紙の本
主人公が男子
2022/01/03 23:48
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投稿者:びずん - この投稿者のレビュー一覧を見る
しかも片や高校生、片や大学生という精神的にアンバランスな時分の青年たちだ。日常生活にちょっと不満を持ちながらも、その環境でなければ生きていけないことを知っている(知りたくないけど)。でもやっぱりちょっとは冒険したい気持ちだってある。あの人は一体どうして。自分がこうしたら相手はどうするだろうか。思うように真っ直ぐ生きてみて、違ったら直してもいいし、直す勇気がでなくてもいい。いつか出来るようになったり、回避する術を知ったりするから。そうやって大人になって、子どもたちに見られながら、また悩むんだ。
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2020.6.27再読了。
ウィッカーマンの意味をあとがきで知る。
終わり方に希望を感じる。
サイガサマのウィッカーマン では、サイガサマの力?か、何かを奪われた代わりに、それぞれの暮らしが動き始める。
バイアブランカの地層と少女 では、少女とのやり取りを経て、自分の力で外の世界へ出ようとする。
高校生と大学生と近い世代の男の子(男性?)が主人公であることも、二作の共通点。
記憶に残っていたのは、サイガサマの方。
サイガサマの文化が印象的で。
今回読み直して、バイアブランカも良かった。
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高校生シゲルの町には、自分の体の「取られたくない」部分を工作して、神様に捧げる奇妙な祭がある。閉塞した日常の中、彼が神様に託したものとは…。ささくれた心に希望の光を灯す物語2編を収録。
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巡り合わせというものだけはどうしても科学で説明できない。そこに宗教や民俗信仰、祈りといったものの無視できない価値があるのは確か。お祈りなんて馬鹿らしいとどこかで感じずにはいられない現代人と、宗教や信仰は、この小説のような感じで共生していくんだなと思った。外から見たらいかにも怪しげな土着信仰のお祭りを担っているのがごく普通の一般人というのが印象的。偶然を奇跡や迷信に回収して人々を安心させるという大層な役目の一方、その運営はいかにも草の根的・現実的なのが可笑しかった。けれど同時に、これはかなり実態に近い姿なのだろうなと思った。
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短篇2つが収録されており、どちらも主人公が何かに対して祈ってる。
「サイガサマのウィッカーマン」
『エヴリシング・フロウズ』でもあったが、主人公が自分の圧倒的な無力さに傷付くシーンが印象的だった。
たとえどこかの大富豪であっても、自分ではどうにもならないことはあるだろう。ましてや、高校生の主人公が、家やお金の問題に苦しむ同級生の女性に何ができるというのか。
そんな主人公は、この小説に出てくる神「サイガサマ」の特徴でもある、「物事をあんまりよくわかっていない様子なのだが、とにかくできる範囲でやってみよう、という意識のようなもの」(p.135)を纏うようになる。冒頭から延々ととげとげしい主人公がお供え物を入れるシーンには、非常に心を打たれた。
「バイアブランカの地層と少女」
「自分が幸せだと感じたのは、その夜で何年ぶりだっただろうか。いや、下宿で豚汁に好きなだけごまをふりかけている時などはだいたいそう思っているのだが、そういう自力で何とかできることではなく誰かから幸せだと思わせてもらえること。恩寵のようなこと。」
恋愛の喜びを表現する素敵な文だなぁと思うけど、この小説の素敵なところは、そこではないことにすぐ気付くことになる。不器用で無礼な主人公の青春、そんなものに羨望なり美しさを見てしまうのは実際上よくないことかも知れないが、「恩寵のようなこと」以上に素敵なことが自分でない誰かに起こるように祈る美しさ。
人には人の領分があるし、限界もある。人のためにできることなんて大したものはなく、やるだけやって最後に残るのは祈ることくらい。そして、これは先日旅行に行った際、神社にお参りした時感じたことだけど、誰かのために祈るということは、実は非常に難しいことでもある。
人を思う気持ちから変わってゆくふたりの主人公が、忘れかけていたことを思い出させてくれた気がした。
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珍しいタイトルの付け方ですが、収録作品のどちらも「祈り」に関するお話。
主人公が男で、高校生と大学生で、何気ない学生ライフを繊細に描いてるなと思います。不幸でもないけれど、取り立てて幸せでもないという津村先生の独特の世界観が読んでいて見える様でした。
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いずれも表題作ではない2作を収録した本作は、大事なひとのために祈る青年(高校生と大学生)を好意的に描いています。
そう書くと、いかにも主人公らしい人物像を思い浮かべるかもしれませんが、そこは津村さんの作品ですから・・・独特の悩みを抱えてます。
そう書くと、いかにも純文学らしい人物像を思い浮かべるかもしれませんが、そこは津村さんの作品ですから・・・独特の笑いを味わえます。
村上春樹氏の言う「小確幸」(小さいけれども確かな幸せ)にも通ずる、細やかだけれども確かな幸せ(「細確幸」?)を感じれる2作でした。
個人的に、それぞれの作品で感じ入った一節は以下のとおりです。
「うっさいボケ帰れ」
(「サイガサマのウィッカーマン」)
「そして正座してちゃぶ台の上で書店の袋からガイドと参考書を出した今、凝視しているのは目のくらむような肉料理の写真ばかりだ。(中略)作朗の羨望を煽る。前にまやちゃんの部屋かどこかで見せてもらったフランス料理の本には、特に何の感慨も抱かなかったというのに」。
(「バイアブランカの地層と少女」)
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ーーー1回は作ろうと思って作った家族やろうがーーー
津村さんの小説は集中力を要する。
読みはじめ、買ったばかりのスポンジみたいに弾きまくるので脳に世界観が定着するまで時間がすこし必要。なのに確実にどこかで読み手のこちら側が切り替わる瞬間があって、そうするともうぐいぐい、使い古したスポンジよろしくぐいぐい設定や文章が脳みそに入り込んできて、あー、まだこの世界にいたい、帰りたくない、読み終わりたくなーいってなる。
本作は、最初のスイッチがなかなか入らず、んー、とおもっていたのだけど、やはりすごい、いつのまにか引き込まれていた。
「サイガサマのウィッカーマン」
「バイアブランカの地層と少女」
どっちもすごいタイトルだ。
タイトルだけでまったく話が読めない。
どちらも、「大切な誰かのために祈ることはこんなにも愛おしい」という内容なので「これからお祈りにいきます」という別タイトルが本自体のタイトルになっている。
どちらの作品も男の子がちっちゃく恋愛していて微笑ましい。
ちょっといいなって思っている相手からのメールの返信待っているときにメールが来て、開くまでの一瞬に違う人からだって頭の中で予防線を張る描写、すっごいわかるなあああとおもった。
こういう文章をさらっと(きっと書いているときはさらっとではないのだろうけれど)書いてしまうところがとてもよい。
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角川文庫版。
津村記久子らしく、不思議な高揚感と、どっしり地に足のついた感が楽しめるように思う。
少し冗長だが西崎氏の解説も良かった。
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願い事を叶える代わりにからだの一部をもっていくサイガサマ。持っていかれたくない部分を工作して、それを捧げる。町全体で行われるお祭りに、少し不思議な雰囲気と、変わらない日常が入り交じって、ほんの少し期待がうまれる。悩ましい毎日はそんな上手く良い方へ変わらないけれど、最後にまさかのサイガサマのへっぽこな力?が心をぽっと温かくしてくれる。誰かのささやかな願いが誰かを救っているのかもしれない。
関西弁で繰り広げられる物語でテンポ良く読めました(^-^)
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いや~津村さんの安定感凄いわ。
本当に登場人物がリアルというか、無駄にハイスペックだったり無駄に悪人だったりってのが無くて、過不足無く丁度いい塩梅なのが最高。
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なぜか読みもらしていたので購入。エブリシングフロウズでも思ったが、一人称語りの10代の子の心の声をかくのが抜群にうまいなあ。10代の子に限らないのだが、とにかく途切れそうで途切れないうねるような文体がこちらの心の凹凸にぴったり沿うような感覚をおぼえる。津村紀久子という作家の作品をリアルタイムで読めることを幸せに思う。彼女のファンであるということをなぜか自慢したくなる。
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お祈りがベースにある中編と短編
中編の「さいがさまのウィッカーマン」の主人公の住む町のサイガサマのお祭り。ウィッカーマンだなんて怖すぎる。こぶとりじいさんのこぶだったらいいけれど、でもこの町の人々は引き換えになっても叶えたいことのために、むしろ喜んで受け入れる。シゲルのたんたんとした人間観察も面白いし、きっとこうなると思っていた酷いニキビの落ちが半分だけなのには笑ってしまった。
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あなたは、どんな時に『お祈り』をするでしょうか?
合格祈願、安産祈願、そして宝くじが当たりますようにといったものまで、人が『お祈り』をする目的はさまざまです。普段、神社仏閣には見向きもしない、そんな人であっても、何か困りごとがあるとそんな神社仏閣に赴いて厳かな気持ちで手を合わせ『お祈り』をする。祈られる側になったことはありませんが、神様仏様も、そんな私たちのことを随分と身勝手な奴らと呆れて見ているかもしれません。
そんな風に私たちの願い事というものはさまざまです。一方でそんな『お祈り』によって叶えて欲しいと思う先も多種多様だと思います。それは、自分のことかもしれません、家族のことかもしれません、そして、特別に思う誰かのことかもしれません。相手が誰にせよ『お祈り』をする時はその人のことを気にかけ、その人のことを深く思い、そしてその人が幸せになるようにと願いをかけるものです。
ここにそんな『お祈り』をテーマに書かれた二編を収録した作品があります。「これからお祈りにいきます」というこの作品。それは、
『何事もないように。いやもちろん何事かはあるだろうけれど、あらゆる物事ができるだけ早くそこから回復できるように』。
そんな願いを『お祈り』の先の未来に見る主人公たちの日常を描いた物語です。
『酸っぱさと革が入り混じったような臭いで目が覚めた』のは主人公の高嶋滋(タカシマ シゲル)。そんなシゲルは、『もっと寝ていたい、と朦朧とする頭を振りながら』、ニスの臭いの元となっている『弟が廊下で乾かしている紙粘土細工』を階段から階下に落とします。『この数か月ほど』、『ときどきにしか登校せずに、ひたすら自宅で紙粘土細工を作り続けている』中二の弟のことを思うシゲルは、弟には『人間的なものが欠けている』と考えます。そんなシゲルは『毎朝毎朝登校しなければいけないこと』、『吹き出物だらけで皮脂が出やすい体質』など、『自分の身の周りで起こるだいたいのことに怒ってい』ました。一方で『図工や家庭科の時間に作った人体の一部を捧げるサイガサマについての自由研究作文』で『市長賞をもらった』ことのあるシゲルは、弟が『サイガサマに捧げる』ために『人間の体の内と外にあるものをすべて作っていくつもり』ではないかと訝しがります。『あの神様に関わって以来むしろおれは下り坂だと』考えるシゲルは、『母親はアホだし、おまえは頭がおかしくなったし、父親は不倫をしている』と『弟に言ってやりたいと思』います。場面は変わり、『公民館でのアルバイト』をするシゲルは『図書室から掃除を始め』ました。そんな中、『職員さんのほうを手伝ってくれへんかな』と上司の持田から頼まれたシゲルは『申告物教室の夜間受付』を担当します。『諸願成就と交換に、人間の体の一部を持っていくという』『サイガサマ』。一方で『手当たり次第に体の一部を持っていかれると、命がなくなってしまう場合もあるので、「基本これだけはやめてください」という意味で申告物を作り、年に一回それを捧げる』という毎年冬至に行われる恒例の祭りへ向けて『申告物』を作るために教室へと通う人たちを受け付けるシゲルは、『この町の人々の申告物作りに対する関心の高さ』に『やや辟易』もします。そんなシゲルの日々の暮らしと家族との関係が祭りの日のXデーへと向けて淡々と描かれていきます…という中編〈サイガサマのウィッカーマン〉。どこかゴツゴツとした印象の読みづらい冒頭を経て、いつかしら『サイガサマ』という独特な祭りにどこか囚われていくのを感じる好編でした。
一つの中編と一つの短編から構成されるという少し不思議なバランスのこの作品。両方の作品に関連はありませんが書名の通り『お祈り』に関連した内容が提示されています。ではまず、それぞれの作品について、一見摩訶不思議なタイトルとともに、その内容をご紹介しましょう。
・〈サイガサマのウィッカーマン〉: 『自分の身の周りで起こるだいたいのことに怒っている』という高校生の高嶋滋が主人公。『母親はアホだし』、中二の弟は『不登校を貫いている』し、『父親は不倫をしている』と家族にも腹を立てています。そんなシゲルは、こちらも不満はあるものの『公民館の清掃アルバイト』をしています。そんな中、毎年冬至に行われる町をあげての『サイガサマ』の祭りへ向けて『申告物』を準備するための教室の受付を担当させられます。そして、祭りのXデーへ向けてバイトを続けるシゲルの日常が描かれていきます。
・〈バイアブランカの地層と少女〉: 京都にある大学の『学生ガイドサークル』に所属しているのは主人公の十和田作朗。そんな作朗は、『高校三年の晩秋に地学部の吉村みづきちゃんに、家の真下に活断層が通っていることを指摘され』、『しばらくの間不眠に陥った』過去を引きずっています。そんな作朗は『京都観光に興味がある外人のためのコミュニティ』サイトを知り、頻繁にコメントを書くようになります。そんな中、Juanaというブエノスアイレスに暮らす女子学生とメールでの交流が始まり、やりとりの中で力強い一歩を踏み出していきます。
二つの作品の分量は2 : 1といったところであり、一冊の本に収録される二作としてはどこかバランスが悪いようにも感じます。もちろん人にもよると思いますが、そんな長短も影響しているのか、読後に印象に残るのは圧倒的に一編目の〈サイガサマのウィッカーマン〉だと思います。『サイガサマ』とカタカナで書いてあると意味不明ですが、主人公の暮らす町の名前が『雜賀町(さいがちょう)』であると漢字で書けばなるほどとお分かりいただけると思います。そう、この『サイガサマ』というのは『雜賀町』をあげて一年に一度行われる冬至の日の祭りの対象であり、その『サイガサマ』という神様に対する町の人たちの”信仰”が興味深く描かれていきます。そんな物語の冒頭は一見意味不明です。そもそも『自分の身の周りで起こるだいたいのことに怒っている』と、苛立ちの感情が先行する主人公のシゲルは、この作品を読み始めた読者の感情移入を激しく拒みます。私も久しぶりに途中で読むのを投げ出しそうになるのをひたすらに堪える我慢の読書を強いられました。そんな読む側である私の苛立ちを抑えてくれたのがこの『サイガサマ』という摩訶不思議な神様のお話でした。それが、『諸願成就と交換に、人間の体の一部を持っていく』という不思議な神様の行為です。願い���叶えてもらうために私たちは、神様に『お祈り』をします。しかし、その代償として体の一部を持って行かれるというのは、祈ること自体を躊躇するものがあります。そんな中で妥協の産物とも言えるのが『「基本これだけはやめてください」という意味で申告物』を作って、年に一回、冬至の日に捧げるという考え方です。子どもたちも、そして大人たちも、そのXデーに向けてひたすらに『申告物』の準備をするという展開が描かれていく物語は、見方によっては狂気ですが、この作品を読んでそんな風に捉える人はまずいないと思います。どこかコミカルで、どこか微笑ましい、そんな物語が展開していくからです。そんな中であれほど嫌悪感を感じていた主人公のシゲルにいつの間にか感情が移っていることに驚く結末に、津村さんの主人公に対する愛情の眼差しを感じました。
“芥川賞作家が瑞々しく描き出す、不器用な私たちのまっすぐな祈りの物語”と宣伝文句にうたわれるこの作品。そこには、どこか不安定な青春を生きる主人公たちの姿がありました。そんな背景に描かれていく祈りという行為の先にあるこの物語。
人が祈りという行為を行う時には、そこにその行為によって何かを変えたい、何かを助けたい、そして何かに幸せをもたらしたい、そんな思いが背景にあるのだと思います。一方で、人がそんな風に何かに強く『お祈り』をする時は、その何かのことを強く思い、さまざまな努力をします。そんな強い思いのその先に『お祈り』という行為が存在するのだと思います。この作品の主人公たちは、何かしら不安定な心の中に生きていました。そんな中で誰かのために祈りを捧げるという行為は、そんな祈りを捧げる主人公たちの行動を、そして、心のあり様も変えていく、そんな物語がこの作品には描かれていたのだと思います。
一種の”青春もの”とも言える世界観の中に、『祈り』をテーマに書かれた二つの物語から構成されたこの作品。冒頭からは全く予想できない爽やかな結末に、ほんの少しだけれど確かに一歩前に進むことのできた、そんな主人公たちの未来を感じた作品でした。
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すごく面白かったです
誰かのための祈りというのは何だか途方もないことだけど、どこかできっと通じてるようなそんな気になる中編2作でした
どちらとも好きでしたが、私は『サイガサマのウィッカーマン』の方が好みでした
何となく色々上手くいってないフツウの高校生の男の子が主人公なんですが、この世代の何だか分からないけど手当たり次第にイラついてるという感じが思春期全開という感じでとても良かったです
いまいち異様に熱心な祭りのあれこれについていけないのに結局その周辺を手伝うことになったり、家族もなんだかバラバラで別にそんなに上手くいってなかったりするけど学費のことなどきちんと考える…
内心どう思ってようとシゲルは基本的にきちんとした男の子という印象でした
バイアブランカの地層と少女も好きでした
果たして作郎はいつか一人で地球の裏側に行けるんだろうか?
どちらの作品も明るい方へ向かう終わり方で良かったです
津村先生の作品はやっぱり面白い!