紙の本
フィンランドの物語です
2019/02/16 23:33
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投稿者:ふみちゃん - この投稿者のレビュー一覧を見る
助産婦のマリア、その子(私生児)ラハヤ、その嫁のカーリナ、マリアの夫オンニ、その四人を主人公にした彼らと彼らの家のお話。訳者が言っているように彼らは窓を開けない、つまり誰にも重荷を打ち明けない。これはこの国(フィンランド)でクロスカントリースキーが盛んなことにつながっているのかもしれない、「誰もいない森の中で、たった一人になれるんだよ。すばらしいじゃないか」と訳者は友人に言われたというのだが、それがフィンランド人なのだとすれば、結構遠く離れた国ではあるが、何か日本人とも共通するものを持っているのか知れない。わが国でもマラソンや駅伝が盛んなことを考えても。この国ではオンニが悩んでいた当時、同性愛が厳しい目で見られていたということは読む前に予習しておいてもよかったかもしれない
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大きな家でみんな秘密を抱えて、それぞれの部屋の扉を閉ざして、誰か来てくれればいいのにとかすかに望みながら過ごした。
「覚えてるかな、昔おばあちゃんが」みんなが集まったごちそうの食卓で、子どもたちはそんなふうにして、悪意も意地悪も感じさせない思い出話を始める。…共通の思い出は、きょうだいのためだけに食卓に上がるのだ
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フィンランド北部の村で暮らす家族四代の1895年から1996年にわたる世紀をまたぐ物語。その間には継続戦争と呼ばれる対ソ戦とその後のヒトラーによる焦土作戦や物資の欠乏に苦しめられた戦争の時代をはさむ。助産師として自立し、女手一つで娘ラハヤを育てたマリアは、一軒の家を買うと蓄えた金で次々と家を増築していった。戦争でその家が焼かれると、娘の夫となったオンニは、家を再建し、湖を臨む土地に新たに家を建てる。
「人生は建物だと、マリアは思っている。多くの部屋や広間を持ち、それぞれにいくつもの扉がある。誰もが自分で扉を選び、台所やポーチを通り抜け、通路では新たな扉を探す。正しい扉も、間違った扉も、ひとつとして存在しない。なぜなら扉は単に扉でしかないからだ。時には、初めに目指していたのとまったく違う場所にいることに気づいたりもする。」
増築に次ぐ増築で長屋のように横に細長い平屋の家の主であるマリア、戦争から帰還したオンニが建てた地下室や屋根裏部屋のある二階建ての家の主であるラハヤ、そして姑が実権を握るその家に圧迫を感じ、舅が建てた湖のそばの夏小屋を愛するカーリナという三人の女の、これは家と家族をめぐる年代記でもある。
フィンランドという北の国の中でもさらに北方にある起伏のある森に囲まれた小さな村が舞台。人々は旧弊で、男は女の体のことなど考えず、次々と子どもを孕ませる。しかもどの家でも助産師など呼ばず取り上げ女に任せていた。女たちは相次ぐ妊娠で体を弱らせ、難産で母子ともに死ぬことも多かった。そんな中、マリアは懸命に力を尽くし、無駄な妊娠を避けるよう説得し、女たちの信頼を得てゆく。二百キロも離れた町にある店に注文した自転車を馬車でもらい受けに行き、帰りには乗って帰るという進取の気性に富む娘だった。
この小説に登場する女性たちはみな強い。男に頼ることなく自立し、周囲からどのように見られても超然と生きている。その一方で、感情が激すると、洗い桶は投げつけるし、皿は叩き割る。手にした猫は壁に叩き付けて息の根を止める。反対に男のオンニは、家族思いで、子どもにも大人と同じように接するよき父親である。自分の子ではないアンナにもわけへだてのない愛を注いでいる。そのオンニが戦争から帰って以来、妻と夜を共にしなくなった。夫婦の間にできた距離は次第に広がり、ラハヤはマリアから見ても無慈悲な女になる。
いったい、オンニに何があったのか、というのがこの小説を前へ前へと進ませてゆく推進力になる。小説は四人の視点で語られる。時系列は、それぞれの視点人物の中では一貫しているが、人物が交代するごとにもう一度過去へと戻り、少しずつズレを含んで繰り返されることになる。同じ場面、あるいは前後する場面が、異なる人物の視点から語られることで、出来事の意味がまったくちがって見える。それまでは意味不明であった手紙の内容や、記憶の断片が少しずつ姿を現し、最後のピースが嵌められることで夫婦の不和、ラハヤの非情を生んだ原因が明らかになる。
秘密をかかえているのは、一人だけではない。マリアはラハヤに、ラハヤはオンニに、オンニはラハヤに対し、決して口にすることのできない秘密を胸にかかえ込んでいた。マリアが家を増築し、オンニが次々と家を建てていったのは、秘密を抱え続けるという息の詰まる事態に耐えるために、家族の中にあっても一人でいられる部屋を必要としたのではないか。そこにいさえすれば、息がつける、そんな部屋が。
ハンサムで人当たりがいいオンニの秘密は、出会ったときからラハヤに明かされていた。はじめ、そこでひっかかって変な気がしたのだが、オンニの良き父親ぶりを見ているうちにいつの間にか忘れてしまっていた。あれが伏線だったのだ。とはいえ、どんな鈍感な読者でもオンニの秘密はだいたい見当はつく。最後までわからないのは、ラハヤのかかえる秘密である。嫁と姑の中がうまくいいかないのは、よくあることだが孫に背を向けられる祖母というのはめずらしい。
ラハヤの人を寄せつけない性格が他人をしてそうさせるのだ。ではなぜラハヤはそんな非情な性格になってしまったのか。誰にも言えない秘密をずっと心の中にかかえてきたからだ。終章でようやくそれが明らかになる。読者は、そこを読み終えると、あわてて冒頭に置かれた「一九九六年 病院」のページを繰る。再読して初めてそれが何のことだったのか分かる。本当の終章は冒頭にある「一九九六年 病院」の章だったのだ。
森と湖の国、フィンランドという一昔前の観光用コピーを覚えているが、フィンランドと日本にはもっと生臭い因縁もある。第二次世界大戦勃発当時、フィンランドは日本がソ連と戦端を開くことを強く期待していた。そうなれば、ソ連は西に侵攻するだけでなく東へも戦力を向ける必要に迫られる。しかし、日本は日ソ不可侵条約を結び、アメリカとの戦いに勢力を傾注した。フィンランドは日本を恨んだにちがいない。この小説の背後にはそんな歴史も潜んでいる。
川沿いに建つ小屋で浴するサウナをはじめ、セルフビルドによる家作りなど、森と湖の国フィンランドならではの風物が、ともすればぎすぎすした家族間の諍いに傷んだ読者の心を優しく撫でてくれるようで、ずいぶん助けられた。
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親は子の人生の全てを知ることはなく、子もまた親の人生の全てを知らない。夫と妻もしかり、である。最も近いはずの家族でさえ、互いにその全てを知ることはない。それでも決して断つことの出来ない濃いつながりで、家族の歴史が紡がれていく。日本の”家族もの”はどうしても感動に訴えてきて悲しくなりがちだが、この家族に感じるのは、力強さだ(特に女性の)。正しいも間違いもなく、あるのは懸命さと力強さ。生きねばならぬ。
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19世紀末に助産師として田舎町に赴任したマリアは周囲の視線に負けず女手一つで娘ラハヤを育てる。
マリアの作った細長い家。ラハヤの夫オンニの作った高い家。オンニが子どもたちのために作った夏の小屋。
それぞれの家をめぐって、マリア、ラハヤ、ラハヤの息子の嫁カーリナ、そしてオンニの目線から綴られる家族と家の歴史。
そして、最後にすべてのたねが明かされる。
一見幸福で豊かな家族の思いもよらない孤独。フィンランド社会の歴史的制度(?)を知らないと、少し理解できないところもあるが、それでも十分に感動できる。
読後に味わう深い悲しみは、感動でもある。
本国では、続編もあるという。日本でも出るのか?
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フィンランド小説初体験。
冒頭にプロローグがあり、そこから章ごとに家族一人ひとりに焦点をあてた物語に入っていくけれど、
とにかく誰に何があってどんな状況なのかさっぱりわからないままにプロローグが始まるので読みにくく、まずそこでくじけそうになるけれど、そこはとりあえずさらっと読み流して先に進みましょう。そして最後まで読んだら、またプロローグに戻らずにはいられなくなると思います。
あきらめないで最後まで読んで!笑
自分にとって未知の国・フィンランドのベストセラー作品とのことだが、
家族の物語というのはやはり普遍的なものなんだなと再確認。
登場人物の抱える秘密や苦しみに胸が痛くなりました。
これがデビュー作(なんかカルチャースクール行って書いてみた作品がこの作品なんだとか。。。いやー末恐ろしい!)だそうですが、他の作品も読んでみたいです、クレストブックス様よろしく!!
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翻訳物はやっぱり読み込むのが大変・・・
フィンランドの田舎町にある家での100年の物語。
シングルマザーの助産師、写真技師の娘、孫の嫁、そして娘の夫のそれぞれが語る断片的な物語が、積み重なって、ピースが最後にはまったようでどこか歪んでいく感じ。
娘夫婦が抱える秘密が大きな鍵になるのだけどれど、そこになぜ警察が絡んでくるのか?と思ったらあとがきを読んでやっと理解できた。でもあとがきを先に読んでしまうと興趣がそがれてしまうので要注意です。
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7月の読書会の課題なので読んだ。人は誰かを必要としてでも手に入らなければ住む場所に愛を求めると思う。自分のいる場所さえあれば多分生きていけるから。ラハヤの気持ちが辛すぎて、オンニが憎らしかったのはオンニが子持ちの人と結婚したら自分が同性愛だと隠せると思ったぽいところ。オンニを失うきっかけを作ったのはラハヤだけど、ラハヤは取り戻したかったから。でも、本当のオンニはラハヤのことなんか全然好きじゃなかった。ラハヤはオンニの作った家を守ろうとしてみんなから憎まれてカーリナが最後に手紙を見てわかるところも辛すぎて涙が出そうになる。マリア、ラハヤ、カーリナ、オンニ。父親の不在、戦争、同性愛、生と死。盛り込まれてるのに嫌な長さじゃなかった。よいものだった。
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三代に渡る女と家の物語。
女が「女の役割」を果たすことでしか、女と認められない時代はどの国にもあった。
戦争は運命を狂わす。
ヨーロッパは同性愛が多い傾向。
どんな人間にも光り輝くような思い出や宝物を胸に秘めてる。
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助産師のマリア、その娘のラハヤ、彼女の夫オン二、そして彼らの息子の妻カーリナ。百年もの年月を跨ぎ紡がれる彼ら一家の物語。語られる事が「一」あるとすれば、黙し秘される事は「十」もあり。読み手によって、感想も大きく変わるであろう作品。
家族って何だろう、結局は運と縁によって同じ屋根の下に暮らすことになっただけの他人…なのだろうか。阿吽の呼吸で分かり合えなくて当たり前。それでも昼夜共に過ごせば情は湧く、何かをしてあげたいと思う。そんな奇妙な関係の人間を擁す家は、呪いで人を止める牢獄か、安住をもたらす聖域か。
後書きにもあったけど、カーリナが、せめて母親にでも相談できていたなら、誰か一人には幸福が許されたのではないか、と思ってしまう。何のための秘密なのか、自分のため、それとも他者のため?結果的にはマリアの秘密主義がラハヤの口をも噤み、オンニの自滅に繋がり、カーリナに受け継がれ、永遠に家族の闇を葬り去ったと思うと、どうにも遣る瀬無い気持ちになってしまう。暗黙の了承が通用する障子文化の日本では成立し得ない、届けたい声をも風雪が搔き消してしまうフィンランドだからこそ成立し得る話なのかも、と心を痛めながら思った。
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フィンランドの新鋭作家のデビュー長篇にして
フィンランドのベストセラー。
最初に1996年の場面から始まり、
マリアの章(1895年~1955年)、
マリアの娘のラハヤの章(1911年~1977年)、
マリアの息子ヨハンネスの妻カーリナ(1964年
~1996年)、
マリアの夫オン二(1930年~1996年)、
の4人の人生を通して100年ほどの年月が
描かれる。
1人目の助産師マリアの仕事と生活の
過酷さに自然の驚異を感じすぎて、割と
2、3人目のラハヤとカリーナをあっさり
読んでしまって大後悔。
3人目までは読み解けない箇所がありつつも
時間通りに物語が進んでいき、4人目で
「あれ?戻っちゃうんだ。しかも4人目だけ
男性か…。」と読み進めていくと…
絡まった糸がほどけていく感じが止まらない。
新潮クレスト・ブックスはやっぱりいいなぁ。
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フィンランドの小さな村の助産婦のマリア、その娘で写真技師のラハヤとその夫のオンニ、ラハヤの息子ヨハンネスとその妻のカーリナ、三世代の家族が過酷な歴史と長く暗い極寒の冬に耐え、それぞれが心に深い傷を負いながら生きて行く物語。楽しい時間の描写が殆どないこの物語を読みながら、昔フィンランドのコウボラという小さな町の友人の家を訪ね、家族と楽しい時間を過ごした後、帰る時に友人の母親が、別れを悲しみ見送りに出て来れなかったことを思い出した。
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『ドイツ軍は、北極海沿岸へ退却していく道すがら、村の建物に次々と火を放ち、仮にそのとき焼け残った建物があっても、パレード用の道路を確保しようとするソ連軍に破壊されてしまった。そういうわけで、避難先から戻ってきた村人たちを出迎えたのは、倒れずに残った煙突が形づくる、まばらな、しかしずっしりとした森だけだった』―『一九四六年 地下壕の小道 狭すぎる場所で/ラハヤの章』
母~娘~嫁の三代に亘る百年にわたる物語、というと先日まで放送していた朝のドラマを想起してしまうけれど、こちらも第二次世界大戦を跨いだ年月を描いた物語。一つひとつ短く切り取られた断章は多くを語らなず説明的な描写も少ないけれど、記された年代に注意を向けて読む進めると、立体像がぼんやりと浮かびあがってくる。しかし、普通なら一本ずつの糸が縒り合わさって紡がれる筈の物語の糸はばらばらのままで、交差する経糸も緯糸も中々一つの物語を織りなさない。その中で印象的に描かれるのは、女たちによって守り抜かれてゆく「家」。それは生命の象徴であり、女性性そのものでもある。建てられる時にこそ男の力が必要とされるものの、家に命の火を点し風雨から守り、時に風通しを良くするように穴を穿つのは決まって女たちだ。けれど、無機質な物体である筈の家もまた歳を取り、否応なしに朽ちてゆく。男たちはその自然な変化に抗う術を持たず、女たちは変化による主導権の移り変わりに執着する。そんな風に要約してしまうのは正しくはないだろうけれど、馴染みのある情景に引き寄せて意味を読み解いてみると、そんな風に見えてくる。
もちろん、翻訳者のあとがきにある通り、フィンランドに住む人々に特有の個人主義とでもいうようなものが色濃く書き記されているというのも判るし、そういう人々を想像出来ない訳ではない。都市に住まう人なら恐ろしさすら感じてしまうような圧倒的な自然の中で、周りに他の人の生活の音が届かぬほどに隔絶した場所に好んで住む人なら彼の地に限らず何処にでも居る。だが、この物語が絶妙なのは、そんな個(人・性)を際立たせようとして孤になっていく人と、そこを受け継ぐべく育った人が新たな個を希求する中で起こる繰り返しの構図が描かれること。隷属的に縛られている家主の家の秩序を頑なに守り通すことは、その埒外に自分自身を置こうとすることの反動だし、それは結果として自らの子供たちとの間に埋めようのない溝を生んでしまうのだが、それは溝が痛感できる程に深くなるまで為す術もなく繰り返されるてしまう。台所の主の交代劇が、「家」が世代ごとに生まれ変わる様として象徴的に描かれる様子と重なって、印象を強く残す。
三世代にわたる女たちの興亡は、同じテーマを繰り返し追いかけるフーガのようでもある。忌み嫌っていたものが、いつの間にか目の前の鏡の中に立ち上がる、という物語は世界共通のものだろう。一方で「四人」目の登場人物である男は、個人と社会の間を揺れ動く象徴として描かれているように見える。軍隊、家庭、共同体の中で人と人とのつながりを最も上手く捌いていた筈の人物こそ、最も深い闇を抱えている、というのもまた都市的な物語としてはよくある話だ。むしろ���頭でっかちな都市生活者が主人公の物語にならよく登場する類の主人公であるとも言える。一方で、女たちはどこまでも身体の思いに敏感であるように描かれ、それは都市生活者がともすれば忘れてしまいがちな人もまた自然の一部であるという事実を象徴しているようでもある。都市を中心とする文明社会に対する作家からの一つのメッセージがここにある、と言ったら言い過ぎだろうか。
もう一点、頭でっかちな話として、第二次世界大戦におけるフィンランドの立ち位置についての逡巡が男の物語の中には忍び込ませてあるように思う。白か黒か、旗幟鮮明にしなければ一歩も前に進めないのは、何故かいつも男たちだ。そんな男を尻目に女たちは今日のスープの心配をする。「個(人・性)」を色濃く描いている小説であり、時代ごとの少数派を主人公に据えているにも拘わらず、何故か読後には今風の多様性というようなフレーズを口にする気がしない程に、古くて新しい物語を聞かされたような気分が残る。
それと、全く余計な話だけれど、実在の通りの名前から取られたという各章題の下に短く断章の要約のようなものがあるのは、何となく「チボー家の人々」を思い起こさせるね。
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「フィンランドの100年」、19世紀末に森の奥で助産師として移り住んだ女性、その娘、娘の夫、孫の嫁と受け継がれていく物語。
それぞれ内面に複雑な思いを抱える登場人物たち、あちこちに張られている伏線、読み進めていくうちにぱちりとパズルのピースのように形を描いて行く構成。
森の魔女あるいは聖女のような助産師の母、お母さんのようにはなりませんと言い続ける娘は愛してやまぬ優しい夫が抱える秘密のせいで歪んでいく。その息子の嫁は、家を支配する姑の目を盗むように新しい風を家に入れていく。
日本では「家が舞台の物語」というと、血縁のどろりとしたものになるが、これはもっと乾いた、ほんとうに建物の「家」が大事な要素。
娘の夫、この人は「父親にどうしてもなりたい人だった」と作家との対談で中島京子さんが指摘をされたそう。いろんな国でこの小説の話をしてきたが、そこに気づいてくれた人は誰もいなかった、と作家は大変喜んでいたそうだ。
訳者の古市さんは「孤独」という言葉に変わる日本語はないものか、といつも考えておられるそう。フィンランド人は「孤独」を好み、大事にするが、それには決して否定的な意味はないので。
作家の祖母も助産師、母も写真家。登場人物の職業も同じにしたので、この物語を我が家の話と勘違いされてしまうかも、という危惧を母に相談したら「あなたの書きたいことを書きなさい」と言われた。それでこの物語を出すことができたという。