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キャラがある環境における役割を表すならば、ソシュールの言語論における記号の様なものなのかな。
個人が記号と化した中でそれをそれとして受け入れて生きるのか、多層的な世界で多くのキャラの複合としての自分を見出すのか、コミュニケーションを超えた対話が可能なのか、大きな物語としての民族や宗教が復権するのか。
ぜひ続編も読んでみたい。
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人を記述可能な「キャラ」として把握することは、思考処理する点で便利ではあるが全体像を捉えられない。人はどこかしら矛盾を持つものだから、完全な記述は不可能なはずである。せめて自分にとって大切な人くらいは、矛盾も含めた全体像を捉えられるよう努力しようと思った。ただこの本、具体例として挙げられるアニメや芸術作品を知ってる前提で論を展開するから、少し説明不足を感じた。あと、後半の精神医療に関する考察や哲学については専門用語が多く理解が追いついていない。
この本はキャラを押し付けられるものとして表現していて、それが不本意なものならその通りなんだけど、自分に都合が良いキャラを押し付けられだ場合は結構居心地の良い隠れ蓑になったりする。だからそこに依存してしまうということもあり得る。
あと、特に仲の良い友人とはキャラを交換し合える傾向がある気がする。と言うより交換し合える程お互いがお互いの事を知っているから仲が良いのかも知れない。
自キャラが固定された人間関係しか持っていなかったら、例え知人が多くてもかなりの地獄だろうな
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若者の承認欲求をめぐる現状について、精神医学の臨床経験を踏まえて論じられている。寄り合わせの論考集でもあるが、非常に面白くためになった。
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若者とお付き合いする事が多い仕事柄、また、社会の仕組みを理解したいという個人的欲求もあって話題の書を読了。承認依存という現象について、精神医学者の立場から分析、解説しているが、エヴァンゲリオンの主要キャラクターを引き合いに出すなど、とてもわかりやすい。「他人の許しがなければ自分を愛する事すら難しい」「キャラ設定に基づかないとコミュニケーションできない」「生存欲求に勝る承認欲求」等、衝撃が走る。私の世代がなぜ働くかを問われれば十中八九食っていくためと答えるであろう。しかし現代の若者は「承認されたいから」という欲求が非常に強い。承認されなければ引きこもるし鬱になるし自死を選ぶ。マズローのいう生存欲求(第一段階)を満たして成熟するのではなく、承認欲求(第三段階)が満たされなければ、生存欲求すら放棄(自死)してしまう逆転現象。確かに病である。
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タイトルに惹かれて読んだけど思ってたのと違って、神経内科とかの、本当に病気について書かれてました。あといろんな方向に話が飛んでて内容もすごい難しかった…
クラス内のキャラ付けとか、納得できるとこもあったけど全部は理解出来なかった…エヴァの話はおもしろかった!
ここでもスクールカーストが出てくるんだな〜と思いました。
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内容がくどいかな、掘り下げて説明されるので、何が言いたかったのかどんどんわからなくなってしまう
。エヴァの話も難しくて読むのがやっと。本の半分までなんとか読めました。やさしい解説を付け加えてくれると助かるのだが・・・。
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あとがきにもあるように「かわいい表紙に難解な内容」の本である。承認欲求の精神医学的アプローチを試みた内容かと思いきや、承認欲求についてはちょっぴり、加藤智大、エヴァ、ひきこもりなど内容は様々です。しかしわかりにくい文章なのにけっこうサクサク読めてしまった。かなりおもしろかった。
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「碇シンジは引きこもり、惣流・アスカ・ラングレーは境界性人格障害、綾波レイはアスペルガー症候群」から始まり「庵野は現代の太宰」とまとめるパワーワードしかないエヴァンゲリオン論から始まり、いろんなテーマの論文がまとまって読める楽しい本だった。構成が上手い。
個人的には冒頭のエヴァンゲリオン考察、秋葉原連続殺傷事件の犯人が犯行に至った経緯についてのひとつの可能性の提示、フランクルは何にイエスと言ったのか?という章が面白かった。
ただいろんな雑誌へのいろんなテーマの寄稿であるので、似たような表現があったり同じ話が繰り返されていたりもするのでアッまたこの話…と思っちゃうこともなくはない。今度はテーマが一貫した一冊の本を読んでみたいと思う。
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表紙に反して難解で読みづらかった。
雑誌の書評を読んで購入してみたが、
承認という課題に対しての専門的知識が多く初心者には分かりづらかった。
エヴァの登場人物と庵野監督については読みやすくも感じたがエヴァ自体見ていない者からすると想像しながら読み進めるしかなかった
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承認をテーマとした「思春期解剖学」反精神医学をテーマとした「精神医学へのささやかな抵抗」の2カテゴリー17編。他者の許しがなければ、自分を愛することすら難しい、承認依存とはつまるところそういうことだ。
あとがきに、全編の140字要約があります。順に読んだけど、最初からこれを読めばよかった。
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ひきこもりに関する情報発信で有名な斎藤環医師の著作。
具体的な臨床例の紹介ではなく社会批評がメイン。
トピックは割と多岐に渡るが、人間関係における「キャラ」の重さが増大していることと、現在では承認は高次の欲求ではなく基本的な欲求であるというのが全体を貫く問題意識。
一番印象的だったのは「良い子の挫折とひきこもり」という章。
手のかからない良い子の条件は、周囲の大人が自分をどう見ているかを客観的に判断し、先回りして行動すること。自分の周りの「空気を読む」アンテナを貼っている。
そして、「良い子」は周囲の期待よりもマージンを取るため、控え目で内省的になる。
ただ、「良い子」キャラは通常は発達の過程で放棄される。同世代のコミュニティが家族以上の価値を持つようになるから。
その点で、思春期に挫折したひきこもりは「良い子」で発達が止まる。ある意味、良い子≒未発達である。
良い子のままでいると、妥協し、断念するスキルが未発達になる。
人間の意識は大人になっても変化する。良い子の成熟は他者とのかかわりによるほか無いが、これはいくつになってもできる。
直接書かれていはいないが、アダルトチャイルドと「良い子」であれば、以下ような影響が出るのだろうと思った。
上記の「良い子」の発達のステップに沿うなら、思春期に対外的には挫折しなくとも、機能不全家庭で家庭内では良い子キャラを続けざるを得なかったアダルトチャイルドは複雑で疲れやすいパーソナリティを持つようになる。
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現在までの評価軸の移行による、キャラ形成の必要性とコミュニケーション能力偏重主義がもたらす個人への承認の変容が、人格形成にどのように影響するかが現実に即し整理されていてよい
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表紙のイラストの印象に反し、中身は読みにくい。
今の時代を反映し、イラストに書いてあるような今の高校生の問題についても書いてあるが、では、その当事者である高校生が読みたくなるかと言ったら、言葉がなかなか入ってこないように思う。
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"キャラが同一性にのみ奉仕する記号であり、キャラの相互的・再起的確認がコミュニケーションの主たるモードであるとすれば、それが成熟という「変化」に対して阻害的に働くであろうことは容易に想像できる。(p.223)"
「承認」をテーマとして、精神科医である筆者が様々な媒体に発表した文章を書籍にまとめたもの。出典が様々であるために、同じ説明が数箇所で重複しているなど1冊の本として見たときには不満があるが、示唆的な記述が随所にあり刺激になった。あと、表紙の女の子がかわいい。
まず、筆者は現代社会において"操作主義"と筆者が呼ぶ価値観が前景化していると指摘する。操作主義とは、"目的や価値のいかんにかかわらず「コントロール可能な状態」を維持することのみを偏重する態度(p.184)"のことである。この操作主義が見られる例として、筆者は俗流心理学(『心理学化する社会』参照)、手軽に泣きや笑いを消費するためのサプリメント・カルチャーなどを挙げる。最近の例としては、脳科学ブームや映画の倍速視聴(映画を映像作品としてではなくコンテンツとして捉える点)、○○ガチャ(親ガチャ、配属ガチャ等々)、所謂「なろう」小説での「レベル」や「スキル」といったゲーム的な「異世界」(個人の価値がレベルの高低やスキルの有無で記述される点)がこれに当てはまるだろうか。
なかでも筆者が操作主義の現れとして大きく取り上げているのが、若者同士のコミュニケーションに見られる「キャラ」と「コミュ力」偏重である。「キャラ」とは、ある集団内での個人の立ち位置・役割のことを言い、"同一性を伝達(p.220)"する記号である。「キャラ」が「アイデンティティ」と異なるのは、それが客観的な評価軸や自己イメージではなく、間主体的な個人のコミュニケーション能力「のみ」によって決定される点である。個々人の「コミュ力」には優劣があるので、これによって「コミュ力」に一元的に支配された上下関係(スクールカースト)が生じることになる。キャラ文化の最大のメリットは、お互いの立ち位置がはっきりしているのでコミュニケーションが円滑化される点である(丸山真男『日本の思想』収録「「である」ことと「する」こと」にあった江戸時代の身分社会に関する記述を思い出した)。元々の性格がどうであれ、一様に「キャラ」の枠組みの中で事が済んでしまう。一方そのデメリットは、承認を全面的に他者に依存してしまっているところにある。よって、承認を得るために他者が自分に何を期待しているかその顔色を常に伺わなければならない。若者にとって「幸福」と「不幸」を分かつのは仲間とのコミュニケーションとそれによる「承認」の有無であり、その承認のあかしとなるのが「キャラ」となる。
"複数性と流動性に開かれた「キャラ」に依拠した「承認」は、場合によっては「空虚さ」以上の苦痛をもたらすだろう。問題は「無意味さ」ではなく、むしろ「不本意な意味(=キャラ)を強要されること」なのだから。(p.255)"
筆者はさらに、精神分析の観点から「キャラ」を解離性同一性障害(DID)における交代人格との関連で論じる。交代人格には"「名前」があり、年齢、性別、おおよその性格傾向や趣味嗜��といった明確な「スペック」(p.213)"が与えられており、記述不可能な「固有名」を持たない。
"いわゆる「固有名」とは「欠如としての主体」に与えられた名であり、確定記述の束に還元できない一つの無意味な刻印である。この刻印において、主体の単独性(かけがえのなさ)と可算性(人類の一員、といった匿名性)という相矛盾する属性が両立している。これが精神分析的な「人間」のモデルである。
しかし昨今の操作主義的な風潮のもと、固有名への信仰は急速に衰弱しつつある。「人間」は可能な限り操作可能、すなわち記述可能な存在へと書き換えられていく。そして記述可能性に開かれることは、固有性を喪失して匿名性へと向かう方向でもある。そこには同時に複数化の契機も含まれている。(p.217)"
このような人格のキャラ化の問題点は、一度与えられたキャラからの変化・成長が、仲間同士での関係性を破壊するとして抑圧・排除される点にある。「変わらなさ」への確信は、実際に筆者が臨床の現場で若者に対して感じていることでもあるという。
ここまでは現状の分析だが、筆者は人格のキャラ化の原因として「社会の成熟-個人の未成熟」という視点を示す。
"そもそも操作主義化の前提には社会の成熟化があり、社会の成熟は個人の未成熟化をうながす。つまり、キャラとは、個人がもはや成熟を要請されない社会における存在様式の一つと考えられる。(p.219)"
僕自身は「成熟」を自明のものと考えていたので、(精神の)成熟が身体的成熟のアナロジーで捉えられる以上、身体性の変化に伴い"あらたな精神の自由と安定のスタイル(p.227)"が生まれるだろうという予測は衝撃的だった。
単行本の初版は2013年なのでちょうど僕が中学生だった頃なのだが、僕が鈍かったのか、学校におけるスクールカーストについてはあまり実感がない。しかし、「あいつはいじられキャラだから」みたいな物言いは僕も普通にするし、「キャラ」という概念に慣れ親しんでいるのは事実である。昨今の風潮(の少なくとも一面)を「操作主義」、そして「キャラ」と「コミュ力」で説明する試みは、非常にうまくいっているように思えた。言語化できずにモヤモヤと感じていたことを、スパッと整理してくれた一冊だった。惜しむらくは、冒頭に書いたように説明が重複しているのと、各章が短いのもあって論理展開の説明が不十分に感じた箇所があった。
思春期解剖学
1 若者文化と思春期
2 終わりある物語と終わりなき承認
3 若者の気分とうつ病をめぐって
4 「良い子」の挫折とひきこもり
5 サブカルチャー/ネットとのつきあい方
6 子どもから親への家庭内暴力
7 秋葉原事件---三年後の考察
8 震災と「嘘つき」
精神医学へのささやかな抵抗
9 「精神媒介者」であるために
10 Snap diagnosis事始め
11 現代型うつ病は病気か
12 すべてが「うつ」になる---「操作主義」のボトルネック
13 悪い卵とシステム、あるいは解離性憤怒
14 「アイデンティティ」から「キャラ」へ
15 ミメーシスと身体性
16 フランクルは誰にイエスと言ったのか
17 早期介入プランへの控えめな懸念
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表紙のキャッチーさとは異なり、門外漢である自身にはかなり難解な内容。
スクールカーストにおける「キャラ」の役割(というよりスクールカーストが「キャラ」そのもの?)
コミュ力至上主義
エヴァの3人が暗示する「承認」を軸としたキャラクター設定
ラノベが漫画を写生する、
といった承認が身近な例としてどんなところに表れているか、についての事例については納得する箇所が多々あった。
自分もこの承認を求めて日々暮らしてる部分が多々あるけど、それに苦しめられすぎずにしたい。このような書籍を読んで、メタ的視点を持つことで、心が楽になる作用はあると思う。