げ、それらがもたらす「ちぐはぐ」な感じが「笑い」を生む。「生の飛躍(エラン・ヴィタール)」を重んじるベルクソンにとって、それらは生の硬直化(こわばり)であり否定的なものでしかない。だから「笑い」という「罰」によって是正されなければならない。笑う者も笑われる者も、ともすれば陥りがちな生の硬直化を反省する契機が「笑い」であり、喜劇の意義もそこに見出される。
「笑い」という現象の一面をついた興味深い仮説だが全面的には首肯し難い。「笑い」が結果として生の硬直化への反省を促すことは否定しない。だがそれはなぜ人が「笑い」を欲するかを説明するものではない。かと言ってホッブスの言う他人への優越感という下衆な欲望のためばかりとも思えない。実生活上の「笑い」ならともかく、それが身銭を切って喜劇を観に行く理由にはならないだろう。思うに人が「笑い」を求めるのは、笑われる対象に何かしら共感を覚え、そこに自己を見出し、自由や解放感を感じるからではないか。
ベルクソンは悲劇を典型的な芸術だとし、生の硬直化を反省させる喜劇は生活と芸術の境界にあると言う。だが喜劇の芸術的価値について説明らしい説明はない。喜劇は悲劇の特権性を際立たせるネガでしかないのだ。生命と機械、精神と身体、自由と必然、一回性と反復、個性と類型、創造と模倣・・・こうした二元論を前提に、前者は悲劇、後者は喜劇の特質と考えられているが、優れた芸術にあってはそれらが対立しながら統一しているはずだ。でなければ一回性を本質とする「生の飛躍」を作品として固定化すること自体が無意味になる。悲劇であれ喜劇であれ、繰り返し演じられそれが観客を魅了するのは、卓越した演技は機械的でありながら流れるような生命の躍動感に溢れているからだ。演技とは必然性の自覚のうちに自由を見出すことに他ならない。「笑い」についてユニークな卓見に満ちた本書も、芸術論、ことに演劇論として片手落ちの感は否めない。